戦後80年 青い山、みどりの川 峰岸 満佐子
1945年、敗戦の年、私は10歳でした。 その一年ほど前、池袋駅の近くにあった生家の店は、強制疎開ということで取り壊され ました。そのころには番頭さんも、そして父も出征していて、母はそれよりずっと前から東村山の保生園(ほせいえん) という、結核療養所に入っていました。子どもは兄と私の二人で、兄はすでに長野の山田温泉に学童疎開していました。私の通っていた別の小学校が軽井沢の大学の寮に疎開することになったとき、「せめて子どもたちだけでも一緒の方がいい」というおじいさんの一言で、私は転校しておばに連れられ兄のいる長野の山田温泉に行くことになりました。
「青い山、みどりの川にかこまれて、湯の香も香る学寮に、御戦人(みいくさびと) 御魂(おんたましい)、強くいだいて 朝夕(あさゆう)に、たゆまず励み続けよう」主事先生がつくられたというこの歌が、今もときどき口をついて出てきます。
敗戦の年の6月に母が亡くなりました。その一月ほど前、「ハハキトク」との知らせが入り、そのころ寮母さんになっていた若いおばに連れられて東京にもどりました。兄は足のけがで一緒に来られなかったのです。そのとき渋谷のおじいさんの家で空襲にあいました。 家の前が代々木練兵場(今のNHKのあたり)だったのです。まだ静かだった松涛の方にまず逃げて行きました。飛行機が低空で来た時は道の端の溝に突伏したりもしました。その後もう大丈夫だろうというおじいさんの判断で代々木練兵場の方にもどり、上にあがってみると、一足ごとに焼夷弾が突き刺さっていました。その最後の一発のようなものが目の前にひと塊になっていた人たちの中に落ちてきたりもしたのです。草原のはるか遠くの方では火の粉が渦をまいて走っていました。みんなどっと疲れてその場に坐り込んでしまいました。
おばあさんは毎朝仏壇の前で唱えていたお経をつぶやいていました。私も一緒に「南無阿弥陀仏」と口にしていました。その後、甲州街道を調布の親戚の家まで歩いていくことになりました。倒れている電柱などをよけながら明大前まで来たところで、おばあさんが築地本願寺の廟所(ひょうしょ)に立ち寄り、丁度つくっていらしたおむすびを人数分いただいてこられました。そのおいしかったこと、有り難かったことが忘れられません。
上京の目的だった母に会ったのは多分、空襲の前だったのでしょうか? はっきりしませんが、母の病室に入ったとき、二人ともお互いの顔を見合っただけで涙 、涙 、涙 で何も言えませんでした。私は病室を出るとき、思わずそこにあった消毒用の洗面器に手を入れてしまいました。後で病気の母をいたわる気持ちに反する行為のように思えて悔やまれました。そのあと、一緒に来てくれたおばが母に会ったときは、いろいろ話ができたと聞いて驚きました。
6月のはじめ東京から早々にもどったとき、私たち池袋第五小学校の262名の学童疎開地だった山田温泉は丸焼けになっていました。しかも火元になった旅館の三階にいた女の子など8名ほどが亡くなるといういたましい結果を伴うものでもありました。それに三階から生徒を抱きかかえて飛び降りられた女の先生が大きなけがをされていました。真夜中の火事で焼けだされた子どもたちは山田温泉から小布施に下っていく途中の農家の一軒一軒に一人ずつ里子のように引き受けていただいていたのです。そしてそれが一か月ほど続いたのです。もちろん私の行く家も決まっていました。温泉に一番近い「荻久保」の宮川喜代之亟(きよのじょう)さんの家でした。囲炉裏にマキをくべながらおばさんが言ってくれました。「うちは貧乏だけど子どもが大好きな家だから心配ないよ。お母さんが病気でもうらしい(かわいそうに)」。と。その通りの家でした。そしてその交流はその後もずっと続きました。
ところで私には、8月15日のラジオの記憶がないのです。学童疎開は11月まで続きました、専用列車がたどりついた池袋の駅前に広がっていたのは、一面の焼け野原とバラックでした。
(聖書を読む会)
