戦後80年 私と『あの日』 関口 絢子
1945年8月5日の夜。
当時7歳(小学校1年生)の私は、前橋市に住んでいて「前橋の空襲」を体験した。夕方から警戒警報のサイレンは鳴り止まず、探照灯(たんしょうとう サーチライト)が何本も空を照らし、不安な思いで一杯だった。
市の中心部の空はすでに赤く染まり、市街地から少し離れていた私たち家族も市街地から逃げてくる大勢の人々の列に加わって、さらに郊外に向かって夢中で逃げた。祖母が負ぶっていた赤ちゃん(従弟が赤ちゃんだった)に掛けた白いケープを敵機から目立つから外すようにと男の人が大声でどなっていた。突然、私のすぐ目の前にいた私と同じ年恰好の女の子の上に空から何かが落ちてきて、急に姿が見えなくなった。しかし後から後から逃げ急ぐ人が続き、倒れた少女を気遣うこともできなかった。今も忘れられない。
我が家から4㎞程郊外にある叔母の家を目指しての道々は本当に戦火の中を逃げ惑う命がけの恐ろしい体験だった。焼夷弾の油が燃えながら流れていて川も火の海だった。疲れて水田の畔(あぜ)に腰を下ろした時、「そこにいたら死ぬぞ!」と叫ぶ男の人の大声にまた、逃げ惑うのだった。その辺に死者が多かったと、後から聞いた。豚小屋から聞えてきた豚のキーキーという悲鳴のような鳴き声が今も耳に残っている。焼夷弾の大爆音と火の手が上がる中を必死で逃げた。途中で両親とはぐれてしまったが、幸い出会うことができ、叔母の家に身を寄せることができた時は、本当にほっとしたのだった。
庭の桃の木の根元に焼夷弾が突き刺さって消失を免れた我が家は、市街地から焼け出された親戚、知人が身を寄せていた。焼夷弾の破片が突き刺さって怪我をした老人のうめき声もまだ耳に残っている。8月15日「もう戦争は終わったんだよ。防空壕ももういらないし、焼夷弾ももう落ちないよ」と聞いた時の幼心(おさなごころ)に深く感じた安堵を忘れることはない。
戦争は絶対してはいけない。戦火を逃げ惑う体験など、絶対誰にも味わわせたくない。体験した者がどんどん少なくなってきて、体験した者が語らなければいつの間にか無かったことのようになってしまいかねないことを危惧して幼き日の戦争体験の一部を書かせて貰いました。戦争を二度と繰り返さぬことを願い、祈りつつ。
(誌友・相模大野キリスト集会)
