【新刊紹介】秋山憲兄編(新教出版社刊)『高倉徳太郎日記』 小塩 節
高倉徳太郎(1885―1934年、明治18―昭和9年)は、 近世及び明治以降の日本のキリスト教界でおそらく初めて自覚的かつ自律的な福音主義神学を確立しようとした人です。しかし彼はまず何よりも牧師でした。僅か49年の生涯でし たが、牧師として熱心に教会を牧し、聖餐と洗礼を重んじて 激烈な説教を重ね(多いときは1日曜日に4回)、日夜多くの人 の来訪を受け、また日に20人以上の信徒訪問を続けたこともある。実に獅子奮迅の働きをし、信濃町教会を設立し、神学社(校)の責任を負い、全国各地に講演・伝道説教を行い、 文筆活動にもすさまじい活躍をして、「言」と「贖罪」と「恩寵」 を柱とする神学と伝道に生きたひとりの異いなる偉い人でした。
残された写真を見ると、その相貌はおそらく中世の日本仏 教の開祖たちにも似た、広い額に鼻が大きく、両頬骨の張っ た傲岸な面つら構えです。肩をいからせ、ひび割れた声で語る言説は激しい。魂は義と信に満ちて、いわゆる心やさしく物分りのいい牧師先生ではない。その厳しい言葉に傷ついた人もあったでしょう。
全生涯にわたる著作と説教の数々は今も出版されていて 私たちの心を打ちますが、牧師として立った大正二年一月 から逝去の数日前の絶筆までの全日記が一巻となって、昨2014年クリスマスに新教出版社から刊行されました。「抄」 ではなく、「全」日記です。驚くべくまめに日毎の日記はつけ られています。膨大な全十巻の「全集」に既に公表されてい たものに、此の度、大量の未発表分をすべて加えて、現代か な遣いに改め、一言半句ないがしろにせず、原典に忠実・精 確に編集、出版されました。例えば有名なトーマス・マンの 膨大な日記などは、あらかじめ公表出版を予定し計算しつくしたものですが、本書は全くその意思はなかったものを、異例ながら、遺族の了解と協力を得て印刷したのです。もっと 具体的な一例を挙げれば、最晩年の日記は筆力が落ちて私ど もには(写真で見ても)まったく判読できないものを、長男高倉徹牧師が慎重精確に解読し、若き日からの親友秋山憲の りえ兄さ んの手にすべて委ねたのです。これは日本の教会と神学の歴 史に大きな意味を持つでしょう。
信濃町教会を支えた長年の役員であり、新教出版社を営々 と築いてきた秋山憲兄さんが、96歳の生涯の文字通り終わりまで、亡き師への尽きぬ敬愛をこめて編集に当たってきたのですが、進捗のぐあいを秋山さんご自身から折々伺って いた私は、ご令息秋山眞兄さんから一本をいただきました。細字ながら鮮明で清潔な版面となっておりますが、なんと一 巻で903頁です!大冊です。
若き牧者は、説教の折に会衆の目を見なかった。友人から目を見ろとさとされて従います。面白い!
会衆に全力で「アピール」しえたかを自ら問い、その度に「感謝」をしている。歳とともにうねりをあげて展開されていく生涯の毎日毎日は、 驚くべき自信と自負に満ちていながら、痛切な自省反省を繰 り返し、「十字架」に体当たりしながらたえず「祈れ」と自分 を励まし叱咤している。世の常の日記とは大違い。そのことばは簡潔ですが自己にきびしい。備忘録であるよりは自己糾 弾であり、しかも愛する弟子、多くの友人、家族の者たちへ の深い感謝がみちています。とくに森明師と「共助会」には、 深い友情と敬意を持ち続け、中渋谷教会をよく助けました。
春浅い日に、私はいただいたこの1冊の部厚い本を3日か けて読み終えました。その夜、眼鏡をはずして両の手を目に 当て、瞼をもんで休めようとしたのですが、指の間、掌の下 から涙があふれ出てとまりません。曉方、ようやく床に入っ ても涙は止まりませんでした。生まれて初めての経験でした。 それには少なくとも3つの理由があったようです。第1には、日本でキリスト者であるとは、何と難しいことか。第2に、牧師とは何と責任重く、困難 な使命であることか。そして 第3に、神経が過労のあまり 痛み切って、ついには「死へ の疾走」となっていくこの人 の最期。それが悲痛でした。
第1、第2のことについて短く言えば、この牧師は余りに 忙しすぎました。過密運転に過ぎました。そして牧師の家庭 はここでも、家計に苦労した跡がふと読みとれて胸が痛みます。ヨーロッパの牧師たちと何と違うことか。例えば有名な カール・バルトはナチに抵抗しつつも、朝な夕なに悠々とモー ツァルトを聴き、ゼミの開始前には集まったゼミ生たちとビー ルをジョッキ一杯飲み干してから、たのしくも厳しい教義学 演習に入っていった。そのゆとり、人間らしさ、豊かさ、そ れは日本の牧師とその家庭では、歯ぎしりしても望みえませ ん。
しかし、これは召命を受けた者、日本でキリスト者たる者 が覚悟すべきことでしょう。嘆いて悲しむことではあります まい。でも、高倉牧師には、もうほんの少しでも、時間(とそして気持ち)のゆとりが与えられてほしかった。そうすれば牧 師職の重荷が彼を圧しつぶすまでにはならなかったでしょう。 そして「眠れない」つまり不眠の続く身心の数年にわたる衰弱、 それを日々記録していくこの病状記。最後は「くるう」ので はないかと自ら恐れた、その心の深い闇。でも長男徹氏の受 洗の報らせは、主の光のごとく射しこんできます。光と闇! 今ならうつの診断と療法とはかなりあるのに、なんと悲痛な ことであったでしょう。
しかし何もかもが悲痛であったわけではありません。1921年(大正10年、36歳)から足掛け3年間のイギリス留学中の日記は、晴れやかで明るい。まずはスコットランドのエディンバラ大学に学び、英語の講義・説教を聞き、討 論は難しくても教授たちと突つ込んだ対話を重ね、小論文を 提出し、なおされ、ときには「とんちんかん」でもあります。 そうでしょうとも。しかし彼の研究は確実に進み、その神学 は「学問」として高い評価を受けます。「寒い、寒い」とこぼ しながら故郷の専子夫人からの便りを待ち、受けては喜び、 いわゆる留学生らしい日々を過ごしている様子が詳しい。自然よりも人間観察をたのしんでいる。この間も猛烈な読書で す。これは一生変わりません。とくにフォーアサイスを熟読し、 のちのちまでも最も深い影響を受ける。翌年はオックスフォードに移りますが、外出せずに読書に没頭、3年目にケンブリッ ジでも変わらず宿にこもりきりでひたすら読書に没頭する。 夏目漱石の留学生活に似ています。それはそれで、ある種の 日本人留学生らしいと微笑まずにはいられません。私費留学 ですから同じ留学でも帝国陸軍軍医の森 鴎外はむろん、官費 留学費が少ないと文句たらたらの漱石とさえ比較にならぬ苦 労もあったでしょうし、送り出した留守家族がよくも支えた と思います。ともかくこの三年間、胃腸のぐあいが必ずしも 良からずとはいえ、たまさかの不眠という記載を除いては何 一つ暗さはない。よかったなあと思います。たった一度の人生でしたから。―信濃町教会設立はこの後になります。
彼の晩年を最後まで暖かく守り支えつつ、祈りを共にした のは、長女光子でした。そのことをこの父は日記につよく刻 みこんで深く感謝しています。それは苦難の谷に咲く香り高い花のようであります。
参考文献
*小塩力『高倉徳太郎伝』新教出版社、1954年。
*日本の説教8『高倉徳太郎』(池田 伯解説)日本キリスト教団出版局、2003年。
*高倉徳太郎『福音的キリスト教』(小塩 力・宮田光雄解説)新教出版社、2014年。