菜園班 3年(29期) 奥田 時生(とき)
畑を耕す。休み明けは雑草が生えて、1種の森と化す。その都度、野菜を育てるために雑草を殺して、開墾する。雨が降る。雑草が抜けやすくなり、土は潤う。その土をまた耕す。虫に会う。色々な幼虫が出てくる。ミミズが顔を出し、「今日も、いつも通りよろしく」と頼むと、また深くへと潜っていく。畝を作る。真っ直ぐに。これが曲がれば心の乱れ。乱れまいと、真っ直ぐ、丁寧に。そして、畑に波が出来る。この波の列に沿って、種を蒔く。種は芽を出し、成長を見せる。私は雑草を抜き、雨水を撒く。辛抱強く待つ。野菜は生長する。そして、収穫の時、心から喜ぶ。さまざまな感情を持つ。そして私たちは感謝して、食べる。その気持ちを祈りの中と「いただきます」に表す。「いただきます」。そして、「ごちそうさまでした」と。調理で出た生ゴミは、牛糞と混ぜて堆肥、肥料へと変える。その堆肥と私たちから出た排泄物の肥を薄めて畑の土と混ぜる。良い土をつくり、また、種を蒔く。
3年間、共に作業してた友は、この流れから「自分たちは、その循環の中で生きているという実感と感情の豊かさが与えられた」と言った。もう1人の3年間、共に作業してきた友も言った。「植物の循環は変わることなく、ずっと続いてきていて、人間は植物の大きな循環の中に、いさせてもらっている」と。確かに、と私も実感した。しかし一方で、野菜は人の手によって作られる。私がよく思うのは、人間は何かを殺して、犠牲にして生きているということだ。生きるために殺す。殺すという言葉は好きではないが、やはり1番しっくりくるので使わせてもらう。野菜も肉も、それらを育てるために、他の生き物、植物を殺しどかす。この犠牲をもって人は生かされる。私は、犠牲を払うには、それなりの責任と感謝の心を持たなければならない、と作業を通して感じるのである。
「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる』」創世記1章29節。食べ物は、神から与えられた恵みである。無駄にしてはいけない。世界には、飢えに苦しむ飢餓状態の人が9人に1人の割合でいると言われる。その意味でも、決して無駄にしてはいけない。感謝しなければいけない。コリントの信徒への手紙 1 8章8~9節「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」。私たちは、偉そうに、当然のように食べ物を食べてはいけない。高ぶってはいけない。思い上がってはいけない。だから、繰り返し言うが、人の命となる命を育てる責任と、食べるという責任と、感謝の心を持たなければならないと思う。
次は冬野菜の季節。これからも私は、「植える時、植えたものを抜く時」という、神の定められた時を大切に生きていこうと思う。(収穫感謝礼拝感話〔2018年11月18日〕)