寄稿 キリスト教愛真高校

水田山林班  3年(29期) 平尾 愛(あい)

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収穫は自然との戦いなのか、共生なのか。雨が降りすぎてもいけないし、太陽に照らされる日が多すぎてもいけない。雑草だって生えてくるし、虫だって稲を食べにくる。けれど、その稲を育ててくれるのも、また自然だ。雨によって田を潤してくれ、太陽に照らされて養分が作られ、どんどん大きく成長してゆく。そして、収穫されたものが今、私たちの食卓に並んでいる。

水田山林班での作業は、私に生きる力を教えてくれる。田の泥のヌルっとした感触、その中で蠢(うごめ)く生き物たち。1歩踏み出すとすぐに足が沈んでいくような泥の中にしっかりと根を伸ばし、少しずつ大きくなっていく稲たち。時にはフラフラするぐらいに頭上から照らす太陽。空から降ってくる冷たい雨。見渡すと1面の緑、山、田、そんな景色の中をはしゃぎながら自転車で駆け抜ける学生達。草刈り機で草を刈っているおばあさん。汗と泥だらけで笑う班のメンバー。こんなにも、さも当たり前であるかのように存在している当たり前ではないこの生の営み。その脆さ、その力強さ、その美しさ。それら1つひとつの植物、虫、動物、人間達の1つひとつの息づかいが合わさって、1つの壮大な合唱のようになり、私に響いてくる。田んぼに入り、手や田車で草を抜き、それでも抜ききれない雑草に苦笑し、たまにぼーっとして、ふいに聞えてくるメンバーの悲鳴に笑う。そんな年内に4ヶ月くらいしかない水田の作業が、私は何だか好きだった。

だから、藤井拓次郎さんに「3年生はもう田んぼをやることはないかもしれないけど」と言われた時、はっとした。卒業したら、私はもうきっと、この田に戻ってくることはないのだろうと思った。拓次郎さんには本当に色々なことを教わった。田んぼのやり方もそうだけれど、その他にももっと色んなことを。例えば、誰もやらないことに積極的にチャレンジしていくエネルギー。例えば、なかなか上手くいかなくても、いつかは上手くいかせる、上手くいく、と根気よくやる大切さ。例えば、自分の限界を自分で決めず工夫しながらやっていけば、限界だと思っていた所を少しずつ超えていけるということ。そんな拓次郎さんが、拓次郎さんの家での最後の作業の時、私たちにこう言われた。「確かに、穫れる米の量は多ければ多いほど良いし、質も良ければ良いほど良い。でも、そればっかり考えるんじゃなくて、まず、この田んぼで、この環境で、この天候で、この作業量で、こんな量の、こんな米が穫れたということに感謝しなきゃいけない」。本当にその通りだと思った。雨が降らないとか、風が強いとか、雨が多すぎるとか、作業時間的に無理があるとか、そんなことばかり言って気にしたり、諦めたりするんじゃなくて、自分たちにできることを精1杯やって、その結果育ってくれたものに、穫れたことにまず感謝すべきだなと、そう思った。収穫は自然との共生の結果だった。その日の帰りにもらった3㎏の白く精米されたお米は、何だかとてもずっしりして、温かく感じた。大切に食べよう、と思った。

自分にできることを精一杯やった上で、その環境で穫れたものに感謝する。それはきっと、何にでも当てはまるものなんだろうな、と思った。感謝するって、当たり前で、素敵で、大切だ。今年獲れたお米にありがとう。今年お米が獲れたことにありがとう。今年の収穫全てにありがとう。
(収穫感謝礼拝感話〔2018年11月18日〕)