養鶏班 3年(29期) 佐藤 ゆめ花(か)
私は今年度から養鶏班に入った。生き物と触れ合いたいという想いがあったからだ。養鶏班になり、春・夏・秋を1回ずつしか越えていないため、私に語れることは少ないけれど、感謝の思いを込めて、これまでを振り返って感話を述べたいと思う。
朝、エサをあげに小屋の中に入ると、卵を産もうと産卵箱でじっと身体を固くしているニワトリが目に入った。さりげなく様子を窺うと、やがて表面を湿らせた卵が産み落とされる。この光景に私は言葉にならない感動を覚える。母親は何事もなかったかのようにエサをしきりにつつく仲間の下に降り立つ。数秒もすれば卵は乾き、私はそれを手に取る。私の手に包まれた卵はしっかりと熱を帯び、指先にじんわりとぬくもりが伝わる。
ニワトリの存在は私の中で休息の場だ。心が疲れたとき、1人になって自分の心に耳を傾けたいとき、私の居場所であってくれる。心を覆う重たいものを確かにほどき、ありのままの私であらせてくれる。ニワトリを絞めたとき、血ぬきのために逆さにつるしているその横で、地面に広がる血のそばで、普段と変わらず草をつついている他のニワトリたち。死のすぐそばに生があり、生のすぐそばに死がある。この光景に私は不自然さを感じ、同時に生命のはかなさを知る。
産み落とされた卵に手を伸ばし、それをこの手で取る。このことがいただくということなのだと思った。毎日養鶏班が採り、食卓に届く卵はニワトリたちからいただいているもの。イタチに襲われたニワトリの命も、私がこの手で締めたニワトリの命も、決してなくなってしまったとは思わない。土に還り、また人の口に入り、生命を繋いでいく。こうして命は生き続ける。だからこそ、「いただきます」と「ごちそうさまでした」を、感謝の気持ちを込めて言いたいと思う。
自然の営みは美しいと感じる。あるがままの飾らない美しさがあると、心から思う。その美しさを、自然の恵みを肌で、心で、全身で感じられること、思う存分10分すぎるほど味わうことができること、このことに私は心から感謝している。