神様に導かれて 石田 真一郎
【誌上夏期信仰修養会 証しⅡ②】
子ども時代
私は1966年8月2日に東京都杉並区に生まれました。母は千葉県生まれですが実質的には広島県出身、父は長崎生まれです。今に至るまで私のために祈り、私を見守ってくれる父母には、感謝しても感謝しきれません。母方の祖父の兄は、広島で被爆して亡くなったそうです。そのため私は、子どもの頃から原爆の話を多く聞いて育ち、「戦争と平和」に強い関心を抱くようになりました。母がカトリック信徒なので、小学生の頃は日曜日に時々、カトリックの日曜学校に行きました。中学時代は一度か二度、クリスマスミサに行きました。中学時代は考古学に熱中し、日曜日ごとに友達と八王子方面などに縄文土器の破片探しに出かけました。
高校時代
高校は、国際基督教大学高校に入学し、有馬平吉先生とおっしゃる牧師の担任のクラスに入りました。神様のご配慮と感謝しています。国際ギデオン協会配布の新約聖書をいただき、初めて自分の聖書を持ちました。朝一番で校内放送で讃美歌が流れ、私たちのクラスは有馬先生の祈りをもって一日が始まりました。毎週一回、有馬先生が担当の「キリスト教概論」(通称「キリ概」)があり、そこで福音書に触れました。高一の夏休みに、「創世記を全部読んでリポート用紙20枚にまとめる」宿題が出され、創世記を初めて通読しました。十分理解できたわけではありませんが、自分なりに一生懸命取り組み、できあがった時は、達成感を味わいました。
「キリスト教概論」の授業は、聖書を読むにとどまらず、生徒がいろいろな課題について、自分の頭で考えて、ディスカッションするよう求められることが多かったと記憶しています。たとえば、「若い男女が婚約した。その後、女性が障がいをもつ身となったところ、男性は婚約を破棄した。このことについてあなたはどう思いますか。」「妊娠中絶について、どう考えますか。」なお、高校の表門の手前に日本ルーテル神学大学(現・ルーテル学院大学)と中近東文化センターがあり、その間にもう1つ大学がありました。登下校中しばしば通ったのですが、当時の私は「不思議な大学だな」と感じていました。その東京神学大学に後に入学することになるとは、予想もしないことでした。「あなたがたの天の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ福音書6章8節)。神様は、私たちに必要なものをあらかじめ準備して下さっているのですね。
高一の夏に、「第1回 北海道バイブルワークキャンプ」が行われ、有志の先生方と生徒が参加しました。計40名くらいです。有馬先生のクラスからの参加者は多かったのです。参加された先生方は、ほとんどクリスチャンだったと思います。生徒の多くは私も含めて、クリスチャンではなかったと思います。北海道の池田町よりさらに遠くの本別の、廃校となった小学校に泊まり、日中はいくつかの農家に農作業の手伝いに伺い、朝夕の食事は先生方と生徒で作り、お祈りしていただくという約10日でした。
台所にたかるハエをハエ取り紙で減らしました。夕食後に皆で聖書を読み、祈り、翌日の予定を打ち合わせました。ドラム缶風呂を2つ造り、生徒が水をバケツリレーで運びました。高校は開校5年目で、先生方も20~30代とお若かったのです。ある夜、ある生徒が食べ物を軽んじる心ない発言をした時、いつもはユーモア多い男性の先生が、「主よ、私たちは今、罪を犯しました。あなたが与えて下さる食べ物を軽んじた私たちの罪をお赦し下さい」とお祈りされました。心に残っています。私が参加したのはこの1回だけですが、その後も継続され、有馬先生が5年ほど前に「北海道バイブルワークキャンプ同窓生感謝の会」に、私まで呼んで下さり、感謝して参加致しました。
大学時代等
私は1985年に茨城県の筑波大学に入学しました。この時、高一の入学時にいただいたギデオン協会の新約聖書を持って転居しました。考古学を専攻しましたが、部活動に力を入れました。考古学に関心はありましたが、関係者にあまり馴染めず、一生の仕事にはしない方向に傾きました。大学3年秋頃から聖書を読みふけり、特にギデオン協会の聖書には「この時、あなたはここを読んで下さい」とのページがあり、初心の私には大いに助けになりました。
教会に行こうと思いました。高一の時のクラスメートで、高一で洗礼を受けた幸山君という友人がいました。まず彼の教会に行こうと思いました。高校時代に誘われて行ったことがありました。八王子にある日本アッセンブリー教団の教会です。礼拝に出席し、牧師や信徒の方と交流させていただきました。幸山君から「これはいいよ」と言われて『ちいろば』という本を貸してもらいました。榎本保郎先生という牧師の証しの本でした。敗戦で生きる意欲を失った榎本先生が、昔のキリシタンの生き方に触れて感銘を受けクリスチャンになり、伝道者になってゆかれるお姿が率直に書かれていて、心を打たれました。その後、『ちいろば』、『ちいろば余滴』、榎本先生の早天祈祷会での説教を収録した『旧約聖書一日一章』、『新約聖書一日一章』等を買いました。三浦綾子さんの『ちいろば先生物語』にも感銘を受けました。
つくば市で教会を探す必要があると感じ、調べると日本キリスト教団・筑波学園伝道所があると分かり、電話すると、「今は教会になっています。礼拝は日曜午前10:30からです。どうぞおいで下さい」と言われ、出席しました。牧師は稲垣守もり臣と 先生です。礼拝後の交わりにも出席し、青年の知り合いもできました。入門講座にも通い、しばらくした頃、韓国人の池(ち)さんという30代の男性が語りかけて来られました。「よく礼拝に来ておられますが、よかったら一緒に聖書の学びをしませんか」と言われます。信頼できる方と感じ、「では、お願いします」とお答えしました。池さんは稲垣先生の許しを得て、私のアパートに毎週一回平日の夕方に来て、個人的な「聖書を学ぶ会」を行って下さいました。池さんは既に家族をおもちの方で、家族を連れて大学院博士課程に留学しておられました。授業が終わると、私のアパートに来て下さるのです。個人伝道です。ご一緒に聖書を読み、池さんが説明なさる形で続きました。祈りと賛美も行いました。私の友人が来ることもあり、3年ほど続きました。池さんの無償奉仕であり、今思い返しても本当にキリストの愛によるご奉仕だったと、池さんへの深い感謝で胸がいっぱいになります。池さんと意見が違うこともありましたが、親切にして下さった池さんへの感謝の念は変わりません。妻・亜紀代も同じ教会の青年会のメンバーだったので、私たちは結婚して東久留米教会に赴任した1996年の夏に、池さん一家を訪ねて韓国の光州に行きました。
私は筑波学園教会二代目牧師として着任された若月健悟先生より1988年10月23日の礼拝で洗礼を受けました。その時の証で、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)の御言葉を引用しました。大学4年生で就職活動を行っていましたが、進路について悩むようになりました。「神学校に行ったらどうかな」との思いが出て来たのです。牧師に相談すると、同志社大学の神学部に見学に行くことを薦められ、行きました。神学部長の野本真也先生が親切に案内して下さいました。しかしすぐに神学校に行く決心がつかず、筑波大学の修士課程に進み、日本のキリスト教史を勉強することにしました。
ホーリネス教会をテーマにさせていただきました。中田重治牧師を中心に、大正から昭和にかけて伝道を大いに進展させ、分裂を経て、太平洋戦争中に国から厳しい弾圧を受けたホーリネス教会のことを勉強しました。困難な時代の中で苦難を経験なさった教会の歩みを学ぶことで、自分がこれからキリスト者としてどのように歩んだらよいのか、考えようとしたのでしょう。ですが専攻を考古学から変えたので、一度論文審査に落ちました。ところがその日読んだ聖書の御言葉に深い慰めを受けました。「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金としクシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛しあなたの身代わりとして人を与え国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ書43章1~5節)。
恵みによりクリスチャンの先生、キリスト教に好意的な先生との出会いが与えられ、1年後に論文がパスして修了できました。なお、そのコースは各人が世界の諸地域の文化を研究テーマにする比較的自由なコースで、色々なクリスチャンがいました。カトリックのシスターになった方が恐らく2名、ギリシア正教の神父になった方、キリスト教出版社の社員になった方がおられ、私はプロテスタントの牧師にならせていただきました。
神学生時代
1992年4月、25歳の時に、東京神学大学の学部3年次に編入学させていただきました。私は国際基督教大学の緑豊かなキャンパスが大好きでしたから、その隣に戻ることができることを感謝しました。神学校に行くことを考えた時、日本キリスト教団立の東京神学大学という大学があると知りました。その瞬間、「ああ、母校の高校の表門の手前にある大学に違いない」と直感し、「そこに入学したい」と思ったのです。同志社を薦めて下さった恩師の若月先生には申し訳なかったのですが、実家から通える大学の方が経済的に助かることもあり、東京神学大学に入れていただきました。
「牧師になる」という人生の目標がようやく定まりました。まだオウム真理教の事件が起こる前で、世間で宗教に対する警戒感はあまり強くありませんでした。日曜日は筑波学園教会の教会学校と礼拝に通いました。水曜日の祈祷会は、実家の近くの日本キリスト教団久我山教会に通わせていただきました。
その1992年の秋、短い伝道実習のために仙台広瀬河畔教会に10日間遣わされました。山本尚忠牧師・菊子牧師ご夫妻にお世話になりました。水曜日の聖書研究・祈祷会の聖研を2回担当させていただき、2回の聖日礼拝に出席しました。神学校1年目で、まだ礼拝説教を行うことは無理でした。
2年目の7月に夏期伝道実習で静岡草深教会に遣わされました。派遣先は神学校の先生方が決めて下さいます。教会名を知って驚きました。主任牧師の辻宣道先生が書かれた『教会生活の処方箋』を読んでいましたし、辻先生のお父様は戦争中のホーリネス教会への弾圧により獄中で亡くなられた牧師と伺っていたからです。しかも辻先生は中田重治牧師の孫です。少し勉強したホーリネス教会の歴史の深い関係者である辻先生のおられる教会に伺うことになり、私は神様の配剤と驚きました。
教会は辻先生が顎下腺癌の闘病に入られたところで、非常事態にありました。私を直接ご指導下さったのは奥様の辻哲子先生です。辻先生ご夫妻は私が教会に着くと、お二人で迎えて下さり、暫くお話した直後に宣道先生は、近くの静岡日赤病院に歩いて入院に行かれました。古武士のようでした。数日後の水曜日の朝夕の祈祷会で、私は創世記1章の講解をさせていただきましたが、当日(あるいは前日)が辻先生の手術でした。祈祷会が盛んな教会と聞いていましたが、朝夕で70名ほどの出席がありました。もちろん辻先生の手術を心配して、ふだんより多く出席されたと思います。次の日曜日に生まれて初めての礼拝説教を担当させていただきました。ヨハネ福音書4章の「イエスとサマリアの女」の箇所で、忘れることができません。辻先生はご入院中なのでおられないと思っていたところ、礼拝開始時刻には後方の席に座っておられたので、一気に緊張しました。辻哲子先生は、宣道先生へのお見舞いと、神学生の指導と、教会の働きで大変でいらしたと思います。本当にお世話になりました。受洗をめざしての数人の高校生の聖書の学びをも担当させていただき、教会学校の夏期学校の手伝いをも致しました。テーマはエリヤです。宣道先生のお見舞いに病院にも伺いました。術後で口が利けない先生が、メモを書いて渡して下さいました。「説教で大事なことは3つあると思います。①高校生に分かること。②首尾一貫していること。③1つの文が短いこと」だったと記憶しています。信仰をもって癌と闘う牧師の姿を見せていただいたことが、大きな学びです。
2回目の礼拝説教は、1回目よりもうまくいきませんでした。全てを終えて東京に戻り、2学期に入った時に静岡草深教会で経験したことを心の中で振り返り、整理する中で、説教の準備についても「こうするとよいのではないか」というひらめきが与えられました。聖霊の働きです。神学生の夏期伝道実習は、迎えて下さる初めての教会での大切な実地訓練です。今夏は残念ながら新型コロナウイルスのために、東京神学大学の夏期伝道実習は首都圏の教会のみへの派遣になったと聞きます。全国への派遣を早く再開できるよう祈ります。辻先生は、私が翌年の夏期伝道で堺教会と泉北・槇塚台伝道所(現・泉ヶ丘教会)に伺っている時に、天に召されました。実習中で、残念ながらご葬儀に出席することはできませんでした。静岡市と堺市で過ごした各々37日間は、私の記憶に強烈に刻まれています。
その後~今日まで
太平洋戦争敗戦後50年の1995年は阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件の大変な年となりました。オウム真理教の事件により宗教を警戒する人が増え、伝道がしにくくなりました。私たちはそれを乗り越えてイエス様を伝える使命を与えられています。私は翌1996年1月に結婚し、4月より日本キリスト教団東久留米教会(東京都東久留米市)に赴任させていただき、現在に至りました。ここまで共に歩んでいる妻に感謝します。戦後75年の今年2020年は、新型コロナウイルスに悩まされています。神様の御心がいずれにあるか伺いつつ、皆様と共にイエス・キリストをお伝えする道を歩みたいと願います。アーメン。
(日本基督教団 東久留米教会牧師)