あたかも遺言の如くに 飯島 信
【誌上夏期信仰修養会 閉会礼拝】
※以下、人名は敬称を略し、文中の◆で記した個人発言は小笠原亮一の記録によります。また、本文での引用は『共助』1984年10・11月号と1985年11・12月号から引用です。
『共助』は、堀内泰輔さん作成のURL : jightml.sakura.ne.jp
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Ⅰ 101年への想い
誌上修養会に寄せられた友たちの原稿を読み終えた今、新たな感慨を覚えずにはいられません。それは、神様は、101年目の今、なぜ、このような私たちを共助会に招き入れられたのか、そして、私たちに何をせよと命じられているかを思うからです。
かけがえのない原稿が寄せられました。友の記す一つひとつの文章には、今を生きる真実の言葉が宿っているのを覚えました。感謝しつつ、私は私の務めを果たしたいと思います。
Ⅱ 共助会の存在意味をめぐって
1985年、今から35年前の夏期信仰修養会は、私たち基督教共助会が神様から与えられている使命とは何かをめぐって、その場に集い得た者がそれぞれにとっての共助会を語る、厳しい緊張の場となったことを記憶しています。主題は「日本のキリスト教と共助会―こんにちにおけるその使命」でしたが、文字通り共助会に己の生き死にを賭けて生きた先達らの言葉の一つひとつを、30年余の時を経て、改めて思い返す時が来たように思います。閉会礼拝では、この時の修養会で語られた先達らの言葉を振り返ります。
議論の始まりは、「森明とその直弟子たち―今日における共助会の使命」と題して主題講演を担当した飯沼二郎(注1)の山本茂男(注2)批判でした。厳しい批判でした。特にその場に出席し、山本茂男との親しい交わりに生き、生かされた人々にとっては、聴くのが耐え難いほどであったと思います。中渋谷教会とも、北白川教会とも直接の関わりを持たない私ですら、飯沼の批判はあまりにも一方的過ぎると思えたほどでした。
しかし、今振り返ってみると、飯沼は山本茂男批判を通して、実は共助会歴史、さらには共助会が抱えているその体質についての批判を展開したと思えるのです。
飯沼の共助会批判の根底にあるものを理解する手がかりとして、前の年に行われた夏期信仰修養会での成瀬治(注3)の提題講演「昭和史の諸問題」と、それに対する清水二郎(注4)の応答を見ておきたいと思います。
成瀬は、戦前の昭和史の諸問題を紐解く切り口として、1933(昭和8)年を取り上げます。この年は、ドイツではナチスが政権を握り、日本もまた国際連盟から脱退した年でした。そして、日本軍の中国大陸への侵出、旧満州国建設、2・26事件を経てのファシズム体制の確立に至るまでの道を振り返ります。また、1933年に起きたもう一つの事件にも注目します。
「滝川事件(注5)」です。成瀬は、この事件によって「学問の自由圧迫の発端、また原型ともいうべきであろうが、そのさい軍部―右翼―政府の圧力に対する大学や知識人一般の無力がさらけだされた」と述べています。さらに1935(昭和10)年に起きた美濃部達吉の「天皇機関説問題」にも触れ、戦前の宗教界を覆った「天皇制イデオロギー、国家神道、皇国史観の集約ともいうべき、かの『国体』観念がどれだけ大きな役割を演じたことか。われわれはこの事実の意味を、戦前の昭和史に対する省察をつうじて、いまいちど真剣に考えてみる必要があろう」と主張します。そして、マルクス主義者や自由主義者に対する弾圧(注6)、治安維持法、神社参拝、独占資本、大衆文化などの問題を視野に入れつつ、「今日の日本社会がかかえる大きな問題とのつながりで、絶対に忘却されてはならぬこと」として朝鮮植民地支配の問題をも挙げています。
以上は、成瀬の提題講演の素描ですが、彼はこの講演を行った意図を次のように語るのです。「私が、ここでわざと昭和のさいしょの10年間に焦点を絞ったのは、今日の『民主主義』社会、『豊かな』社会においても、戦前の時期に起源をもついろいろな問題が、けっして解決ないし清算されてはいない、と考えるからなのである。私は、今日とりあげた波瀾多き時代のなかで、森明召天後の共助会の先達の方々が、どのように労し闘いつつ歩み続けてこられたのか、それを親しくうかがいたいと念願しているのである」と。
私は、昭和史のこの時代に生きた先達らが「どのように労し闘いつつ歩み続けてこられたのか」を問う成瀬のこの言葉を重く受け止めます。それは、成瀬のこの問いかけに応答した清水の以下の言葉が心に残るからです。
清水は、この同じ場で「共助会と共に」と題する講演を行っていますが、その最後の方で次のように語ります。
「成瀬先生が明解された1930年代の諸兆候から1945年の敗戦の破局に至る国歩の大きな過誤の中で、共助会はどう生き抜いて来たかを問われるとき、歴史の渦まく誤謬の中にいた者としての自責の傷みに苦しむ。しかし時代の問題性は、歴史の時間的距離をおいて考察された場合とは異なり、憂慮と判断は正しくありながら、個々の事象への敏活な対応が困難であった。主権在民の今と全く異る抑圧的な社会情勢の中で、主キリストによる人間関係を堅持することに集中という状態もあった」と、時代の制約の中での共助会の現実を語ります。
そして、次のようにも述べるのです。
「ただ問われている問題は、時局に対して共助会として積極的にどう対処したかということであろう。その明晰さを欠いた弱さの悔いは免れない。しかし混迷の中でも、共助会が、キリストによる人格の出会いの生き方を堅持したことは、苦悩の中の確かな経験であり記憶である。今、社会・平和問題への共助会の対応について行っている申し合せ(注7)も、この意識によると思う」と。
飯沼の講演に戻ります。飯沼の山本に対する問題意識は、次の3点に集約されます。
① 私たちが関わる人々は、「隣人」「友人」「敵」の3者に区分される。キリスト教で愛せよと教える「隣人」とは、社会において最も小さい者(マタイ25:31―45)、社会的弱者を意味し、必ず固有名詞をもった具体的存在である。「隣人」を愛すれば愛するほど、必ず社会的強者(=敵:筆者注)の怒りをかう。
② 森 明逝去後の第二期の共助会は、山本茂男ら直弟子たちによって、各自の人格を陶冶する修養団体的な性格を強めていった。その結果、社会的弱者のために身を献げるからこそ権力によって負わされる十字架が、山本にとってみずからの利己心を否定するための目的化してしまった。
③ 山本にとって「罪」とは利己心にほかならず、ひたすら私なき愛を求める。しかし、私たちに必要なことは私心のあるなしではなく、隣り人を愛することである。山本は、私なき愛を求めて努力(修身)を続けていくけれども、隣り人に目をとめない。彼が目をとめるのは「兄弟」だけである。
ここで述べられている山本を「共助会」に、兄弟を「友人」に置き換えて読む時、飯沼の共助会に対する批判の論点が良く分かります。即ち、共助会は「私なき愛を求めて努力(修身)を続けていくけれども、隣り人に目をとめない。共助会が目をとめるのは友人だけである」と言うのです。
飯沼は、この批判は戦前の共助会に対する批判であると断っていますが、しかし、戦後もなおこのような体質から全くは免れずにいる共助会を念頭に置いていることは事実です。飯沼の講演に対し、参加者から懇談の時間を取って欲しいとの声が挙がります。そこで、第一日目の夜、自己紹介の時間を短縮し、全体懇談会の時間が設けられました。飯沼の山本批判を受け止めつつも、語られていない山本の人格の大きさを紹介する内田文二や、浅野順一(注8)に信仰を育てられた牧野信次の傾聴に値する発言が続きましたが、ここでは李 仁夏(注9)と沢 正彦(注10)の言葉を紹介します。
◆李 仁夏:飯沼の講演は、単に共助会の創設者や先輩たちの切開として意味があったばかりでなく、自分が生きてきた軌跡にひきつけて考えた時、自分の心奥深くにずしりと衝撃を与えた、と語った。李の軌跡とは、戦前の日本基督教団において与えられた信仰の抽象性(福音の普遍性が、悪しき抽象性と化して具体的現実とかみ合わない。飯沼の山本批判の論点の一つ)の中での模索が、「70年代初期になってやっと自分が立っている場が何かってことがようやく明らかにされた」歩みをさす。
◆沢 正彦:一昨年来、共助会修養会において追及してきた共助会のあゆみの歴史の回顧において、自分のききたかったことが今年ようやくきけた、と次のように発言した。「植村正久、森 明、それから、共助の精神をくんでいる我々の先輩たちも、敗戦という立場から見たら別の見方ができる。植村も森も真実のクリスチャンであったがゆえに限界があり、限界があるからこそ尊敬でき、我々もその限界の中で励むのだという整理が、共助会の中でほしかった。それが今日は飯沼先生によってさせられたと思います。しかし……山本先生一人でなくって、共助会だけでなくして、日本人全体の問題で、敗戦ということで、ぼくらが、また、みんながどのように変ったかということが本当に大事だと思います。」
沢は、さらに、飯沼の隣人の問題の根底に、神礼拝の問題があることを指摘した。「隣人の問題とかかわって、偶像礼拝の問題があるわけで、神礼拝が真実でない時に隣人はつぶされる。共助への批判は、隣人を失ったというレベルだけでなくって、日本の天皇制が持っている偶像の強制の批判の立場からなされる必要がある。我々の先輩たちは個人の罪の問題で血みどろの戦いをした。それは、捨象すべきでない、日本のキリスト教の財産です。それをしっかりふまえつつ、それにとどまらない。罪というのは個人の罪だけじゃなくて、国家の罪、また、隣人が見えない罪があるわけです。そういうレベルでもう一度共助を整理して行く。飯沼先生の発題を、ぼくら若い者は、もっと鋭利に、もっとはっきりひき継いで、私たちの歩みにすべきじゃないかな、と思います。」
論議は、これで終わりませんでした。修養会最終日の午前、全体懇談会Ⅱが行われます。司会は川田 殖で、冒頭次のように述べます。
◆川田 殖:「今年の修養会は、昨年の修養会以来の主題である、日本の歴史の中での共助会の歩みを追及してきたが、その根底に、『時代の波を越えた、聖書の語りかける、贖罪の真理』があることを指摘した。『イエス・キリストの十字架の贖罪の愛が、ひとりひとりの弱き魂に迫って、これを全く新しいものに変えていった、その消息を深く教えられたのであります。そしてまた、過去、現在、将来を通してそれのみが人格的生命を新しくする唯一のもの、決定的なものであります。』それは決して抽象的な真理として示されるものではなく、『固有名詞で呼びかけるその声を、みずからの呼びかけとしてとらえ、それをみずからの生涯をかけて応えて行くその過程で、はじめて隣人との関係に目がひらかれて行く。みずからが先ず変えられて、新しい変えられた生活を通して社会に立つことによって、社会関係、人間関係を変えて行く。そういう意味で、昨年の人格史という言葉で集約される、イエス・キリストの十字架の死によって新しく誕生した人間の姿が基底にあるのであります。』」
この発言に対し、飯沼は「私の社会的弱者と川田さんの社会的弱者は違うんです」と応じるのですが、川田はさらに個人的な飯沼との心温まる関わりを紹介しながら、戦前の共助会には飯沼が批判した「修養主義」を打ち破る力が福井二郎、沢崎堅造らの熱河宣教によって示されていることを指摘します。「日本の罪を贖う存在として神の前に隣邦の友となる群れが起こされたことは見逃すことができない。隣人が視野から消失しそうな、また、居心地のよい安直な仲間意識のうちに沈殿しそうななかで、絶えずキリストの招きと召しの声を聞いてきた、先輩や友たちがいたことを忘れることができない」と。
この言葉を受け、李仁夏は次のように述べます。
◆李 仁夏:「今の川田兄のお話をきいて深い感動に誘われながら、飯沼先生の提示された問題からまたはずれてしまうのではないかという危惧を持たしめられます。共助会の中で、贖罪愛に基づく人格的な出会いを経験し、人間として新たにされるという私どもの経験が、友情という美しい名前で自己完結してしまっている、それでいいんだろうか、それが飯沼先生の問題提起ではなかったのだろうか。その問いを共助会がこれからどうするんだろう。だから私は今の形でまとめられることに対して多少不安を覚える。」
以上見て来ました飯沼、李、沢、川田の発言は、それぞれが、戦前、戦時、戦後の時を刻んだ共助会の歩みに、己の生きて来た厚く重い人生を携えて分け入り、その歩みを引き負おうとすることによってこそ紡ぎ出された言葉でした。私は、これらの方々の発言を改めて思い起こしながら、懇談会の最後の方で「あたかも遺言の如く」語られた奥田成孝(注11)の言葉に、私が負うべき課題が示されているとの感を深くするのです。即ち―、
◆奥田成孝:「もはや私がいうべき言葉もないかと思いましたけれども、本当の意味で、森 明が使ったような、主にあるとか、キリストにあるということが、失礼ですけれども、(皆さんには:筆者注)生きてはいないし、わかってはいない。……聖書を本当に私たちが生きておるのかどうか。一昨日も話が出ましたが、第一の戒め、第二の戒め、いずれ劣らず大事だ。けれども……第一の戒めを本当に生きなければ、第二の戒めを正しく生きることは出来ないのです。それだけが本当の意味で私は聖書の内にあると思ってます。……天地の内、主に在って、一人ですよ、神の前に。その経験がなくて聖書の宗教はありません。……その宗教を本当に生きようとする時に、やはりまた、友がなくてはならないということを経験しているわけです。……そういう点でぼくは、川田君の弁護じゃないですけども、川田君、私はその点をはっきり言われたことで良かったかと、こう僕は思っています。」
奥田のこの言葉は、その人格に直に接することの許された者として、共助に生きる私を支えています。すでに紙数は尽きました。なお、私が語りたいことが残されています。それは、私にとっての共助会とは何か、そして、共助会の明日を語ることです。これらについては、2021年1号の巻頭言に記したいと思います。
以上、新しい時代を迎えつつある私たちにとって、振り返る必要のある先達らの言葉を紹介しました。共助会の在り方をめぐって、これほど率直かつ真剣な対話がなされた修養会は、私にとって初めてであったように思います。また、許されるなら、飯沼、李、沢と私との関わりを記したいと思いました。彼ら個々の発言の背景に、どれほど深く豊かな実践があったかを分かち合い、覚えたいからです。以上です。
2021年の夏期信仰修養会は、お互いに相あいまみ見えて開催出来ることを祈り、それまでどうかお元気でお過ごし下さい。
(注1)飯沼二郎:北白川教会員。韓国で死刑判決を受け、日本に逃れ、大村収容所に収容された政治犯を守る運動を続ける一方、自費で雑誌『朝鮮人』を発行し、日本社会に人権問題を提起し続けた。「ベトナムに平和を市民連合・京都」(京都ベ平連)代表。京都大学教授。農学博士。(『共助』2006年4月号)
(注2)山本茂男:森 明の直弟子。中渋谷教会牧師。共助会初代委員長。(『同』1970年8月号)
(注3)成瀬 治:中渋谷教会員。東大教授(西洋史専攻)。共助会第4代委員長。(『同』2017年4月号)
(注4)清水二郎:中渋谷教会員。恵泉女学園学園長、宮城学院学院長を務める。(『同』1995年6月号)
(注5)滝川事件:1933年、自由主義的な刑法学説を唱えていた京都大学法学部教授滝川幸辰が免職となる。
(注6)マルクス主義者や自由主義者などへの弾圧:1938年、大内兵衛ら労農派マルクス主義の教授が検挙され、自由主義者の河合栄治郎教授の著書発禁・休職、歴史学者の津田 左右吉が早大教授を追われる。
(注7)清水二郎「平和・社会問題への共助会らしい取り組み方」(『共助』1981年6月号)
(注8)浅野順一:森 明の直弟子。美竹教会、砧教会などを開拓伝道。旧約学者。(『同』1982年9月号)
(注9)李 仁夏:在日大韓基督教会川崎教会牧師。在学した泰成中学校が神社参拝拒否により朝鮮総督府から閉校措置を受け、日本に渡って、和田 正と出会い、信仰に導かれる。生涯をかけた在日同胞への人権獲得運動により朝日社会福祉賞受賞。(『同』2009年2・3月号)
(注10)沢 正彦:日本基督教団牧師。共助会員として初めて韓国に留学。松岩教会で行った礼拝説教が問題となり、朴 正煕軍事独裁政権により国外追放処分を受ける。南北朝鮮のキリスト教史研究に従事。(『共助』1989年6月号)
(注11)奥田成孝:森 明の直弟子。北白川教会牧師。京都共助会・北白川教会創立者。共助会第2代委員長。(『同』1995年9月号)
(日本基督教団 立川教会牧師)