読書

資料から見えてくるもの―日本側資料の解説を書き終えての断想―飯島 信

富坂キリスト教センター編『日韓キリスト教関係史資料 Ⅲ』(1945-2010)、新教出版社刊、2020

 【読書 執筆者より】
1 はじめに

手元に小さな一片の新聞記事がある。2011年2月22日(火)「朝日新聞」朝刊に載った記事である。当時のソウル特派員の牧野愛博記者から送られたニュースで、見出しは「金大中氏への死刑執行に圧力 鈴木元首相」とあり、韓国外交通商省が21日付けで公開した外交文書である。記事には、「1980年9月、当時、野党指導者だった金大中元大統領に韓国の軍法会議が死刑判決を出したことを受け、鈴木善幸首相(当時)が同年11月、駐日韓国大使に対し、刑の執行を思いとどまるよう強く申し入れていた。……」とあった。

歴史には、権力を持つ側の歴史と持たざる側の歴史、即ち、為政者の歴史と民衆の歴史がある。小さなこの記事の背後には、日本の為政者を動かし、そして韓国の為政者をも動かした民衆の力があった。本資料集の口絵6頁に掲載されている市民デモの写真や、私が記した「韓国民主化の道程と私」【797頁】と「韓国問題キリスト者緊急会議と市民署名運動のこと」【807頁】の二つの資料は、その事実を証言する。

一言で言えば、本資料集は、1945年から2010年にわたる韓日両国民衆の歴史の記録である。

2 日韓関係における私たちの立ち位置

慰安婦問題や徴用工問題で混迷を極める日韓関係を考えるに際し、先の「2020年度 誌上夏期信仰修養会」(『共助』2020第6号10月発行)閉会礼拝で紹介した成瀬 治の指摘が思い出される。成瀬は、「今日の日本社会がかかえる大きな問題とのつながりで、絶対に忘却されてはならぬこと」として朝鮮植民地支配の問題を指摘したが、本資料集も又、歴史的史実をもって成瀬の指摘の重要性を明らかにする。一例を挙げれば、本資料集第二部に収録された1966年と1967年の韓国キリスト者と日本のキリスト者の出会いの事実がそれである。

敗戦以後の両国民衆の間には、越え難い深い溝が横たわっていた。朝鮮植民地支配の事実は、韓国民衆の人間としての尊厳と民族の誇りを打ち砕き、どれほどの代価を払っても償い得ないほどに彼らに負わせたその傷は、日韓基本条約によってさらに深められていた。そのことはキリスト者であっても例外ではなく、両国キリスト教会は、関係回復の糸口すら掴めない厳しい緊張関係のただ中にあった。

そのような中で、1967年、日本基督教団議長名による「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(以下「戦責告白」と略す)が発表される。【123頁】この告白こそ、両国キリスト者の関係回復の画期となる。即ち、「戦責告白」発表に先立つ1965年、韓国基督教長老会第50回総会を訪れた日本基督教団議長は、彼の挨拶を受けるか否かを巡り総会議場では激論が戦わされ、挨拶は受け入れられたものの、その雰囲気は冷たく厳しいものであった。【57頁】しかし、「戦責告白」が発表された後に開催された第52回総会では、挨拶に立った教団議長に対し、議場は「ながい拍手の波に場内がうずま」るのである。【332頁】日本人キリスト者の公式の謝罪によって、韓国キリスト者との間に新たな交流の扉が開かれる。

共助会に即して言えば、この日韓両教会の歴史的和解の前年、和田 正と沢 正彦は、韓国・延世大学連合神学院で尹鍾倬(ユンジョンタク)と涙の出会いを経験している。【429頁】この交流の内実に、深く豊かな信頼が育まれるのが、1970年代から80年代にかけて戦われた韓国民主化闘争である。自由と民主主義、それに先立ち、何よりも神の義がこの地に実現されることを求めて戦われた韓国キリスト者を中心とする民主化運動は、世界の注視するところとなり、取り分け、日本のキリスト者及び市民の深い関心を呼び起こすものとなった。特に、1980年の光州蜂起の首謀者として無実の罪を着せられ、死刑判決を受けた金大中氏の命を救うために始まった日本の市民運動は、先に紹介したように、時の鈴木善幸首相が朴正煕大統領に金大中氏への死刑執行を思い止まらせる申し入れを行う一つの力となった。

こうして、民主化闘争が勝利した1987年以降【680頁】、教育、文学、青年、女性、神学、宣教の様々な分野にわたり、かつてないほどの両国キリスト者の交流が生み出されて行く。1910年の韓国併合以後の歴史の中で、両国民衆にとって最も豊かな出会いの時が生まれた。

3 本書の出版の意義

忘れてはならないことは、日本はアジアとの関わりにおいて、常に抑圧者で在り続けたことである。特に韓国の人々の間には、癒やし難い傷が疼き続けていることである。国際政治においては、法的決着や国家間の処理が時に必要なことは言うまでもない。しかし、これらの決着によって、韓国の民衆の感情をも含む、歴史が生み出して来た問題の一切が清算されることは有り得ない。

ではどうすれば良いのか。

日韓関係に限らず、アジアの諸国との関わりにおいて困難な現実に直面した時にこそ、私たちは「戦責告白」を発表した時の思いに立ち帰らなければならないと思う。問題に向き合う前提として、私たちの側にどのような思いがあるのかが問われるのである。一人の慰安婦の方の言葉にあるように、「国家としての過ちを認め、私たちに対する真摯な謝罪の言葉が欲しい。」その言葉をいかに心に刻んで問題に臨むかにある。

本書の出版の意義、それは第一に、70年代から始まる韓国キリスト者が直面した最も困難な時代に、共に生きようとした日本人キリスト者の歩みが、その後の両国キリスト者の交わりにどれほどの豊かな実を結ばせたかを振り返る機会を与えることにある。そして、第二に、今両国に訪れている緊張関係を解きほぐすために、私たちに求められているものは何かが、今一度確認出来ることである。     

(日本基督教団 立川教会 牧師)