約束をした事実 光永 豊

初めて基督教共助会へのお誘いをいただいた時、私は恐れを感じました。望んでいた事柄が、目の前に差し出される。そんな経験が、これまでにもありました。私にとっては喜びであり、誘惑でもあります。与えられた望みを、自らの都合のいいように取り込もうとする自分がいるからです。

私は中学生の時、基督教独立学園を受験し、落ちました。落ちた悔しさから、いつか職員として入りたいと心に抱きました。独立学園の近くにホーリネスの教会がある。そのことを初めて知った時、そこへ行けばきっかけが掴めるかも知れないと思い、祈り求めました。願っていた好機が思いもよらず訪れ、描いた夢が現実となる過程に、私は引き込まれていきました。しかし、望みが叶えられたと同時に、責任も知らされました。掴み取ることで必死だった、まさか本当に与えられると思わなかった、後のことなど考える余裕がなかった。そんな心も抱きつつ、強く祈り願い、受け取る選択をした事実は残ります。結局、与えられたものを野心に満ちた転職活動によって、わずか三年で踏みにじりました。自らの愚かさ、現実と限界を知らされながら、それでもなお、今を与えられ続けています。同じことを繰り返す訳にはいかないのです。

私は、与えられすぎました。感謝を忘れたら、私は人間ではなくなります。祈りの中にすら入り込む、利己的な思考回路は、いつも傍らで大きな口を広げて待っています。愛を踏みにじる心によって、多くの犠牲を生み出しました。駆け引きによって築かれる人間関係。形と対象を変えれば、私はいつでも化けることができてしまいます。そのような本質を持つ自分が、果たして共助会に相応しいだろうか。

共助会は、独立学園で職員を務める前から気になっていた存在でした。まるで過去が語りかけるように、望んだ事柄が、また目の前に差し出されました。無責任に受け取り、同じ過ちを繰り返さないだろうか。与えられたものを、誰を、何を守るために用いるのか。私のような人間には、御言葉や十字架の赦しもまた、開き直りの道具と置き換えてしまう危険が隣り合わせです。与えられた友を途中で投げ出すことなく、祈りと交わりに最後まで責任を全うできるか。祈りと労苦の中で開催された、夏期信仰修養会。参加を願いながら、叶わなかった方々もおられました。私は与えられ、受け取った事実を、あの場で確かに約束しました。入会式を与えられたことに感謝致します。

(東京神学大学職員)