苦しむ神  川西健登

共助会の友の導きで、村上 伸牧師の講演「D・ボンヘッファー ― その生涯と信仰」『ボンヘッファーの説教に聴く』各十二巻を聴くことができた。ボンヘッファーはナチスの暴虐が支配する時代社会のただ中にあって、生けるキリストなら今此処で我々の間で如何なる形をとり給うか、どのように生きられるか、祈り求め、神に聴き、その言葉に命を懸けた。言葉に対する信頼が失われ、不信に蝕まれた現代、生ける神の言葉に心から信じて聴き従うことが求められている。今、ボンヘッファーに聴こうとしているのはそのためであると語られる村上牧師に導かれ、厳しくも慰め深い言葉に聴き入った。

神の子イエスは生まれながらの難民となり、かつてイスラエル民族が奴隷として辛酸をなめたエジプトに逃れ、帰郷後は貧しく軽んじられたナザレで育たれた。彼は見栄えのしない、侮られた者の生を共にし、我ら罪人を極みまで愛されたが故に、我らに代わって罪ある者とされ、裁きの十字架の苦しみを負って死に給うた。このイエスを神は死人の内から蘇らせた。

罪と死の世界の現実に出会い、打ち勝つのは、ただこの復活のイエス・キリストの命だけである。十字架の上で苦しみ給うたイエス・キリストは、今もこの世でどん底の苦しみを味わっている人々と共に苦しんでおられる。我らの神は苦しむ神である。苦しみは人間を神の像に形造る。イエスは彼に属する人に喜びだけでなく、彼のために苦しみ、死ぬことをも給う(ローマ一四・八)。恵みによって、神の子イエスを否認し裏切った罪の認識と告白の交わりの中に招き入れられ、キリストの復活の命に新しくされ、キリストと同じ形とされる望みに与っている人々の集まりである教会は、キリストに倣い、自ら重荷を負い、十字架のもとに留まり、そのもとでキリストを見出すように、神の聖心に沿うた悲しみをなす教会であれと(Ⅱコリント七・九―一〇)。歴史を支配し給う神は、誠実な祈りと責任ある行為を期待し、それに応えられると信じると、ボンヘッファーは死に至るまでイエス・キリストに信従し、神の平和を生きた。一臨床医として高齢者や障害者の医療の一端に携わる中で、かけがえのない命が真に大切にされていないと私は感じる。この状況はナチスの時代にボンヘッファーが経験したことと本質的に変わっていない。世界のいたる所から声なき悲痛な叫びと祈が立ち昇っている。

神は今、我らにこの地上の苦しみに徹底的に与ることを求めてい給う。愛する主よ、恐れにつつまれ、不忠実で、信なき我を助け給え。 

(日本基督教団 北白川教会地方会員)