巻頭言

贖罪の主 久米あつみ

何の手入れもしない我が家の庭先でも、蕗の薹が次々顔を出して、食卓を楽しませてくれる。今年の豪雪は諸所に災害をもたらしたが、武蔵野の片隅に住む私どもにとっては体の中がしん0 0 とするほどの感動をも与えてくれた。私にとっては思いがけず病に暮れ、病に明けた年ではあったが(喘息、気管支炎、心房細動)、ここへきて一つ一つの病が収まっていてくれるのがうれしい。

大学の同期生たちで初めた読書会を、月一の割合でなんと六十数年続け、今年も、はや二回目を済ませた。テキストは、文学書が多いこの会としては珍しく青野太潮の『どう読むか、聖書』。レポーターは二代目のクリスチャンだが教理や教会運営についてはいろいろと批判的意見を持つ男性。夫人は同じ教会の長老で、熱心かつ篤実な信徒である。聞く側には牧師の息子だが自称「戦闘的無神論者」や、外からの傍観者、クリスチャンだが信仰の問題を論議するのはあまり好まない男性、とさまざまである。

論議は予期したように多岐にわたったが、聖書の読み方について著者が主張していることの大半、つまり聖書は書いてあることを字義通り鵜呑みにするような一面的な読みではなく、多面的な視野と方法をもって、できれば古典語や古代史の知識をもって複合的に読むことが必要だ、という点では一致したのだが、贖罪の問題に至って紛糾した。人間イエスの存在を肯定し、その教えや愛の業を称揚しながらも、十字架の死によって人間の罪を贖われたという教理、また復活のイエスを信じることはできないという。これに対して私などは言葉の機能(科学的言語と詩的言語)の面から、ま た久米博は言語の物語性から論じたのだが、相手を納得させられたかどうかは不明である。

思えばいわゆる合理的な読みを推奨する人たちの大半は贖罪の問題を無視、ないし避けて通るようだ。確かに贖罪とは格好のいいものでも、理性で納得できるものでもない。しかし、大磯の病床で何時間にもわたり贖罪の問題を説かれた、森明先生の遺言ともいうべき課題を、共助会は背負っているのではないか。この問題に直面することも緊急事のひとつであろう。