寄稿

キリスト者として企業に遣わされること 湯田大貴

自分の知りうる限り、最近の共助会の構成員は牧師や教師の方が多いように思う。聞くところによれば、昔は企業に勤めるいわゆる企業がたくさんいたようだ。時には丸の内でも集会が開かれていたらしい。しかしながら、時が経つにつれてだんだんと企業に勤める人の数が減ってしまったということだ。

共助会に限らず、私個人の周りを見てもキリスト者の人はなぜだか学校に勤めて教師になる人が圧倒的多数のように思う。もしくは教師でなくても、何かしらの仕業のようなもの、例えば社会福祉士や心理士などになる人が多い。自分にはそれがとても不思議なことのように思える。なぜこうも一般企業に勤める人は少ないのだろうか。

きっとこの文章を今読んでくださっている方々もおそらくは教師であったり、牧師であったり、学生であったりする人が多くいると思う。まずはそのような方々に向けて、一般企業と官公庁や教育機関がどのように違うのか、あくまで私の視点ではあるが、考えてみたいと思う。

企業とその他の職場の違い

最も大きな違いは、「企業は利益追求を第一の目標にしている」ということだ。官公庁や教育機関に勤めていると、「いかに利益を生み出すか」ということに頭を悩ませることはそこまでないのではないだろうか。例えば、学校の教師であれば普段どのような課題を抱えているだろうか。「生徒の成績が悪い」「保護者からの理解を得るのが難しい」「生徒一人一人と向き合う時間が取れない」「問題行動を起こす生徒が多い」などなどだろうか。問題は多岐にわたる。どの問題も重要であり、できるだけこれらの問題を解決していくことが求められるであろう。

一方、企業に勤める人にとっては目標はシンプルである。利益を上げさえすれば良いのだ。現場が抱える問題はいくつもあるが、その背景には利益を上げることがいつもある。広告を打つのも、営業活動をするのも、製品開発するのも、クレームに対応するのも、採用活動をするのも、社内広報を作るのも、究極的には利益を追求して行われている。

それでは利益はどこから来るだろうか。利益は簡単に言えば、売上からコストを引いたものである。そしてその売上は顧客に商品やサービスを提供することで産むことができる。つまり、利益を上げるには、顧客からより多くのお金をいただくことが大切なのだ。こういった背景から、「お客様は神様」的な発想が出てくるわけである。

つまり企業人は常に選ばれる弱い立場にある。確かに企業全体で見れば大きな力を有しているかもしれない。例えば最近では、Google やAmazon といったアメリカの大手IT企業があまりにも多くの個人情報を集めていることが大きく問題視されている。しかしながら、企業に属する一人の担当者として見たとき、彼らはいつも選ばれる立場にある。市場には競合製品・サービスがあふれ、競争にさらされている。顧客は市場の中から自分に合うと思われる製品やサービスを自身で選択して、購入する。購買活動とは選択である。顧客は選び、企業は選ばれる。これは資本主義の原則であり、健全な競争により社会は発展していく。

ここまでをまとめると、まず第一に、企業と官公庁や教育機関との違いは、利益を第一に追求するかどうか。そして、その利益は顧客からの売上から形成される。顧客はさまざまな製品やサービスの中から選び購買活動を行う。結果、企業人は常に選ばれる立場にあるということだ。そしてこの立場の違いは、現場で働く一人の労働者としては相当に大きいものだ。

例えば、官公庁や教育機関の人は選ばれることは少ない。私立の学校であれば、受験生やその親から選ばれることはある。しかし、基本的に生徒が教師を選ぶことはないだろう。「この先生の教え方が気に食わないので変えて欲しい」とは生徒は言えない。一方で、製品やサービスが気に食わないから、別のものを買う。これは企業社会にとっては至極当たり前のことだ。

顧客に価値が提供できないと淘汰される。企業人はプロフェッショナルとして顧客に価値を提供することが求められる。そしてその結果は常に数字として表される。その数字をもとに人事評価プロセスが走る。人事評価により昇進したり、昇給したり、昇格したりが決まる。常に数字のプレッシャーと戦う毎日。もちろん仕事の成績がその人の全てではない。でも職場という環境においては、やはりそれが最も重要視されることの一つだろう。こういった還元主義的な態度がいきすぎることもある。数字がまるでその人自身の価値を測るようになるのは、やはり問題である。

キリスト者として企業に遣わされること

キリスト者として企業に遣わされている自分に求められていることは、キリスト者としての生き方を他の人に知らせることではないかと思う。世俗の価値観はやはり固定化している。多様性の世の中といっても結局中心となる価値観があって、その周辺にマイノリティの価値観があるような気がする。しかしながら、キリスト者の価値体系というのは世俗とはまるっきり逆である。自己を中心として生きるのではなく、神様を中心として生きるからである。

社会的に成功すること、それを求めている人がやはり多いような気がする。一流大学に入り、一流企業に就職して、出世して、結婚して、子どもを育ててというような成功のロールモデルに憧れている。確かにそれは幸せなことだと思う。でも、全てがうまくいくわけではないし、その固定化された幸せの価値観から自分の生活がかけ離れていたらどうだろうか。結局多くの人は、自分が成功するかどうかに心を囚われていないだろうか。これはまさしく自己を中心として生きている人の態度だ。決してこういう人がいわゆる「自己中」だと言いたいわけではない。むしろ逆だ。自己犠牲的な人が多いと思う。社会で成功するために、自己を犠牲にして働いてるのに報われない。成功しない自分と成功している他者を比べて一喜一憂をする。結局、意識は常に自分自身に向いているわけだ。

一方でキリスト者はそんな生き方はきっとしないと思う。まずキリスト者は今、十分幸せであることを知っている。なぜなら、神様に望まれて造られていることを知っているから。神様に愛されていことを知っているから。イエス様に愛し抜かれて、自分の足をその手で洗ってもらったからだ。何もしなくても私たち一人ひとりは神様の目からは高価で尊い。存在を全肯定されている。仕事ができるとかできないとかそんなことは関係ない。存在しているだけで尊重されている。

ではキリスト者には悩みや苦しみがないのかというとそういうわけではない。でもそれを一人で抱え込む必要がないことを知っている。自分では抱えきれないどんな大きな苦しみも、十字架上の死を経験したイエス様はわかってくださる。そしてその苦しみを共に軛くびきを繋いで背負ってくださる。どれだけしんどい日々の中にあっても決して一人ではない。いつも生きる希望がある。イエス様の名によって祈ることが許されている。

このようにキリスト者は、神様の大きな愛を知っている。確固たる信念があり、生きる軸を持っている。ゆえに「どう生きるか」に深い関心がある。神様によって生を与えられ、日々大きな愛をいただいている自分が、一体どのように生きたらいいかを日々模索している。いただいた愛をその十分の一で良いから返したいのだ。だから自分の成功ではなく、神様の栄光を求める。

このような価値観はきっと一般の多くの人には理解されないだろう。でもこのような神様を中心とした価値観のもとに日々働き、職場の中で神様を証することができたら、どれだけ幸せなことか。同僚や上司から「この人は自分とは違う生き方をしている」と思わせることができたらそれは素晴らしいことだ。実際、私も大学でキリスト者の友人と出会い、彼らの生き方に憧れて、真理を求め始めた。今度は自分が証する番である。

業績だけが正とされる世界において、それだけが価値でないことを伝えること。それがやはり求められているように感じる。仕事場にいると愛のない言葉を目にすることは多い。仕事でミスをしたら、威圧的な言葉をかけていいと誰が決めたのだろう。仕事の良し悪しがその人の価値を決めるわけではないのに。威圧的な言葉は他者から自信を奪い、自分に他者を縛り付ける。自信を失い、自分を責めるようになった人は、正常な判断をすることはできない。正解がわからなくなり、自分の価値がわからなくなる。こうして命は輝きを失う。

「目は体のともしびである。目が健やかであれば、全身が明るい」(ルカ11: 34 )

輝きを失った目のどれだけ多いことか。人を苦しませているのは人である。「正義」を掲げ、平気で人の命の輝きを奪う。善悪の知識の実を食べた我々は、他人を裁くことをやめられない。

そんな社会の中で、私は愛を伝える人でありたい。神様が私を愛してくれたように、私も周りの人を愛したい。他者を裁かず、自分自身も裁かずに、存在を肯定したい。命をきらきらと輝かせたいのだ。社会全体から見たら私のしていることは、ほんの小さな営みかもしれない。それでもこの希望の灯火を絶やさずにいたい。その灯火が少しずつ大きくなって、この世界全体を照らす日が来ることを夢見て。

(日本ホーリネス教団 木場深川キリスト教会員株式会社セールスフォース・ドットコム)