共助会で出会った人々 片柳 榮一

マルコによる福音書3章13―15節 

飯島委員長から共助会のクリスマス礼拝で、自らの歩みを顧みた証をして欲しいと頼まれました。なかなか委員長の頼みは断りにくく、また75歳を超えた年になり、自分の歩みを自ずと振り返っている自分に気づくことが度々ですので、お引き受けいたしました。

私はクリスチャンの家庭出身ではありません。キリスト教に出会ったのは、たしか中学二年の初めころ(1958年)、丁度賀川豊彦が、最後の全国伝道集会をし、私の故郷の足利でもその集まりがありました。『死線を越えて』というベストセラー作家としても有名だった賀川を私の父も知っており、一緒に連れていってもらいました。中学生には難しい話でしたが、アインシュタインも神を信じていたというような、彼一流の宇宙論的な話だったことは覚えています。丁度物心つく頃で、生きるとか死とかいろいろ考え始めていたころであったせいもあり、この集会を主催した足利東教会に通うようになりました。私にとってこの教会は自分のキリスト教求道と、自分が成人して行く過程における文化的な思索、生育の場所となりました。この教会に長老という名にふさわしい一徹な老人がおりました。この方が西田真輔という共助会員の方でした。非常に実直で、まじめな方でした。ある時、突然、教会の役員をやめねばならないと言い出しました。西田さんには私より二つくらい上の娘さんがおりました。この娘さんが、教会の読書会か何かの集会で、自分

は今、ニーチェの「神は死んだ」という思想に興味を持っていると、いわば若者の背伸びしたような発言をしたようです。西田さんは、ひどくショックを受けたようで、教会の役員をしながら、そのような発言をする娘を育ててしまったことは、真に面目なく、役員の資格はないと、いわば頑固一徹に主張され、教会の皆さんは当惑して、まあまあと何とかそれは撤回させてもらいました。この西田さんから時々共助会の名は聞いていました。印象に残っている話があります。西田さんが慶応の学生の頃、信濃町か霊南坂か、東京の大きな教会に通っていたそうです。ある日曜日のことでした。当時多くの人々が礼拝に人力車を用いてやってきていたそうですが、たまたまお客を乗せてきた、人力車の車夫の人が、教会の礼拝に興味をもち、礼拝堂の後尾の席に座って、説教を聞こうとしたそうです。すると案内をしていた係の人が、車夫の人に、困りますからお立ち下さいと、追い払ってしまったそうです。礼拝するにはきちんとした身なりが必要であり、車夫のはっぴ姿は、礼拝にふさわしくないと考えたようです。これをみていた西田さんは激しい憤りを

覚えて、この教会には行かなくなったそうです。そんな中で共助会の集会に出るようになったといっていました。この話は印象的です。ある意味で近代日本のプロテスタント教会のある姿を象徴しているように思われます。明治以来欧米先進国に追いつき追い越せと近代化を推進してきた日本にとって、キリスト教会もそうした欧米文化の出先機関のような面をもっており、いわばセレブ志向の人々を引きつけた面があったのではないかと思われます。内村鑑三が、無教会を主張したのも、こうしたハイカラなサロンのような雰囲気の一部の都会の教会へのプロテストの意味があったように思われます。西田さんにとっての共助会も、上流志向の教会とは違った、真剣に信仰を求める姿勢に共感していたようです。足利東教会の牧師さんは、大木英二という優れた人格者の方でしたが、西田さんは尊敬しつつも、「大木先生はメソディスト教会の本山とも言える阿佐ヶ谷教会出身だから、どうも制度に重きを置きがちだが、私は共助会のキリストのほか自由独立という精神で育てられたので時々ぶつかります」とはっきり言われ、改めて高校生の私は、共助会とはどういう団体なのだろうと思ったりしました。

京都共助会では、この10年ほど、戦前『共助』誌を一号毎に、その中の一篇を発表者が選んで、読み合うという仕方の勉強会をしてきました。その中で、私には懐かしい、西田真輔さんの文章をみつけまして、感慨無量でした。それに今回飯島さんはじめ、多くの人々の努力で、戦前戦後全ての雑誌『共助』がインターネットを通して読めるようになりました。先に出された『基督教共助会九十年―資料編』の巻末にある著者索引を頼りに、この西田さんの20篇程ある記事を読むことができました。

それで知って驚いているのですが、私がこの西田さんを中学生の時知るようになる前、戦後の長い間結核を患って療養生活をしておられたのです。戦後の食糧事情の悪い時で、同じ病室の人々が次々と亡くなって行くのを、いわば死刑囚が自分の番を待つようにみていた経験が語られていました。そして自分にできるのは、この亡くなって行く人の名前を、暗く長い夜の病床で、必死に憶え祈ることだけだったと語ります。そしてその文章の最後を次のように締めくくっています。「共助会の創立者の森 明先生は、一度人の名前を覚えるといつまでも忘れなかったという。主に在る友情に厚かった先生の面影が其処に活きていると思う。その先生の人格に生き写しだとまで云われた千矢不二雄君から、懇切丁寧な友情の手ほどきを受けて、私はキリスト教に入門したものである。千矢君を憶うに、自分の怠慢を申し訳なく思う。一度覚えた友人のために祈ることくらいはやってみたいと願うのである。千矢君から森先生、森先生から基督へと考えていくと、自分に伝わってきた友情の尊さが一ひとしお入身に沁みるのである。基督の恩寵を友と語り合いながら、どうしても共助会を紹介せずにはおられなくなるのも、共助会の精神が活きているからではなかろうか(1953年4月15日、足利療養所退院後静養中)」(『共助』1953年6月号)

この西田さんを通して共助会を知られた足利東教会の2代目の牧師石田セツ先生の紹介で、京都に住むようになった私は、奥田成孝先生の北白川教会に通うようになりました。そして西田さんが綴られた共助会の魂とでもいうものを実際に経験することが許されたという感をあらためて思わしめられます。そのような奥田先生の幾つかの思い出を、次にお話したいと思います。

ドイツでの2年の留学を終えて、関西学院へ勤めるようになった頃、先生をお訪ねすることがありました。33歳の頃で、新しい職場での新たな生活の始まりを思っていたので、先生にお尋ねしました。奥田先生は30過ぎの頃、どのような抱負や希望をもって過ごされていましたかと。先生は少し考えてぽつりと、「私は森先生から京都で伝道するよう勧められて、それを果たすことだけを考えて夢中で過ごしていた」と言われました。1935年先生が33歳の時に、北白川教会を少数の志を同じくする人々と設立されたのです。しかしこの言葉にどれほど重い意味が籠められていたかを知るようになったのはずっと後でした。ご承知のように奥田先生が綴られて『一筋の道』と題された自伝的回想の書に記されているように、奥田先生は、京大法学部での学びを終えて、本当は森先生のおられる東京に戻りたかったようです。森先生から伝道者として京都に残るように勧められて、かなり迷い、逡巡していたようです。しかし最後に京都に残る決心をしたのは、また天国で森先生にお会いした時に、先生のすすめられたのとは、違った歩みをしたことについて、いろいろ言い訳をしたくなかったからだと語っておられます。これは驚嘆すべきことです。時間の全てを収縮させ凝集させて、人生の終わりに先取りして立ち、決断をしているのです。私の質問に答えて、森先生の願いに従おうとして夢中であったという言葉の背後には、そんな重い決断が籠められていたことを改めて思います。

この時ではなかったと思いますが、同じ頃やはりお話を伺いにお訪ねした時に、丁度恒子夫人も同席されていました。ドイツで気に入って買って、柄にもなくつけていた私の鮮やかな色のネクタイに夫人が気づいて、「なかなかいいネクタイね」と言ってくれました。飯島さんも同じように奥田先生から言われたことをお聞きしましたが、嬉しくなってにこにこしている私に、突然奥田先生が自分の真っ黒のネクタイを示して「これもいいだろう。森先生ゆずりでね」と言われました。この黒は「葬儀」の時につける黒ネクタイであり、先生にとってある意味で、この世に対しては「死んでいる」ことを示し、また自分に言い聞かせているものだったことを思わしめられます。そのような思いで、日々を過ごされていたのです。

その恒子夫人が病で車いす生活をされるようになり、家事も奥田先生の仕事になってきた頃のことです。先生はユーモラスに言われました。「食器洗いというのはすっきりするね。時間をかけた分が明瞭に結果に出るのだから。伝道はそうはいかない。目に見える成果を期待するわけにはいかない」。先生の生涯をかけた苦労が伝わってきます。

森 明先生のご子息の森 有正さんは、東大のフランス文学の助教授としてフランス留学したまま、パリにとどまった方ですが、晩年60歳を過ぎて日本に時々帰るようになりました。京大の基督教学でも集中講義をされたことがあります。私が丁度その頃助手のような仕事をして、聞く機会があり、そのパスカル論には深い感銘を受けました。森 有正さんはその一週間の間、よく奥田先生のお宅を訪ねられました。私もご一緒したのですが、最後の時に、私に森さんが「いろいろお世話になったので、私の『デカルトとパスカル』という本が再刊になったので今度差し上げます」と言われました。しばらくして奥田先生が礼拝の後、私を呼ばれて、「森 有正君から本はもらったかね」と聞かれました。

森 有正さんの忘れっぽさは有名な話で、仙台では予定の講演会をまったく忘れていたというようなことを聞いていたので、「森先生は忘れたのでしょう」と答えると、「そうだと思ったので、僕から用意したから貰ってほしい」と言われました。奥田先生は、森 明先生のお母さまである、森 寛子さんから、森 明が亡くなった後、孫の有正をよろしく頼む、年長の兄として付き合っ

てほしいと言われたことを、奥田先生から聞いていました。有正さんに代わって、奥田先生が私に著書を下さるという行為の内に、私は奥田先生の森 寛子さんの頼みに対する、生涯にわたる応答の一端を見たように思います。そしてそれは恩師森 明への応答でもあるように思います。

奥田先生の忘れられない説教があります。これはある年のペンテコステ(聖霊降臨節)の時でした。この頃ノーベル文学賞をとった川端康成がガス自殺をした後であったように思います。

先生は聖霊の話をされながら、ふと最近の出来事である川端の自殺に触れられました。「自分は川端の気持ちがよくわかる。もし自分に信仰がなかったら、川端と同じ道を辿ったとしても少しも不思議ではない。しかしこのような荒寥とした心にこそ、聖霊が降るのであることを最近しみじみと思う」と言われました。私は仰天しました。そのような荒んだ孤独とは正反対なのが聖霊に満たされるということであるはずなのに、奥田先生にとっては、まさに正反対であるゆえに、この荒寥とした心に聖霊が宿るのを感じておられたのです。人と人との交わり、友情を人一倍重んじられた先生はしかしこのような孤独の心をもっておられたのです。いやこのような孤独を知っておられたからこそ、交わりと友情の大事さがわかっておられたのだと思います。

もう時間があまりありませんが、やはり語らず済ますわけにはいかないのは、北白川教会2代目の牧師小笠原 亮一先生です。先生とは不思議な出会いで、私は奥田先生よりも前に、北白川教会でお会いしました。その出会いについては、先生の追悼記に記しましたので、ここでは省略します。先生は未解放部落への奉仕を生涯の課題と考え、私が出会った頃、すでに歩み出していました。京大で数学を先ず学び始め、やがて転じて宗教学でカントを研究し、博士課程を終えて、高校の教師をしながら同和地区に住み込みました。繊細でやさしい人柄とそのすさまじいまでの他者への奉仕の情熱にはたじたじとさせられました。先生を根本で捉えていたのは、深い宗教的洞察でした。宗教学の指導教授の西谷啓治は神秘主義思想とニヒリズムの問題を深く追求した京都学派の指導者でした。小笠原先生には西谷ゆずりとも言える神秘的洞察力がありました。私も小笠原先生に誘われて京大農学部の暗がりの林の中で、夜熱い祈りの時をもったことがあります。

私が大学の二年の時だったと思います。京大共助会の一泊二日の修養会を琵琶湖湖畔でもち、ほとんど徹夜で議論して、ふらふらで京都に帰ってきて、京阪三条の駅で皆別れてゆきましたが、小笠原先生がお茶でも飲みますかというので、高瀬川近辺の当時はやっていた音楽喫茶に二人で入りました。いろんな話をしていて、先生がふと自らの体験を語られました。学問に行き詰まり、ノイローゼになり入院したりしていたころ、必死で聖書を読んでいたという。そしてイエスの「野の花を見よ」という言葉に接して、思いをひそめているうちに、野の花に注がれているイエスの眼差しが、その花を通して、2千年の時を突き抜けて、自分に届き、自分にそのまなざしが降り注いでいるのをありありと感じたと言われました。喫茶店の暗がりの中で、これまでに聞いたこともない聖書の読み方を聞いて、本当にびっくりしました。それ以来小笠原先生の魅力に捉えられてきました。

森 明先生は共助会の友情について、始めに読んでいただいたマルコ伝の箇所にもとづいて、イエスが弟子たちを選ばれたのは、単に伝道の為というより以前に「彼らを己と偕に居らしめんためであった」とこれも驚嘆すべき理解をしめされています。今日語りました三人の方からも、その共助会の魂とでもいえるものを教えられたように思います。(日本基督教団 北白川教会員)