わたしたちを新たに生まれさせ 佐伯勲

ペトロの手紙一1章3―5節

ペトロの手紙Ⅰについてですが、使徒ペトロはローマ皇帝ネロの迫害によって殉教の死を遂げた、主イエスと同じ十字架刑で処刑されるに自分は値しないとして逆さ十字架刑を自ら望んだ「ペトロ行伝」と言い伝えられているのですが、この手紙はローマから小アジア地方の諸教会に宛てて書かれたものであろうと言われます。この手紙を託された者が、1章1節「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」ここに書かれてある順番で各地の教会を訪ねたのであろうと言われます。

時代は、ローマ帝国が強大になる中でのローマの平和、しかし、多くの問題があちこちで噴出し、教会に対する迫害も実際に起こり、教会が非難され、様々な困難に直面しておりました。1章6節「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」、この後にも「不当な苦しみを受ける……ののしられてもののしり返さず……身にふりかかる火のような試練……敵である悪魔、ほえたける獅子」とあります。そのような時代にあって、キリスト者は、教会はその苦難を信仰によってどう受け止め、また苦難の中にあってどう生きるのか、そのことがこの手紙全体を流れている主題であると見ることができます。

今日わたしたちの世界も混乱の極み、真っ暗闇、様々な問題が噴き出しておりますが(気候変動、ウクライナへのロシアの侵攻・核使用の威嚇、コロナ禍等々)、わたしたち教会は迫害という形の困難にはまだ至っていませんが、しかし、小さな群れながらも動揺し、躓き、呻き、苦しんでいることを思います時、この手紙を学ぶ意義は大きいと思うのです。

Ⅰペトロ1章3~5節、ここを読まれて分かりますように、わたしたちにとって真の救いとは何か、信仰とは何か、一番大切な内容がそのものずばり、書き記されておりまして、それは、「主イエス・キリストがわたしたちの罪のために苦しみを受け十字架にかかって死んでくださり、そして三日目に死者の中からよみがえらされ、さらに、その救いを完成するため、終わりの時再びおいでになる」ということです。わたしたちは〈使徒信条〉を告白していることですが、その信仰の内容がここに簡潔に言い表されております。

話がそれますが、今、統一協会(統一教会ではありません!)のことが話題になっていますが、統一教(キリスト教を模したカルト宗教)について、以下は、『日韓キリスト教関係史資料Ⅲ 富坂キリスト教センター編』~統一協会についての声明・韓国基督教教会協議会(一九七九年)~からの抜粋です。

・「統一教会は、イエス・キリストの十字架と復活による救いを否認する」

・「文鮮明をイエスより上におき、彼を真理の中心だとみている」

・「キリスト教はイエスの名によってのみ祈るが、統一教は、真の父母だという文鮮明と彼の妻の名によって祈禱する」

それゆえに、統一教はキリスト教でなく、キリスト教の一派でもないのです。今日、自民党の議員の多くが、統一協会(とその関連団体)と関わりがあったことが報じられていますが、わたしたち共助会の先輩も、その当時、関わりある団体に名を連ねたり、集まりに参加していたのではなかったでしょうか。あらためて、この問題が浮上してきて、わたしたちがキリストの教会の正当性をただ主張するだけでなく、神の愛の証しとして、真の信仰に生かされているだろうか、そう自らに問いかけつつ、問題と向き合いたいと思うのです。

1章3節冒頭、神への賛美「神がほめたたえられますように」のあとに、神の救いの出来事が非常にはっきりした形で記されています。それは、「わたしたちを新たに生まれさせ」てくださった、ということです。「新たに生まれる」、これは「再び生まれ変わる」という意味です。一度生まれた人間が、もう一度新しく生まれる、生まれ変わりたいと思う人は多いのではないでしょうか。これほど暗い悲惨な時代の中で、新しく生まれ変わることができたら、それは、どんなにうれしい、望みに満ちたことでありましょう。

神さまが人間をお造りになった時、創世記1章27、28節「神はご自分にかたどって人を創造された。……神は彼らを祝福された。」人だけではありません。お造りになったものすべてです。神はお造りになった「海の魚、空の鳥、家畜、獣、生きものすべて」をご覧になって良しとされました。1章31節「見よ、それは極めて良かった。」ところがどうでしょう。神さまがお造りになったすべて、わたしたちの世界は一体全体どうなっているのでしょう。繰り返しになりますが、気候変動・地球温暖化、新型コロナウイルス、ロシア(プーチン)のウクライナ侵攻、原発へのロケット攻撃、核による脅し、日本の政治家の恥晒し、園児放置死等々。2001年9月11日アメリカ同時多発テロから21年。あれ以来、世界は、わたしたちはおかしくなったのでしょうか。いやいや、人類の最初からおかしいのでしょう。アダムとエバの原罪と言われるように。神さまがお造りになった極めて良い状態にあったものが、人間の罪の結果、崩れてしまっているのでしょう。だから、人間はみな新たに生まれ変わりたいと切に願うのでしょう。そして、もし、そうしてくださるのなら、人はそのことをなしてくださるお方に、心から感謝し、ほめ歌をうたうでありましょう。

新たに生まれる、新しく生まれ変わりたいと切に願う人間の気持ちに応えるような話は、昔から今も、どこの国でも、たくさんのものが書かれたり、語られたり、わたしがそれをかなえてあげようと、うまいこと話をする人もたくさんいます。本の宣伝とかにもあふれています。しかし、生まれ変わるためには、誰が考えてみても強力な力が必要だということはわかることです。そのような力はどこから出るのでしょう。いかがわしいのになると、自分がその力の持ち主だと、そのためにはたくさんのお金が必要だと言うでしょう。しかし、真に生まれ変わるとなると、人間を生まれさせてくださったお方、神さまによる外ないでしょう。しかも、その神さまが本気になって力を発揮してくださらないとだめでしょう。それでは、神さまはどういう時に、どのような力を働かせようとされるのでしょう。それは、神さまが憐れみを持たれた時に、神に背いた罪ありの人間を新しく生きかえらせようとされるのです。

ここに記されているように、1章3節「神は豊かな憐れみにより」そうしてくださるのです。憐れみ、これは神の憐れみです。神の憐れみは、ヘブライ語では「ヘセド」と言いまして、「憐れみ、慈しみ、恵み、愛」これらは同義語です。日本語で憐れむと言うと、「かわいそう、お情け、助けてやる」といった感じですが、神が憐れんでくださるというのは、神さまの情け深いお気持ちといったものではなく、どんなことがあっても憐れもう、愛し通そう、恵もうという強い御意志、御心に基づいてということなのです。「神は豊かな憐れみにより」と「豊かな」これは、たくさんということです。神さまは、わたしたちに、どんなにたくさんの憐れみを注いでくださるかを思います。そして、そのたくさんの憐れみの中で最大のものが、わたしたちを新たに生まれさせてくださったことです。

そこで、神の憐れみは、まず、キリストの復活となってわたしたちにあらわされました。イエス・キリストを死者の中から復活させてくださったこと、そこに神の憐れみが一番豊かに、大きく、ハッキリとあらわされている、キリストの復活こそ、わたしたち、どうしようもなく弱く愚かな罪人を慈しみ、恵み、愛してくださった、憐れんでくださった証拠なのです。イエス・キリストの死者の中からの復活、これはイースターの出来事です。しかし、そのことの前に考えてみなければならないことは、復活された、よみがえられたのは死んだからです。死にて葬られ、陰府に降られた、決定的に死なれました。無数の、いや、全ての人がいろいろな死に方で死んでいきます。戦争で、病気で、事故で、みじめな死もあります。朽ち果てていくような死もあります。人間のすべての死に様を負うかのようにして、その人たちと同じように死なれた、一番惨めな十字架の死を遂げられ、それらの死者たちの一人に数えられた、そういう死者たちの中から復活されたということは、そこには、どんなに大きな力が働いたか、奇跡的な力が働かなければならないと誰でも思うことです。

時に、自分は死人をよみがえらすことができたと言う人がおります。それは、自分に奇跡的な力が、不思議な力があるからだと言います。だから教祖を信じよと。しかしです。そういう奇跡的な力が働くことよりも大事なことは、神さまが憐れんでくださる、慈しみ、愛し、恵んでくださること、それがなければ、どんな力も働くことはないのです。

そこで大事なことは、そのキリストの復活によって、わたしたちが願い、待ち望んだ、新しく生まれ変わることができたということなのです。しかし、この新たに生まれるというのは、わたしたちが自分の都合よく考えるようなことではありません。もしかしたら、人間はそのうち、心臓が壊れる前にクローンのような技術で新しい身体を作り、頭にはAIで出来た人工頭脳(自分の生涯の全てをデータとして入力)を入れ込んで再び生まれ変わる、というようなことではなくて、キリストの復活を信じる者はみな、自分は新しく生まれ変わることができたと確信することができるようにしてくださった、ということなのです。例えて言うなら、死刑判決を受けた者が、ある日、無罪を言い渡されて、新しく生きようとするようなものです。そこに、神の力が働いたのです。

それでは、そのように人間が新しく生まれたらどうなるのでしょう。新しく生まれ変わる前とどこがどう違うのでしょう。わたしたちはいろいろ考えるでしょう。今まで何も良いことがなかった、悲しみ苦しみばかりの人生。だから、苦労のないバラ色の人生を。病気を重ねてきた人なら健康な体に。貧しさをなめてきた人は財産家、金持ちに。もっと頭の賢い人に。スーパーマンのような強い人に。おそらく、百人おれば百様でしょう。

ところが聖書はわたしたちが思いもしなかったことを言ってきます。3節後半~4節にかけて「生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」

これを聞いてガッカリする方も多いのではないかと思います。新しく生まれる、というのは希望を持つようになるとか、地上の財産ではなく、天の財産を受け継ぐだとか、そんなんだったら、別にいらない、生まれ変わらんでもいいと思います。

希望というのは、ローマ書8章24、25節にありますように、まだ見えてないもの、いまだ実現していないことを、ひたすら待ち望むのです。財産というのも、わたしたちは地上の財産を望むのですが、ここでは、天に蓄えられている財産です。ここに言われているのは信仰の話なのです。わたしたちは希望がなければ生きていけないことを知っています。わずかな望みであっても生きていくことができる。その望みが絶たれたらおしまいです。死の宣告と同じです。そうしますと、本当の望みを失わせるものは死でありましょう。死んでしまったらすべてが終わりです。ですから、ここには「生き生きとした希望」と書いてあります。生ける望みです。死んだような望みなんて意味ありません。さらに言うなら、これは、死に対して望みを持つということでしょう。死に打ち勝つ望みです。

Ⅰコリント書15章54、55節「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

この言葉が実現するという希望、これが、生き生きとした希望なのです。死に打ち勝つ望みであれば、望まないわけにいかないでしょう。それが、キリストが死者の中から復活されることによって、わたしたちもその復活の力に与って、生き生きとした希望、死に打ち勝つ望みをもって生きることができるのです。それこそ、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産でありましょう。わたしたちが知っている財産と名のつくものは、朽ちてしまい、汚れた、しぼんでいくものばかりです。わたしたちが本当に安心して任せておけるものはこの地上にはありません。天に蓄えられている財産、それは、神さまご自身と言ってもよいでしょうし、インマヌエル、神さまが共にいます、主イエス・キリストがいつもわたしたちと共にいてくださる、このことにわたしたちは望みをおいているのです。今はまだ完全でないかもしれません。しかし、完全な救いが準備されているのです。

1章5節「あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」ここに「終わりの時」という言葉があります。これはもちろん、世の終わり、地球が滅亡する時、ということではなく、また、普通には、救いの完成の時とか、キリストが再び来られる時、と言われますが、他に「危機の時」という意味もあるようです。そうしますと、この時代、もうすでに、教会に迫害が差し迫った危機として及んでいた時です。そうしますと、ペトロは、それらの教会の人たちに対して、あなたがたは、信仰生活において、最後と思われるような危機的状況、もう終わりだと思われるような中にあっても、神の力により、信仰によって守られているのである。新たに生まれさせ、死に打ち勝つ望みが与えられ、天の財産を受け継ぐ者としてある。だから、主イエス・キリストの父である神をほめたたえ、心から喜び感謝するのである。そういう信仰の生活に励みなさいと語っているのでありましょう。

このことは、ペトロ自身が、あの日あの時、キリストが復活された時、経験したことでした。ペトロ自身、一番の危機的な状況であったのは、イエスさまが十字架にかけられた時でした。自分のせいで全てが終わった、すべてが信じられなくなり、自分をも呪ったことでありましょう。しかし、神がイエス・キリストを死者の中から復活させられたことによって、自分は助かった、救われた、新たに生まれ変わったと信じたことでした。ペトロはイエスさまを本当に信じたのはその時から、主イエス・キリストの父である神を信じ、心から神をほめたたえ、喜び、感謝したのでありました。

新しい年に当たり、わたしたちも日々新たに生まれ変わり、危機的状況、困難な中にあっても、生き生きとした希望をもって、新しい一歩を歩み出したいものです。

(日本基督教団 鷹巣教会牧師)