説教

教会に想う 飯島 信

使徒言行録 第2章43節―47節

ここに記されている聖霊降臨以降に生まれたキリスト教の教会についての描写は、教会に呼び集められた私たちに、2000年の歳月を経ても色褪せることのない新鮮な問いを投げかけます。それは、教会とは何かという問いです。まず、44、45節です。

44:信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45:財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。

44節に「皆一つになって」とありますが、それがどれだけの人数であったのか、「すべての物」を共有にしたと言うが、「すべての物」とは、どのような物であったのか「財産や持ち物を売り」とあるが、果たしてどれだけの規模の財産であり、持ち物であったのかなど、具体的なことは何も記されていません。しかし、具体的なことは何も記されていないにもかかわらず、新しく生まれた信者たちの共同体の生活の土台とは何かが明らかです。彼らは全ての物を「共有」にし、必要に応じて「分け合」いました。

小笠原亮一さんは、このことに関連し、『北白川教会50年史』の序文で次のようにブルンナーの言葉を紹介しています。「神の言ことばはエクレシアの中に現在し、聖書の言として活動する。したがって、それは一切の理解を越えるロゴスとディナミスとの統一において現在し、また活動するのである。この統一こそは、後代にはもはや存在もせず、また理解されない原始教団の秘密である。また同時にそれは、初代信者たちの交わりとその道徳的力の秘密でもある。……ゆえに、この始原的なる力と統一とが、もはや以前のように満ち充ちた状態では存在しなくなった後の時代が、この欠けたるものを補い、消え失せゆくものを保障しようと試みたのは尤もである。」

このように述べた後、ブルンナーは「後の時代が、この欠けたるものを補い、消え失せゆくものを保障しようと試みた」事柄として言葉を続けます。

「すなわち、第一に、神の言が神学及び教義によって保障され―同時に代用され、第二に、交わりが制度によって保障され―同時に代用され、第三には、愛の中に活動するものとしての信仰が、信仰個条及び道徳律によって保障され―同時に代用されることとなったのである」(『教会の誤解』酒枝義旗訳)と。

つまり、原始教団では、神の言がエクレシアの中に現在し、聖書の言として活動していた。そして、そこには、そのことを土台とした初代信者たちの交わりがあり、それが彼らの道徳的力の秘密であったと言うのです。確かに使徒言行録には続いて次のように信者たちの生活の様子が記されています。

46、47節。―:そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、

47:神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

ブルンナーは、この46、47節に記されている原初のエクレシアである教会を生み出した「始原的なる力と統一とが、もはや現代では以前のように満ち充ちた状態」では存在しなくなったが故に、「この欠けたるものを補い、消え失せゆくものを保障しようと試みた」結果、「第一に、神の言が神学及び教義によって保障され、第二に、交わりが制度によって保障され、第三には、信仰が、信仰個条及び道徳律によって保障され」ることになったと記します。重ねて言えば、原初の教会を求めて、今私たちは神学及び教義を必要とし、制度を必要とし、信仰個条を必要とすると言うのです。

ところで、1935年の北白川伝道教会設立より遡ること5年前、1930年9月7日以来、この京都の地で礼拝を守り続けた先達たちは、礼拝を守り続けることによって、何を求めていたのかを思います。また、彼らの小さな礼拝共同体の進むべき道行きとして、無教会でも単立でもなく、なぜ教派に所属する教会として歩むことを選び、決断したのかを考えるのです。

礼拝では神の言が語られます。その言は、同時に神への応答であり、語る者の群れを代表しての信仰告白を意味します。つまり、説教とは、その群れを代表しての神への信仰の告白です。説教は、説教者の専有物ではありません。説教は、信仰共同体が造り出すものです。さらに言えば、交わりが造り出すものです。つまり、説教を通して、語る者も聴く者も、神から信仰の告白を求められています。だからこそ、説教を造り出す交わりは、聖霊に導かれた真摯なものでなければなりません。

説教は、説教者の専有物ではなく、信仰共同体が造り出すものであることを、私は奥田成孝先生から学びました。そして、そのことによって、私は、一度は去った教会に戻ることが出来ました。それは、奥田先生が私に語ってくださった以下の言葉です。

「私は、説教では、群れの先頭に立ち、神に向かって信仰告白を行っている。だから、私は、会衆に向かってではなく、神に向かって語っている。」その通り、奥田先生は、いつも右斜め上を向き、神に向かって語っておられました。

1971年4月、私は、母の胎に命が宿されて以来23年間通い続けていた教会を去りました。70年代の全共闘運動や教会闘争を担い、敗北していった私のたどるべき一つの必然でした。それ以前から、聖書を読むことも、祈ることも、讃美歌を歌うことも出来なくなっていました。私には、教会に集まる人々が、信仰者としての〝タテマエ〟と弱い人間としての〝ホンネ〟を使い分ける偽善者の群れとしか映りませんでした。そして、私の批判と不信は、牧師の語る説教に集中し、私は礼拝に出席することが出来なくなって行ったのです。

しかし、奥田先生の語られた、説教によって群れの先頭に立ち、群れを代表し、神に向かって信仰告白を行っているとの言葉は、私が批判と不信を向けた説教を生み出しているのは、実は私でもあることに気づかされたのです。つまり、説教が、エクレシアを代表しての信仰告白であるなら、私の説教に対する批判と不信は、そのエクレシアを構成している自分自身に返って来たのです。つまり、牧師の語る説教を生み出しているのは、エクレシアの一員である私でもあることです。自分もまた、エクレシアの一員として、牧師の説教に責任を持たなければならないことに気づいた時、翌年の1972年1月、私は教会に戻ることが出来ました。

小笠原 亮一さんが、北白川教会の特色を物語るものとして、田辺明子さんの「北白川教会に無いものと有るもの」と沼田恭典さんの「黒板」を紹介しています。私が理解する奥田先生たち草創期の先達が目指した教会は、次のようなものではなかったかと思います。

第一に、小笠原さんは、この教会は「無教会主義に立つのではなく、あくまで宗教改革者の福音主義信仰に立ちつつ、洗礼・聖餐を重んじる教会として歩んできた」と述べています。

私は、それに加えて、この教会は万人祭司を実践している教会であることを思います。ブルンナーの言葉を借りれば「霊の共同体としてのエクレシアの秘密は……各人にそれぞれの分を指示しながら、しかもなお、なんら権限における区別を認め」ていないことです。ですから、説教は、牧師でありながら奥田先生は月の2回であり、残りの2回は信者が担当しました。まさに、全ての信者は等しく、奥田先生は群れを代表しても、特別に権限を有する者ではありませんでした。

第二に、田辺さんが列挙した「北白川教会に無いもの」の意味するところですが、北白川教会が目指すのは、そこに集う一人ひとりが、霊と真まこととをもって礼拝を捧げるに尽きるということです。人との交わりが先立つのではなく、神の前に独り立つ者たちによるエクレシアの形成を目指したのだと思います。人との交わりが先立つ時、そこには必ず人間同士の確執が生まれます。そのことは、努力しても避けることが出来ません。先達たちはその弊害を出来る限り取り除き、礼拝を捧げることに徹しようとしたのだと思います。

これら、北白川の群れが求めた礼拝に徹する教会の在り方は、同じく教会について語ったカトリックのある神学者の言葉とも深く関わるように思います。彼は、教会について次のように述べます。

教会は、神の呼びかけに、自己の決断を介して応える人々の集まりである。そこには、神からの常に新しい呼びかけがあり、それに応えることが教会に生きることである。キリスト・イエスが呼びかけ、人がそれに応える。即ち、教会はキリストの現存から始まる。

教会がキリストの現存から始まる。イエズス会の神父で上智大学で教えていたクラウス・リーゼンフーバーが、彼が主宰する聖書研究会で語った言葉ですが、キリストの現存とは、キリストの十字架を意味していると思います。つまり、自己の決断を介して教会に呼び集められた私たちの群れの真中には、キリストの十字架が打ち立てられていると言うのです。さらに言えば、説教は、主イエス・キリストの十字架とは私たちにとって何であるかが、神によって問われ、告白することでもあります。説教だけではありません。礼拝を構成する一つひとつのプログラムは、それら全てを通して、キリスト告白の意味を持っています。

牧師であれ、信徒伝道者であれ、エクレシアを代表する者の務めがあります。呼び集められた者一人ひとりを代表して、信仰の告白をすることです。そのためには、一人ひとりの信仰生活の現実を知り、群れを代表する者として、信者の魂への配慮をすることです。そのことと関わり、己の牧会者としての歩みを振り返るある出来事がありました。

先週、私の教会で奨励を担当してくださったのは、ご家族で教会に通われている方で、私の学生時代からの友人の一人でした。彼女には二人の子どもがいて、長男は自閉の障がいを持って生まれました。奨励の中で、姉にあたる長女との関わりについて触れます。自分は、ずっと長男にかかりきりで、振り返れば長女のことを顧みることをして来なかった。弟は障がいを持っているのだから、姉は弟の面倒を見るのは自然だといつの間にかそう思っていたと言うのです。確かに、彼女の言う通り、姉として弟を思い、何かと彼をかばい続けて生きて来た姉の様子は、私にも伝わって来ました。立派だとすら思っていました。しかし、彼女の話しによれば、娘は、障がいのある弟との関わりや、親の関心が弟に集中し、自分に向けられない中で、心に満たされない思いがマグマのように溜まっていて、それが時に爆発し始めたということでした。そして今は、その姉に出来る限り寄り添う歩みを選び取りたい、それが、マタイの「……わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・40)の御言葉を生きることであると思っていると語られました。

この彼女の言葉は、私の心に重くのしかかりました。牧会者として、彼女の心の苦しみを知らなかったことです。そのような自分に、牧会者として立つことが許されるのだろうかとの思いでした。また、自分と家族との関わりです。子どもたちが幼かった時、自分は子どもに対して、妻に対して、心に傷を負わせることはなかったかと問われたことです。振り返れば、心に想い当たることがありました。改めてそのことを知らされた時、私の人生になお残されていることがあることに気づかされたのです。

先の問題に戻りますが、無教会でも単立でもなく、教派に所属する教会として歩むことをなぜ選び取ったのかについては、宗教改革以来の洗礼と聖餐を重んじ、万人祭司の在り方に立つ教会であること、また、教団に所属することを通して、独り孤高の道を歩むのではなく、信仰告白を共にする仲間たちと協働して、宣教の業に励む教会であることを目指したのだと思います。

あと一つ、私の心にずっと残り続けている課題について述べます。

小笠原さんが先の序文で触れていることでもあるのですが、奥田先生は、敗戦の年の9月、牧師を辞任し、教会の解散を提案されました。しかし、結果として牧師を続けられ、教会も存続しました。なぜ、辞任を貫き通されなかったのか、なぜ教会を解散されなかったのかです。言葉を換えて言えば、奥田先生の辞任を思い止とどまらせたもの、教会の解散を思い止とどまらせたものは何であったのかということです。

小笠原さんは、序文で、この時の辞任の状況に関わり、次のように記しました。

「北白川教会の自主独立の姿勢が最も顕著に現れたのは、1945(昭和20)年9月、敗戦直後の時点であった、と私は考える。アモス書を講じておられた奥田先生は、講壇から、自身の辞任と北白川教会の解散を提起されたのである。戦争をめぐって、神の前に自身と教会の責任を問われたのである。戦時下、アモスの役を果すことができなかった、と。」

奥田先生の決断が、どれほど重いものであったかを思います。群れを代表して神の前に立ちながら、義しく立ち得なかった牧者としての己の責任、そして、同じ過ちを犯した群れの責任、その過ちを、辞任と解散を行うことによって、神への懺悔を表わそうとしたのだと思います。

それでは、一体何が奥田先生を思い止とどまらせたのでしょうか?私は、それが御前において許されることかどうか分かりませんが、奥田先生を思い止とどまらせたのは、やはり森先生との約束であったのだと思います。戦時下において、世に敗れ、神の前に罪を犯した。それは、辞任に値することであり、群れの解散に値することです。しかし、命を賭けてまで奥田先生に京都に残ることを懇願し、エクレシアの形成を願った森先生の信頼を、自分は生きている限り裏切ることは出来ないとの思いが、人の目に良しと映る辞任及び解散ではなく、牧者として再び立ち、群れの存続を決断させたのではないかと思います。終わりの日に

神によって裁かれることを受け入れつつ、なお森 明の友情に応えようとしたのだと思います。それが、奥田先生の主に在る友情であったように思います。神に裁かれてもなお友の信頼に応えようとしたのです。

私が奥田先生を知ったのは、1971年夏、先生が69歳の時でした。それから召されるまでの24年間、4半世紀にわたる交わりをいただきました。私が知る先生は、常に穏やかであり、厳しさの片鱗も見せたことはありませんでした。

中渋谷教会での葬儀の時、思わず棺に手を触れ、会場から霊柩車まで運ぶ者の一人にしていただきました。先生との出会い無くしての私を考えることは出来なかったからです。

そして今、限られた時間ではあっても代務として北白川教会に仕えることの出来る恵みを思います。信仰者として、牧者として、北白川教会に仕えた奥田先生の歩みを今一度思い返すことを通して、先生と森 明、そして先生にとっての北白川教会、さらには先生とキリストとの出会いの消息を知らされたいと思っています。

(2021年10月31日・北白川教会)

(日本基督教団 立川教会牧師)