パプアニューギニア・ニューブリテン島からの祈り 久米のぞみ
南太平洋、赤道直下、パプアニューギニアの西ニューブリテン州、ワシラオ村にアタ語を話す方々が生活しています。人口は、約4、000人の小さな民族です。焼き畑農業を中心として、狩猟をしながら弥生時代かと思うような生活をしています。密林に覆われ、道はほとんどありません。私達宣教師は、セスナ機で移動をし、ホスキンス空港に着きます。この飛行場は、第2次世界大戦の時に、日本の兵隊さんが、パプアニューギニアの方々に作らせた滑走路です。そこからキンベの町に出て、車で2時間半でワシラオ村に着きます。この道は、以前日本の大きな材木会社が使用していた道です。アタの人々の移動は、自分の足です。一日に2時間から5時間は、歩きます。
1994年に、この西ニューブリテン州のアタ語地域に識字教育宣教師として、私は遣わされました。その年の9月に東ニューブリテン州のラバウルの火山が大きな噴火をして、ラバウルの町は火山灰に埋まりました。「ラバウルの町は、パプアニューギニアの中でも、とても美しい町であった」と共にアタ語地域に遣わされた橋本千代子宣教師(元アタ語聖書翻訳宣教師)が話してくださいました。私は、その町を見ることはできませんでしたがニューブリテン島のエメラルド色の美しい海と真っ青な空、そしてその水平線を忘れる事ができません。その水平線は、丸くカーブを描いて地球が丸い事がわかります。
私がアタ語地域に遣わされる前の1983年、前橋キリスト教会から橋本一雄・千代子宣教師ご夫妻がアタ語地域のワシラオ村に聖書翻訳宣教師として遣わされました。二人の幼いお子さんを連れて、ワシラオ村に住み始められました。アタ語の聖書翻訳のために生涯を献げ、地道な宣教の働きを続けられました。アタ語には、書き言葉がありませんでした。橋本宣教師は、アタ語の音韻、文法を研究し、アタ語のアルファベットを作られました。そして、アタ語の聖書の翻訳を始められました。1988年に「創世記」を完成なさいましたが、アタ語の聖書翻訳の大黒柱であられた、橋本一雄宣教師は1997年突然召され、天の御国に帰られました。その後、2009年にはアタ語の新約聖書、創世記、ヨナ書の翻訳が完成しました。
この聖書翻訳の働きは、中断されると思われました。けれども、この働きを始められた主ご自身が、働きを進められ成し遂げてくださいました。橋本宣教師の翻訳協力者であったルパシ兄、ウェンガ兄、ウツシア兄、モリア兄達が翻訳の働きを続けられました。また多くの日本の教会が祈りを続けてくださいました。
今、アタの方々は、アタ語の新約聖書(創世記・ヨナ書付き)を自分の手にすることができました。主は、嘆きを喜びに変えてくださいました。アタの方々が、「創世記」がアタ語に翻訳をされた時に歌を作りました。「神様がアタ語で語り始められた。私達は、この日を喜ぼう。」私達の目には、理解が難しい時にも主は共にいてくださいました。2011年にアタ語の新約聖書、創世記、ヨナ書が主に献呈されました。
聖書を少数民族の言語に翻訳をする時に、村人との審査をする過程があります。翻訳をした「ヨハネの福音書」がアタの方々にわかるか、自然なアタ語であるかを審査するために村人の前で一節一節読みました。日曜日の礼拝の後、多くの村人に集まっていただきました。ワシラオ村で初めて読まれる「ヨハネの福音書」の御言葉です。静かに聞き入っているお一人お一人の中から、「トアグ」という言葉が漏れました。アタ語で「トアグ」は、「甘い」という意味です。母語で聞く御言葉は、心に染みていきました。「それらは 金よりも 多くの純金よりも慕わしく 蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」(詩篇19 ・10)「あなたのみことばは 私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりもわたしの口に甘いのです。」(詩篇119・103)
このアタ民族が住む、そして800以上の少数民族が住む青い空の下で、村の方々が平穏な暮らしをしていました。そんなある日突然、この真っ青な空を恐ろしい飛行機が行き交うようになったのです。第二次世界大戦が始まり、1942年1月22日、日本軍がラバウルに上陸しました。ラバウルは激戦地となり、多くのパプアニューギニアの方々と日本の兵士達、さらに連合国軍の兵士達が尊い命を落としました。
日本兵は、アタ語地域の村々にも進出しました。ワシラオ村の村長さん、ソアさんの奥さんのププイソウさんは、1942年頃に生まれました。村人は戸籍が無いために正確な年数、日程はわかりません。ププイソウさんのお母さまが、ププイソウさんを出産した時、お母さまは山の奥に必死に登っていきました。日本兵が恐ろしかったので、兵隊から逃れるため山の中で出産をしました。日本と連合国軍の戦争で多くのパプアニューギニアの方々も犠牲となっていきました。日本の地から遠く離れた南方の島で、日本兵達が戦死していきました。今でも、この美しい空の下にはたくさんの日本軍の大砲や戦闘機が残っています。
ラバウルの町は火山灰に埋もれてしまい今はありません。ラバウルから少し離れたココポに新しい町ができました。火山の噴火後には、ココポの町に宣教センターが建てられました。私たちはそこに滞在をして聖書翻訳の審査をしました。仕事が一段落すると噴火後のラバウルを見に行く事がありました。火山灰に埋もれてほとんど何もありません。戦争の記念のための戦跡の展示がしてあります。小さな小さな戦車がありました。5人乗りです。私の背よりも小さいのです。灼熱の太陽の元で、こんなに小さな戦車にどうやって乗り込むのでしょうか。日本の戦車でした。四季のある日本から常夏のパプアニューギニアに渡り生活を始めた頃は、立っているだけでも太陽の暑さが肌に突き刺さるようでした。小さな小さな島国、日本がどうやって大国に向かって行かれるのでしょうか。アメリカの鉄砲や飛行機の破片も展示されていました。何倍もの大きさです。飛行機の中にはアイスクリームを作る機械もあったと、親しいアメリカ人が戦争の時に日本に行った時の写真を見せてくれた事を思い出しました。
戦時中には、このラバウルの各地に日本名が付けられていました。噴火した山は花吹き山。現地では、タブルブル山という名前があります。戦時中は日本軍部の高官たちが高台に住んでいました。「官邸山」です。官邸山からはラバウルの海が一望できます。
また、ある時は翻訳の仕事を終えて、翻訳協力者たちとラバウルの海岸をしばらく散歩しました。アタ語母語翻訳者の一人はラバウルの高校と神学校に在籍していましたので、旧ラバウルを良く知っていました。海岸ではトーライ民族の方々が素潜りで魚を採っていました。ラバウルの少数民族の方々はトーライ民族です。海の深くまで見える澄んだ水を見ながら、その海岸を散歩した後、そこから少し離れたところまで行きました。自然に出来た大きな岩のドームがありました。3~4メートルはあるそのドームの中は、人が歩いて行かれます。そこを進んでいくと、直ぐに小さな穴があり、その穴はかがまないと入れません。その穴はその岩場からの通路になってどこまでも通じているそうです。日本人兵士が掘ったものです。「私たちの国の土地を、日本人がこうやって掘ったんだよ」と教えてくれました。
ラバウルは海辺にあるため、私たちが住んでいた内陸のワシラオ村よりも蚊が多くラバウルでマラリアにかかるとさらに重症化します。多くの日本兵の方々は戦う前にマラリアと飢餓で亡くなりました。兵士たちは、日本からパプアニューギニアには船で向かいます。荒波の中、ニューギニア島に着く前に沢山の若い兵士たちは海に眠りました。
30年前にワシラオ村に遣わされた時には、戦争の時に日本兵が村に来た時の事を話してくれるおじいちゃんがいました。アタの方々は過酷な熱帯雨林の気候と密林での自給自足の生活、そしてマラリアのために平均寿命は50歳くらいでした。今はもう、皆亡くなられました。村で長生きをされた村長さんのソアさんも天に召されました。日本人である私たちがワシラオ村に住むことを許可してくださった方です。
村のアピノピさんというおじいちゃんは、「子どもの頃に日本兵が村にずかずかと入ってきたんだよ。怖かったよ」と話してくれました。また、ある人のお父さんはその日本兵に槍を持って向かって行ったそうです。アタの方々は狩猟民族なので槍を持っています。決して日本人に顔を向けない方もいました。
ある時は、ラバウルから来たおじいちゃんがワシラオ村に滞在していました。一緒に話をしていると日本語の歌を歌い始めました。
マゲさんという方は橋本宣教師のお父さんを知っていると言いました。「♪もしもしかめよ」をよく歌って聞かせてくれたそうです。私はマゲさんに会う事はありませんでした。私がワシラオ村に生活を始めた時にはもう天国でした。橋本宣教師のお父様も若くして戦争のためにパプアニューギニアのニューブリテン島に行ったのです。マゲさんは「ハシモト」という名前の橋本宣教師のお父様の事を覚えていました。橋本宣教師は、「私はキリストの兵士としてここ、ワシラオ村に遣わされました。」と話してくださいました。橋本宣教師は子どもの頃にお父様から良く戦争の話を聞いておられました。
ワシラオ村には今でも日本軍が残した大砲の弾が残っています。パプアニューギニアにキリスト教が伝えられてから、150年程になります。パプアニューギニアは一応キリスト教国ですのでアタ語地域の村々には教会があります。日曜日には、教会が始まる鐘がなります。また、村での会議が始まる時にも鐘で合図をします。その鐘が、村に残された大砲です。その大砲の頭をひもでくくって木の枝に結わえ付けて、合図の鐘として使っていました。
私たちの母国、日本には日本国憲法9条という美しい憲法があります。私達キリスト者一人一人は争いではなく、平和を携えていくために創造されました。今日、私達の国は危機の中にあります。日本の若い方々、子ども達に平和を伝えていきたいと心から願っています。平和の君であられる主イエス・キリストを見上げつつ歩んでいきたいです。皆様の上に主の平安を心からお祈り申し上げます。
「私ヨハネは、あなたがたの兄弟で、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている者であり、神のことばとイエスの証しのゆえに、パトモスという島にいた。」(ヨハネの黙示録1章9節)
(日本長老教会 東久留米泉教会 教会員)