主にある友情 土肥研一

ヨハネによる福音書15章15~17節

2022年2月、私たちの目白町教会は伝道開始100年を迎えます。その今、もう一度、設立の志に立ち返りたいと願い、お手元の週報の表紙に二つの標語を掲げました。

「主にある友情」「イエス・キリストのほか、自由独立」

これはいずれも、キリスト教共助会という小さな信仰のグループが掲げているモットーです。目白町教会はこのキリスト教共助会の伝道によって、100年前に生み出されたのです。そして以来100年間、私たちの教会は、繰り返しこの二つの言葉を確認してきました。

「主にある友情」「イエス・キリストのほか、自由独立」

2022年の最初の主日礼拝である今日、私たちは教会の宝を受け継ぐために、改めてこの二つの言葉を味わいましょう。

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「主にある友情」。私はこの言葉こそ、目白町教会を示すものだと思っています。 共助会を創設した森 明という牧師がいます。この森先生が、まさに友情を生きた方でした。その友情の理解が、私たちの教会を生み出し、今も目白町教会の根幹を形作っていると、私は考えています。

森先生の言葉をひとつご紹介します。私が大好きで、以前にも一度ご紹介したことがあるものです。お手元の週報の裏表紙にも書いておきました。

「イエスが彼らを訓練したのは、後の事業を継がせる為めではなく、また伝道の機関、或いは手段の為めでもない。イエスは弟子の魂そのものを愛されたのである。夫そ れは根本的なことで、耶イ エ ス 蘇は罪あるものを愛され、彼らの如き者も、御側にいなくては淋しく、思い給うたのである。イエスは我らが、教会の事に熱心になるよりは、寧むしろ霊と真まことを以て、拝することを喜ばれる。本当に耶イ エ ス 蘇は吾々を、手段の為でなく、愛され只ただ御自身と共に置かれるのであった」

(森 明『新約聖書に於ける耶蘇基督とその弟子』)なぜイエスさまが、弟子たちを召し出したのか。森先生は手段のためではない、と強調しています。自分が死んだあと、この伝道の事業の後継者となってほしい。そんな狭い了見で弟子たちを選んだのではない。

「イエスは弟子の魂そのものを愛されたのである。夫そ れは根本的なことで、耶イ エス 蘇は罪あるものを愛され、彼らの如き者も、御お側そばにいなくては淋しく、思い給うたのである」

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昨日の元日礼拝で、イエスさまの弱さということをお話ししました。クリスマスに赤ちゃんとしてお生まれくださったイエスさま。赤ちゃんは、まさに弱さそのものです。この弱い者として、救い主が来てくださったところに、キリスト教の信仰の重要な特徴がある。そういうお話をしました。

昨日、イエスさまの十字架の直前、ゲツセマネという場所でささげられた祈りについても、聖書からご一緒に聴きました。イエスさまが弟子たちにおっしゃいました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(マルコ一四34)。

十字架を間近にしたイエスさまが、悲しみにもだえている。そして弟子たちを必要としています。ここに一緒にいて、ここで一緒に起きていてほしい。救い主が弱い者となり、周りの助けを必要としてくださる。罪深い私たちを救い主が求めてくださる。

森先生がおっしゃるとおりです。「イエスは弟子の魂そのものを愛されたのである。夫そ れは根本的なことで耶イ エ ス 蘇は罪あるものを愛され彼らの如き者も御お 側そばにいなくては淋しく思い給うたのである」。

イエスさまは有能な弟子を特に選び出して、その能力を自分の事業のために利用しようとしたのではない。もっと有能な人物が現れたなら、弟子は置き換えられてしまうのか。そうじゃありません。そうではなくて、イエスさまは、ひとりひとりの弟子の魂そのものを愛したんだ。

これが友情です。弟子に対するイエスさまの友情。イエスさまの12 弟子を見るだけでも、なぜこの人が選ばれたのか、という人ばかりです。その中には、イエスさまを売り渡すユダさえも含まれていました。でもイエスさまはその魂を愛した。このようなものでも、そばにいなくては「さびしい」と思ったんだ。 

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森先生は別の文章で「キリスト教の根本は友情である」という言い方もしています。その文章も少し読んでみます。

「キリストと我とはもちろん友人同志である。キリストは生命を賭して信じてくださる。友がこれだけの信用をおいてくれるとすれば、ありがたいことではあるが、また実に心苦しい。ゆえに友たることは練磨が必要である。友から真に愛されるとき、その友をあざむくに忍びず、もだえ苦しみ、励んで悔いて応えるのである」。(森 明『キリスト教の朋友道』)

「キリストと我とはもちろん友人同志である」。このまっすぐな断言にハッとさせられます。こういうキリスト理解は、森先生に特徴的なものであり、彼の人生に根ざしたものです。

森 明は1888年に生まれます。父は初代文部大臣、森 有ありのり礼でが、明少年が1歳になる前に、父・有礼は暗殺されます。明少年は幼いころから体が弱く、3、4歳から重いぜんそくに悩まされました。学校教育をほとんど受けることができず「病床が私の教室であった」と記しています。そういう幾重にも、人生の苦しみを抱えていたであろう少年が、十代半ばでキリストに出会い、16歳で洗礼を受けました。

「キリストと我はもちろん友人同志である」。これは森先生の人生の実感だったはずです。キリストが命をかけて私の友となってくださった。だから私はその友情に誠心誠意お応えしたい。森先生は生来の病弱のゆえに、36歳の若さで亡くなりますが、その生涯はキリストの友情にお応えするための真剣な歩みでした。

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そして自分がそのように生きるだけでなく、周りの若い人々にも同じ道を行こうといざなっていきます。そのようにして生まれたのが、キリスト教共助会であり、この目白町教会なのです。この教会がどのようにして生まれていくか、ということは、また時を改めてお話したいと思いますが、今日まず、ご一緒に確認したいのは、この教会の始まりにある志です。

「キリストは生命を賭して信じてくださる。友がこれだけの信用をおいてくれるとすれば、ありがたいことではあるが、また実に心苦しい。ゆえに友たることは練磨が必要である」。キリストの友情にお応えしよう。これが私たちの教会の志なんですね。

先ほど、ヨハネ福音書からみ言葉を聴きました。何度も何度も聴いてきたみ言葉ですね。イエスさまが弟子たちにおっしゃるんです。ヨハネ福音書15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。

ここにイエスさまの友情が示されています。私たちが選ばれてここにあるのは、イエスさまの友情のゆえです。「イエスは弟子の魂そのものを愛されたのである。夫それは根本的なことで、耶イエス蘇は罪あるものを愛され、彼らの如き者も、御お 側そばにいなくては淋しく、思い給うたのである」。

私たちも、文字通り「罪あるもの」ですね。でもそのような者を、イエスさまが愛してくださって、私たちのような者でも、そばにいなくては淋しいと思ってくださって、私たちは今ここに呼び集められている。

だから共助会は、そして目白町教会は繰り返し、確認してきました。「主にある友情」。

その友情の意味は、第一に、イエスさまと私との友情です。イエスさまが私を友と呼んでくださっている。だから私もその友情に精いっぱいお応えしたい。

そしてこの友情が横に広がっていく。今日のみ言葉でイエスさまは弟子たちに、こうもおっしゃっていました。17節「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。イエスさまに友情を結んでいただいた者として、互いに友情を結び合う。いただいた友情を分かち合う。縦軸の友情が横軸に広がっていく。

「主にある友情」は、この二つの意味での友情を含んでいます。イエスさまと私という垂直の友情、そして私とあなたという水平の友情。この二つが交差して、互いに強め合っていく、それが「主にある友情」です。

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そして、この友情は、互いを縛り付け合うようなものではない。これも大事なことです。この世における友達どうしの関係は、ともすると、互いを拘束し合うようなものになってしまいます。でも教会における友情はそうではない。互いに独立独歩、自由です。それを示すのが「イエス・キリストのほか、自由独立」です。

イエス・キリストによって選ばれて、ここにある。このイエス・キリストの友情を信じる。そのことにおいて、私たちはひとつです。これは、言わば「扇のかなめ」です。日曜日に一緒に礼拝をすることは、この扇のかなめを確かにしていくもっとも大切なことです。

そして礼拝が終われば、扇が開くように、私たちはそれぞれの場所へと派遣されていく。そして月曜日から土曜日まで、それぞれの場所で、イエスさまにいただいた友情を、生きていきます。イエスさまが友なき者の友となってくださったように、私たちもまたそれぞれの場所で、イエスさまからいただいた友情を、誰かに差し出す。自由に、独立したひとりの信仰者として。自分なりに、信仰を生きる。

「主にある友情」そして「イエス・キリストのほか自由独立」。これは私たちの教会を動かしていく二つの車輪です。伝道開始から100年。この二つの最初の志を大切に、今年も共に信仰の生活を続けていきましょう。  (日本基督教団 目白町教会牧師)