寄稿

『勇者の日』に日本の戦争犯罪について考えたこと フィリピン便り2  湯田 大貴

「僕の祖父がバターン死の行進の被害者なんだ」

同僚の一言に衝撃を受けた。まさかこんな近くに日本の戦争犯罪の被害者の家族がいるだなんて。教科書で名前を習ったくらいだったその戦争加害が、急にリアリティをもって私に迫ってきた。

祖父が死の行進の被害者である彼は、日本顧客向けの部署に所属しており、日常会話レベルの日本語を話す。自分の祖父が日本軍に殺されていながら、その国の言葉を学び、彼らに対して毎日仕事をするというのはどんな気持ちなのだろう。私はあまりにも衝撃を受けすぎて、それ以上踏み込んで彼から話を聞くことはできなかった。ただ、フィリピンに住む日本人として、このことについて詳しく知らないのはあり得ないと思った。フィリピン便りの第2回は、バターン死の行進について、私が調べたこと、そしてその上で感じたことをまとめたいと思う。

まずは基本情報について。1941年12月8日、当時アメリカの植民地であったフィリピンに対して日本軍は侵攻を始めた。同日には、ハワイで真珠湾攻撃が起きている。日本軍は首都マニラへと進軍すると、わずか11日でこれを陥落させることに成功する。マニラ陥落後、アメリカフィリピン連合軍はマニラを捨てて、マニラ湾の対岸に延びるバターン半島へと撤退した。日本軍はバターン半島へと逃れた連合軍を追撃し、3ヶ月にもわたる激しい攻防の末、連合軍は1942年4月9日に日本に降伏した。この日は、現在「勇者の日」としてフィリピンの祝日となっており、バターン陥落とその犠牲者を覚えて、当時の兵士たちを称える日として祝われている。またこの記事を書いているのも、偶然にも4月9日である。

そして、死の行進はその翌日、4月10日より始まる。日本軍は、捕虜となった7万6千人ほどのフィリピン兵とアメリカ兵たちを侵攻作戦継続のために速やかに移送する必要があった。

しかしながら、日本軍は当初、捕虜の数はせいぜい2万5千人程度と予想しており、予想を大幅に上回る数の捕虜を輸送する車両を用意することができなかった。結果、真夏の酷暑極まるフィリピンにおいて、83キロにも及ぶ行進を彼らに強制したのではある。十分な水と食糧を与えられず次々と弱り果てる捕虜たち。マラリア、飢え、疲労により捕虜たちは数を減らして、死の行進が終わる頃までに約650人のアメリカ兵が死亡したという。フィリピン兵にも多くの犠牲者がいたと思われるが、脱走したものも多かったようで正確な数字がわからない。

バターン死の行進の大きな問題点として、日本軍による非人道的行為、虐待、虐殺、レイプなどが行われたという記録が残っている点が挙げられる。アメリカ兵のポール・アシュトンは自らの回想録の中で「行進中、無防備で飢え、負傷した兵士たちが無力な同志たちの目の前で、無数の去勢、腹裂き、斬首、切断、数百の銃剣刺し、銃撃、そして単なる撲殺によって殺されるのが常だった」と語っている。

記録として唯一残っている大量虐殺は、4月14日に起きたフィリピン第91師団の虐殺である。この虐殺により約400人の捕虜が殺されたとされている。400人のフィリピン兵たちは、手首を縛られて隣の兵士と繋がれた状態で一列に並ばされて、日本人のタガログ語通訳者にこのような言葉をかけられたという。

「友よ、そんなに落ち込まないで。辛抱強くしなさい。もっと早く降伏していれば、こんな悲劇には遭わなかっただろう。我々がこうしているのは、多くの兵士があなたたちと戦って命を落としたからだ。殺される前に何か頼み事があれば、今すぐ頼め。」

こうして虐殺は始まった。日本人将校たちは、刀を振り回してフィリピン兵たちを殺していった。2時間にわたり犠牲者たちの叫び声はとどまることはなかった。ある一人のフィリピン兵の悲痛の叫びが記録に残っている。

“P – ninyong mga Hapon! Magbalik kayo ditto! Patayin ninyo kaming husto!”

(クソッたれ、日本人ども!ここに戻って来い!俺たちを完全に殺しやがれ!)

虐殺されたのは兵士だけではなかった。民間人のフィリピン人たち、特に女性たちが被害にあった。エルリンダと呼ばれるバターン近郊の村に住んでいた18歳の少女もその一人であった。川辺で洗濯をしていた彼女は、7人の日本兵に、残忍極まりない方法で輪姦されて、裸で頭を地面から出した状態で生き埋めにされた。彼女に起きた悲惨な出来事は、”Remember Erlinda” (エルリンダを忘れない)というスローガンと共に人々の間で記憶されている。

今まで見てきたように、バターン死の行進の最中において、アメリカ兵、フィリピン兵、それから全く関係のない一般の民間人までもが、日本軍による虐待、虐殺、レイプの被害にあったことが記録に残っているのである。ただこれらのことを知っている日本人はおそらくほとんどいないだろう。若い世代の中には、日本がフィリピンを侵攻・占領した事実すら知らない人々さえいる。真珠湾攻撃に関してはある程度知られていると思うが、フィリピンやその他の東南アジアでの戦闘はなぜか歴史の授業で扱われる量が少ない。現在、年間38万人を超える日本人観光客がフィリピンを訪れているというが、フィリピンの美しい島々や砂浜は、かつて日本軍によって血に染め上げられた土地であることを彼らは知らない。

今回バターン死の行進について調べる上で一つ気づいたことは、資料のほとんどがアメリカ人研究者によって書かれた英語の資料、もしくは日本人研究者によって書かれた日本語の資料であるということだ。フィリピン人著者による資料はほとんど見つけることができず、あるとすれば、死の行進に参加したフィリピン人生存者たちへのインタビューが資料の中に引用されているくらいである。一次的な資料がないため、アメリカ人や日本人といった「他者」の目を通してしか、彼らの姿を知ることができない。死の行進の参加者の80%以上がフィリピン人であった。行進の中には、日本兵の監視を掻い潜り脱走した兵士や、飢えやマラリアに苦しみ死んでいった兵士、多くの名もない兵士たちが犠牲にあったことは想像に難くないが、彼らの語りを知ることは非常に難しい。「歴史は勝者によって作られる」という言葉があるが、より正しくは「歴史は強者によって作られる」のだろう。戦争に負けようが勝とうが、大国であれば、戦後にその戦争に関する調査や研究がなされる。逆に長く植民地として搾取されていたフィリピンでは、教育機関や研究機関が先進国に比べて発達しておらず、識字率も低かった。よって、フィリピン人たち自身によるナラティブは記録されず、歴史の闇の中に消えていってしまったのだ。植民地主義によってフィリピンは日本とアメリカの戦争に巻き込まれ、しかも主たる戦場の一つとなり、戦争が終わっても犠牲者たちに関する学術的調査が十分になされなかった。「植民地主義は人を「2度」殺すのだ。 ― 初めは暴力によって、そして2度目は、記憶を消し去ることによって」。

バターン死の行進に関して調べる上で気づいたことがもう一つある。それは、アメリカ人と日本人の間でこの事件に対する解釈が丸っ切り異なることだ。アメリカ視点の資料では、日本人の野蛮さを強調する記述が多い。事実として、当時の日本軍が捕虜の扱いに関する国際法を遵守しなかったことに触れるだけでなく、彼らが東洋的で、非キリスト教文化的で、啓蒙を必要とする野蛮人のように描写する。アメリカ人からすると、日本軍の行動全てが異様で理解し難く、彼らの想定する「人間」という枠から外れた存在に見えたのだろうということが、資料の中から読み取れる。

一方で日本の資料では、この戦争犯罪を完全に正当化まではしないものの、名誉を挽回するような記述が見られる。輸送手段がない中で捕虜を輸送するには、自ら歩いてもらうしかなかったこと。そもそもこの行進は、補給地に捕虜を輸送するための生きるための行進であり、殺すための行進ではなかったこと。バターン半島では、マラリアが蔓延しており、それらを防ぐ術はなかったこと。そもそも水や食料も不足しており、餓死も防げなかったこと。このようなことが主眼に語られて、「あの悲劇は仕方なかったのだ」というような結論を主張する。

このようにアメリカと日本でバターン死の行進の切り取り方が全く異なるのだ。同様の構図は、他の戦争犯罪に対しても見られる。典型的な例は、原爆だ。多くのアメリカ人は、原爆投下を戦争を早期に終結させる手段として正当化するが、日本人は、この出来事を民族の歴史に刻まれた悲劇として記憶する。興味深いことは、戦争犯罪の加害者か被害者かによって、その犯罪に対する語りが逆転しまうことだ。アメリカの原爆投下に対しては痛烈に批判する日本人たちも、自分たちが犯した虐殺に対しては自己弁護的な言説を展開してしまう。同様にアメリカ人たちも、フィリピンにおける日本軍の野蛮さや残酷さを強調するが、原爆投下は正当化してしまう。

つまり、自らの罪を隠すことは、民族や国家、宗教によらず、ヒトという種に普遍的に見られる特徴なのだ。原罪 ― 罪へと向かう根源的な傾向性は、いかに我々の身体の中に深く刻まれていることか。自らの罪を隠し、正当化することは、集団の中においてはより強く作用するだろう。なぜならば罪と向き合うことは不快だからである。不快な言説に耳を傾ける人は少ない、人々は不快な真実よりも耳障りの良い虚構に耳を傾ける。結果、真実が捻じ曲げられて、それが歴史として語り継がれてしまう。被害の歴史ばかりが教えられ、加害の歴史については教えられることはない。我々はより加害の歴史を語る必要がある。

今、フィリピンのセブ島のカフェでこの記事を書いている。前述したように、今日は「勇者の日」、83年前にバターン半島が陥落した日である。この翌日から死の行進が始まった。そんな特別な日である今日も、たくさんのフィリピン人がいつものように私を笑顔で迎えてくれる。これは決して当たり前のことではい。我々の犯した罪を考えれば、唾を吐きかけられて、ありとあらゆる軽蔑の言葉を投げかけられたとしても仕方ないとさえ思える。83年経った今、この国に私は迎えられている。ただの無知な日本人ではなく、歴史を知り、その歴史を伝えていく責任のある日本人としてこの国でこれからも生きていきたい。

(Living Word IT Park)

参考文献

1

Kevin Murphy, “To Sympathize and Exploit”: Filipinos, Americans, and the Bataan Death March

2

Dialog for People,「フィリピン・バタアン「死の行進」から考える、日本の戦争加害」

https://d4p.world/24032/

3 Wikipedia, 「フィリピンの戦い (1941 年-1942 年)」

4

The Filipino Veterans Recognition and Education Project, The Bataan Death March Explainer

3

https://dutytocountry.org/wp-content/uploads/2023/07/explainer-03-bataan-death-march.pdf?utm_source=chatgpt.com

5

日本経済新聞「フィリピン、日本人観光客が2024年に38万人超27%増」

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB09BVS0Z00C25A1000000