講演

先達の説教を辿りつつ、信仰の諸問題を追う 青山 章行

一 始めに

ここ数年、京都共助会月例会では奥田成孝先生の説教集『一筋の道を辿りて』を読んで参りました。読む毎に汲めども尽きない泉のようで、京都の片隅に貯められた「水瓶」の生命の水を味わう恵みを頂くことが出来ました。その読書会で特に重要な論点となったものを、まとめてお話しようと思います。主として戦前部分の説教から学んだ信仰の諸問題を取り上げました。

最後の「最近の新約聖書の字句改訂」は私の関心事です。

 1.「神に栄光を帰するの道」(信仰に従順とは)

 2.「神の前に立つ個として」

 3.聖書の宗教における人間存在の三分説(霊・魂・体)

 4.イエスの謙遜と悪霊及び聖霊

 5.共助会の先輩方のへりくだり

 6.永遠の世界と天上の教会(我々の国籍は天にあり)

 7.最近の新約聖書の重要な字句改訂とルターの信仰義認論

二 「神に栄光を帰するの道」(説教集 45─47頁)

奥田先生は「凡ては神の栄光の為にとは、基督者の最終最高、中心的な祈りである」とされ、では「何をもって神の栄光をあらわさんか」ということを熱心に語られました。説教集の46頁で「パウロは不従順をもって不信仰と解したごとく、従順こそは信仰の本質と云うことが出来る。それ故『信仰即ち従順』とされる。神の聖意思に対して、己を空しくして、神にまかせまつる従順こそ信仰に外ならない。『すべては神の栄光の為に』とは基督者の中心的祈りであるが、我らは、その人格、その事業、その生涯においてこれを現はすのではない。『信仰の従順』こそその道である。いわば信仰より出でて信仰に進むこと。まさに信仰こそ始めにして終わりである。信仰は到底自分の修養や安心の為ではあり得ない。とかくにも理想実現の為の信仰に堕しがちな自らの信仰を恥ぢつつ、従順としての信仰に生きなん」と語られました。難解な本説教を繰り返し読む内に、自分の信念に生きることは、即ちそれは修行ということであり、顧みれば自分の信仰、そしてその理想は、自分が思い描いた身勝手な自分を基準とする幻想であるのかもしれないと思うに至りました。改めて神に任せまつる「信仰の従順」を問い直されました。

三 「神の前に立つ個」(森 明、原田季夫先生、E・ブルンナー)

森 明先生は肉親の情を案じつつも「私を私する罪」を犯すまいと祈られました。(著作集第2版「濤声に和して」19頁)また原田季夫先生について、長島聖書学舎の厳冬期に、暖を取ってもらおうと塾生らが節約して集めた炭俵一俵を持参したところ、先生は「今間に合っています」と遠慮された。縁の下をみると実は僅か3分の1しか残ってないのに「それは貪りになりますから」ということであった。「私は無理矢理に置いてきた。」と、一期生であった大日向繁氏は述懐され、このように自己を厳しく戒められる先生に接して、「ライ者による伝道」に対して30年準備を重ねて「僕の道」を生きてこられた御姿に重ね合わせ、深い感銘と共鳴を受けられたということです。

神の前に立つ経験について、原田季夫先生は伝道にあたり、「神の臨在の光のみ輝く『至聖所』を各自が霊魂の奥深く蔵し、何者にも乱されない神との個人の交わりを祈りの生活の中に確保することが決定的に必要である。神との孤独の面接所が厳存し、ここに犯しがたい個人人格の尊厳の所以がある。」(『文化と福音』259頁)といわれます。

戦後来日されたブルンナー先生も彼の著書『矛盾における人間』の中で「神との孤独の対坐」の内容を述べられます。即ち「私が神の賜物により課題として受け取ったものを、寸分たりとも他の如何なる人も取ることはできない。(略)そこには絶対的な永遠に深淵の孤独があり、私は全くただ独りで神と顔と顔を相合わせて対坐するのである。教会も司祭も法王も聖書の言葉すらも、この私自身の聴従を決して免ずることはできない」と説かれています。〔原田季夫訳原著(288頁)(『文化と福音』256頁)〕

四 聖書の宗教における人間存在の三分説(霊・魂・体)

聖書の宗教における人間構造の見方については二つあります。キリスト新聞社発行の『新共同訳 聖書辞典』(「霊」の項目在中590頁)によれば、「人間の三分法による『霊と魂と体』(テサロニケ前書5章23節)における霊プネウマは、その生命を神から受ける者としての人間の側面を表している。この意味で人間は『霊』によって神に結びつく」とあります。

原田先生は、古来の伝統的な聖書の人間観として、調和的統一的な三分法と、倫理的観点に立つ対立的断絶的な二分法が、聖書の中では侵し得ない形で併存していることの認識から出発しなければならないと解されます。「創造と堕落」というキリスト教の根本教義の基礎に立ち、三分法から二分法への展開を試られて、まず三分法は本来、造り主に対する関係で、人間の霊と魂と体の三部分が調和的統一体をなすと考える。そして人間の「霊」の部分は神の「聖なる霊」と結合して人格の中核をなすと捉えられます。即ち人間の「霊」は人間の最高最深最貴の部分で、目に見難い永遠の事物を把握する事が出来、信仰と神の御言葉とが住まう家である。そして「魂」と「体」を両翼のようにして、人間と神との正しい実体的な人格関係を持つと言います(テサロニケ前書5章23節)。これに対し二分法は、霊・魂・体の三つの部分の一つ一つが別の仕方で、霊と肉と称する二の部分に分たれ、或いは善く、或いは悪くあることもできる。つまり霊や肉であることができる、とされています。二分法は特に新約聖書において堕落や罪性と密接な関係を持つ倫理的な性格として表わされるとされます(ロマ書8章5―6節)。(『文化福音』10―16頁、63―65頁、141頁より)

私が思うには、人間が人格の最高最善の中核である「霊」をもって、神の「聖霊」と対面する正しい関係に至れば、森 明先生の「私を私しない」ということが可能になるのではないかと思います。また原田先生の「貪らない」とは、自分の腹を満たして自らを神とする偶像化を赦してはならないということになるかと思います。(ロマ7章7―8節、コロサイ3章5節)

五 イエスの謙遜(アウグスティヌス及び霊について)

聖書記事に由れば、イエスは実に謙虚な方でした。主イエスに教祖的なイメージは見られず、決して目立つ方ではありまんでした。ただ五千人の群衆に聞こえるくらいの話をされたのですから声は相当に大きかったと思われます。ルカ伝18章末尾では、盲人はたちまち見えるようになり、「神をほめ讃えながら」イエスに従った。これを見た民衆は「こぞって神を賛美した」とあります。同様に奇跡物語の記事は他にもマタイ9章、マルコ2、ルカ5、7、9章等に見られます。これらの記事をよく見ると、奇跡を行ったイエ自身を、ではなく、「神を群衆が讃えた」というのです。イエスは肉の人であり、神の子としての姿で来られたわけでない。ただの人として来られました。アウグスティヌスは「彼は神として来たのなら認識されなかったであろう」(『ヨハネ福音書講解上巻』22頁)と説いています。

共助会の先輩方の謙虚について、会員の清水武彦さんの感銘深い一文によれば「一介の若僧が優れた先輩たちと共に歩めたのは、奥田先生はじめ共助会の先輩各位が『謙虚』に接して下さったからであった。戦後の青年は、戦争を止められなかった世代への反感、憎しみや牧師など指導者個人に戦争責任を問う運動があった。共助会の先輩に尊敬をもって接することができたのは、先輩たちが『キリストのへりくだり』(フィリピ書2章6─8節)を思わせる態度で、一人一人に接してくださったからである。ただ感謝あるのみ」と記しておられます。(集会記録)

六 神の「聖霊」と人間の「霊」の関係

マルコ3章29節には「しかし聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」とあります。私は先にイエスの「謙遜」を取り上げましたが、それはイエスの「霊性」について深めたいと思ったからでした。主なる神と地上の主イエスの交わりは、聖母に抱かれた御子に見られる最も美しき霊と霊の交わりでありました。しかしながら悪霊もイエスを見かけた時、直感的にその聖なる人格性を感じ取り、直接の対話の関係に入ることが出来ました。悪霊にとりつかれたガダラ人(マタイ8章)、ゲラサの狂人(ルカ8章)、汚れた霊に取り憑かれた男(マルコ1章)は直接神の聖者と会話をしています。悪霊も神の聖霊については深く意識できるからです。実は我々は、自分が正しい霊及び正常な感覚を持つ存在だと思い込み、自分を基点として自分と神との関係を意識しているのかも知れません。もう一度深く自分で、聖霊と自分の霊、悪霊と自分の霊との関係を問い直す必要があるのではないかと思います。

七 永遠の世界と天上の教会のために祈る(国籍は天に)

人間の「霊」はまた最高最善の目に見えない永遠の事実を把握することが出来ます。かつて昭和12年の夏、浅野順一先生は信仰と生活社の修養会で「我々の国籍は天にある。祖国も基督者にとっては仮の宿りに過ぎない。我々が国を愛し、愛着を感ずれば感ずるほど神の国と祖国は明かに区別しておかなければならない。神の国は断じて皇国ではない」と講演されました。

奥田先生も「天上の栄光と戦ひの教会」の説教の中で、「私共の信仰生活、現実のこの教会生活はこの神の国の幻に照り出されねばならぬ。この祈りと戦いとは我国のみならず隣邦支那にある主の教会、満州にある主の教会へと押し拡められねばならない。(中略)この幻とは頼りなき幻影ではない。信仰にたつ者には地上のあらゆる現実に勝る現実であり、実在である。」(説教集44頁)と説かれて、熱河宣教伝道に赴かれた先輩達の働きを支えられました。

八 「祈りの生活についての断想」(説教集16 ─18頁)

奥田先生は「我らの祈りに対する終局最高の照応は聖霊を賜ることに外ならぬ。聖霊は聖旨を解きあかし、必ず我らに大いなる平安と感謝と満足とを与へ給ふ。」(17頁)「我らの全生活の中心は祈りの生活にある。祈りは神との最も密接なる生活のときである。我らはよき生活のためよりも、神との交わりのときをよりよき密室たらしめんがために、よき生活をせねばならない。」(18頁)と説かれます。我々に信仰生活上の最も大切な時間は、神と対面し出会いまつる密室の時間であろうと思います。福井二郎先生も熱河の山で毎朝4、5時間祈ることを常とされたそうです。

九 ルターの信仰義認論と最新の新約聖書の重要な字句改訂(キリストの真実)

最近、私には大きな信仰理解の転換がありました。ルターの信仰義認論に関するものです。学生時代、奥田先生に洗礼を勧められた当時、「不信不安な部分が多いのですが」と、私は先生に申し出ました。先生は、「それはこれから数十年、自身の生涯をかけてその真理を確認することです。良き友良き師に囲まれてしっかりと教会生活を守って行けば自ずと示されるでしょう」とのお答えで、そのまま肩を押されて受洗し今に至りました。しかしその後も、私は未だに「確立した信仰がなければ救われないのではないか。自分には基督者としての資格がないのでは?」というドグマに、疑心を抱き続けておりました。

しかし二年前に31年ぶりで聖書協会共同訳が改訂され、その中で「キリストの信仰のみ」という部分が数か所ほど一斉に「キリストの真実が義とされて」という表現に字句改訂されているのを知りました。旧来の文語訳、口語訳、新共同訳では一律に「キリストへの信仰が義とされる」となっていたものです。信仰義認論に関連する改定として大きな衝撃を受けました。

今回の聖書協会共同訳(2018年)字句改訂部分の該当説明では、ロマ書3章22節の改定理由を以下のように明示しています。新共同訳は「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」と訳されてきました。しかし、「ピスティス・クリストゥ」という句は両義的で、(A)「キリストへの信仰」、あるいは(B)「キリストの真実」という意味があり、文脈によって訳し分けるべきであることが明らかになってきました。ここでは神の義がテーマですので(B)「キリストの真実」と訳すことにした、という釈明です。

その結果今回改訂された聖書協会共同訳では、ロマ書3章22節は「神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません」と改訂され、ロマ書3章26節も「またイエスの真実に基づく者を義とするためでした」と改訳。他にガラテヤ2章16 節、フィリピ3章9節、エフェソ3章12節等数か所も同様で、「キリストの真実」へと、重要な訳語変更がなされております。

この点、本箇所は従来から前田護郞先生も「ピスティス」を一貫して「まこと」と訳されていました(中央公論社『世界の名著ロマ書訳』519頁)。氏訳によればロマ3章22節の箇所は「すなわち、イエス・キリストのまことによる神の義で、信ずるものすべてのためのものです。そこに差別はありません。」また519頁註( 3)、523頁註(3)でも「普通『信仰』と訳されるギリシャ語はピスティスで、まことの意。人の意志や行為ではなく、神から賜るまことによって義とされて救われるという新しい福音である。」「ピスティスとは人が自ら信じて仰ぐ信仰ではなく、イエスだけが神に対してまことであり得て、十字架につかれた。この彼のまことによって神は人に義を恵まれる」と書かれています。私が思いますには、このように「信仰」を理解納得し、知り得たときは、もはや自分の信仰のキャリアが遅れていることを臆する必要は無く、恥ずることもありません。またエフェソ3章12節の今回改訂訳文では「キリストにあって私たちは、キリストの真実により、確信をもって堂々と神に近づくことが出来ます」とされています。 人はもはや信仰を救いの条件としたり、自分や他人との比較において信仰を強い弱いとか、良い悪いとか評することは出来なくなります。他方神は罪を放置された訳ではなく、罪の処分を厳正に行われますが、人間の罪をご自身の御子に負わせて神の義を貫かれました。この理解に立つ限り、人間の作り上げたあらゆる宗教的差別は克服されて、すべての教会と一つに結ばれる道が切り拓かれます。そればかりでなく、信者・不信者の別なくあらゆる人をキリストの救いに招かれている者と見て、寛容な世界が展開すると考えられます。

十 終わりに―先達の歩みをおぼえつつ―

奥田先生は「私は私であり、私なりに生きるというほかはない。一人一人が神の前に立つ個として。そこで教会形成、教会形成といわずして交わりとしての教会がなり立つ」と云われる。私は、殊更に何か、共助会の新たなる道を求めることは考えていません。常に祈り心に帰り、個の問題として「信仰の従順」と「密室の祈り」を真剣に考える。他方で、基督者はいずれの場所にあってもまわりとの「分かち合い」を旨とし、他者と心を合わせて行くことが肝要と考えています。

(日本基督教団 北白川教会 旧会員)