箒(ほうき)のような京都共助会 若林義男

【誌上 京阪神修養会 講演5】

北白川教会の礼拝に加わることを許されて未だ7年足らずにしかなりません。65歳で40年務めた倉庫会社を退職しその後をどのように生きようかと考えたときに、自分のしたいことをしようと決めて、65歳を区切りとして勤め人であることを辞めようと決めたときに、自分の居場所を求めて勝手に決めたことに始まります。何故北白川教会と交わる生き方を選んだのかは、一つには母が北白川教会員であったこと、また亡くなるかなり以前から小笠原先生が花の日にご夫婦で母を問安してくださっていたこと、小笠原先生が私の高校の3年間の数学の教師であったことなどいくつもの関わり、神様の導きがあったもののように思われます。共助会は私の小学生低学年の時は家庭でも時々話の中に出てくるものではありましたが、そこでは勝手に「京女会」と京都の女性の集まりのように思い違いをしていたものです。母は女学生のころから奥田先生の女子共助会に出席し時々に家庭の雑談の中でちょっと語っていたのだと思います。家庭内では変わった人たちの集まりだとの結論になっていたように思い出されます。母は真面目に、変わった人たちの集まりではないと言っていましたが。

北白川教会に転会を許された前後から京都共助会の毎月の例会にも参加を許されたように思います。出席するまではちょっとハードルの高そうな感を勝手に持っていたものですが、その頃は林律さん、田辺明子さん、黒瀬健二さん等々私から見ると錚々たる方々が出席されておりハードルの高いものに思えていたのですが、出席してみると何か私の求めている世界がうっすらと見えるようでもあり、ついて行くことすら不安ではありましたが暖かく迎え入れられて何とか今日に至っています。でもほぼ一番の新参者ではありますが。参加を許された当初は戦前の共助誌の中から一文を取り上げられて発表されるのを聞いていたのですが、ある時からその戦前の文章を区切りごとに順番に読むようにとの役回りが発生してきました。これには戦後生まれのそれもそうそう本も読んでこなかった私には、学生時代からろくに開くこともなかった辞書、それも親が使っていた辞書を取り出してきてのちょっとした苦行の始まりでした。ある時主催者である片柳榮一さんにいつまで戦前の記事を取り上げられるのですかとお聞きしたら、今後も続けますと言われ、さもあらんと勝手に降参したものです。この数年は奥田先生の『一筋の道』と題した冊子を北白川教会が共助誌に奥田先生が書かれたものの中から抜粋し発行したものを続けて学んでいます。私にはしっかりと読むことすら難しく、京都共助会はいつまでたってもハードルが高いままです。北白川教会も同じなのですが。年がら年中問いかけられているようなものです。

今日は北白川教会についてはお話しする場ではないので、さて京都共助会について語れと言われても、90年にならんとする京都共助会のごくごく最近のことしか、私の感じたことしか語ることができません。先ずは奥田先生という方はどのような方だったのか、京都共助会とはどのような会であったのかあれこれと想像するような時間を過ごしています。

戦前を想像することは父が家庭で話をしてくれた僅かなことから想像する外は、ほんの少しの知識しか持ち合わせません。想像するしかない戦後生まれの私には大変難しいものです。しかしそこには戦後の教育からは得られない、失われたといってもいい美しいもの、素敵なものが息づいていたことも僅かではありますが、今の私には子供たちに言い伝えられないものがあったことも、それをこれからの時代に残すかどうかは選択肢から省かれそうですが、認めるに値するものがあったと私には思われるものです。戦前と戦後で大きく変わったものの一つに美意識の変化があると思っています。特にある意味特権階級にあられた奥田先生の育たれた時代の美意識ともいえる認識は、父から聞かされた戦前の意識を私の娘たちに説明することはできない時代に、世代の交代が進んでしまった感すら持ちます。今の京都共助会の例会は他では得られない問いかけの厳しさを毎回覚えさせられます。

北白川教会の歴史が共助会に始まっていることは、他の教会とは大きくその始まりにおいて宣教の意味がやはり異なっていたもののように思わざるを得ません。それは森 明という強烈な人格が、知識ではなく存在としての人間とは、信仰とはが始まりにあるように感じます。それは頭で理解されるものでもなく、現に目の前にあるという形で存在するものとして示されたのではと。コピーではなく本物を見ることの大切さのような、ちょっと表現し難くもありますが、そこに私なりに言うと不変とも言い換えてもいい真理があるようにも思っています。まだ全くわかっていないのですが。

漠然とした教会というイメージしかありませんが、私の感じる京都共助会は救いを語る場ではなく寧ろ人間とはを聖書を通して、先人を通して学ばんとする会のようにも思えるものです。これは私の自分にとって都合のいい受け止めです。ある意味自分を見つめ返さざるを得ない僅かな年月にすぎませんが感じるものでもあります。これは北白川教会の大先輩や、旧会員の方々また全国の共助会員の方々の支えを受けることが許されている幸いを強く思わしめられるものです。不思議な力で結ばれた、ただ感謝としか私には表現できないものです。ただお話がとても難しいのにはしばしば悩まされるものでもあります。

私の父が生前「自分の辞書には損得という言葉はないと言いたかったが」と時々に言っていたものですが、私の知る共助会の皆様は父も私も持つことのできなかった辞書をお持ちのように思います。美しいという表現をしたく思います。美しいとは神に捧げるにふさわしいものと云い変え得るかと。これからの多分多くない残された時間をどのように生きれば、歩めばいいかとの道が示されている貴重な、そして本当に幸いな場が京都共助会でもあります。もちろん私にとっては北白川教会と一体としてあるものです。

今日は北白川教会については語らないと冒頭において語りました。しかし私にとって京都共助会は北白川教会に迎え入れられて、ほぼ同時的に参加を許された会です。それは初めに書きました通り、北白川教会の始まりが共助会によるところにあります。奥田先生が共助誌に書かれているように、語らざるを得なくなった京都共助会の発展が出発点となっているからです。また一方で共助会は無くていいものとなっても構わないとも。しかし教会の歩みのスピードは共助会に追いつけていない間は共助会があっていいとも。ある意味伝道、宣教が知識から人格の形成に至らなければ、共助会の活動は終わることがないのではとも思うものです。70歳を過ぎて初めて人格という言葉を少しだけ噛みしめることが出来るようになったように思います。私にとって人格と生きることとは重なる意味を持っています。かなり前の共助誌の一文に「友のために死ねること」という言葉があったことを強く心に留めています。深く考えさせられます。私は間違いなく「私に代わって死んでほしい」「死から遠ざかりたい」としか叫ばないとしか言い得ません。未だに神様をイエス様を信じますと口では語っても、それは大通りに出て祈りを捧げるに等しいものです。教会がそのようなことを許してはなりません。毎週の聖日礼拝に出席する自分を顧みると、アウグスティヌスの著作のある一文に、説教の中で今礼拝に出席者のなかで多くは見せ掛けの信仰者であるといったことが書かれていたように記憶するのですが、私などは当に司教アウグスティヌスに排斥される者です。信仰とは困難を極める苦しいものでしかないのでは、人格と人格の対峙、生きるとはを聖書の言から学ばんとしても自分に都合のいいように勝手な理解をし、大通りへ大勢の行きかう道へとまっしぐらに突き進んでいるありのままの自分の姿があります。狭い厳しい道を選ぶ、歩まんとする自分を鏡に見ることはかないません。友人に聖書が赦しを語っていると伝道することなど出来ない自分です。友人に「何故か」と問われれば自分の言葉で答えることが出来ないからです。京都共助会も今は奥田先生の共助誌に書かれたものを学んでいますが、誰かが何かに書いていたとの発表や述べることは許されない、自分の言葉で語らねばならないある意味厳しくも、また優しく受け止めてくれる場でもあり、毎月の例会の時間が短く感じるものです。若者の参加が得られるようになればとの願いを強くするものです。またその時々においてどのように生きたのかを京都共助会の働きを後世に伝え続けることを為さねばとの思いです。

ちょっと横道にそれるようではありますが、宗教法人組織である北白川教会と京都共助会の関係について少し語りたく思います。ここでは教会と共助会と略させていただきます。共助会を出発点とする教会は今は北白川教会だけ故にです。私が見ていた最近数年間の教会と共助会との関係性は外から見るように見るとやはり別のもののように感じてきました。飽くまで私見です。それは始まりはそうであっても、別のものとしてあるとの認識と、教会の歴史からして一体のものであるとの二つの認識が混在した形で併存してきたもののように思われるからです。それはまるで本物とほとんどは一緒であるが似たものとの差のような関係です。例がよくありませんが、近年の北白川教会は教会である部分が大半となっていたようにも思います。ある意味共助会というブランドマークがついた大衆車として生き残りを模索していたように感じます。出発時を共助誌から顧みると相当な高級車ブランドです。そのブランドの部分を共助会が担保してきたように思います。教会では時に語られる「基督の十字架と贖い」です。いつか語れるようになればと願うばかりで、私には語れません。これが語れる力を持っていることが右に書きましたブランド力です。奥田成孝先生、小笠原亮一先生が守ってこられた本物の力かと。まだまだ共助会はあり続けなければなりません。

今現在抱えている難問は、教会もまた多くの教会もが抱えている高齢化の深刻さです。特に京都という地にあっては、学生の必ずとも言っていいほど経験する苦悩に対応する伝道です。将来京都の地にとどまる可能性は学生である限り小さいものでもあり、またこの狭い地に留まるべきでもないと思いますが、若い時に経験すべき教会の門を叩く経験です。その経験があれば将来いずこの地に於いてか信仰の道に導かれることが叶います。ここに大きな役割が共助会に負わされていると思います。教会に共助会に関わる方々の多くが高齢者の仲間入りをする中で、高齢になって得たゆえの経験や知識を若い世代にまさに種をまくように残すことが最も大きな役目かと、全くたやすくはありませんが希望を持ちたいと考えます。

今はコロナ禍下にあって、クリスマス祝会も例月の如く片柳榮一さんの説教と戦前からの祝会での鳴海の赤飯とで聖日礼拝出席者の10名余りの出席で祝う、例年とは少し寂しい祝会とはなりましたが豊かな時間を共に過ごすことが許され感謝でした。府県をまたいだ遠方からのご参加は叶いませんでしたが、学生の参加も許され大きな感謝です。この激震ともいえる禍を乗り越えて、宣教の業が豊かに許されることを祈ります。

どこに飛んで行ってしまったか判らないような舞い散った木の葉を塵取りにかき集めるような役目をしてくれているように思う、このごろの京都共助会です。

(日本基督教団 北白川教会員)