アウグスティヌス―魂のことをする 片柳 榮一

自分がアウグスティヌスを研究しようと決意した切っ掛けについてまずお話ししておきたいと思います。私は高校の頃から、パスカルやキルケゴールを読みかじっていて、大学に入ってからも、武藤一雄先生のもとでキルケゴールやそれに先立つパスカルを研究したいと思って四苦八苦していました。なかなかまとまらず、何だか剃刀のように鋭いパスカルやキルケゴールの、単なる縮小再生産しか自分にはできないという思いに苛さいなまされていました。3年生の終り頃だったかと思いますが、パスカルを読んでいて次のような文章に出会いました。「聖アウグスティヌス。理性は、自分が服従しなければならない場合があるということを、自ら判断するのでない限り、決して服従しないであろう。それゆえ、理性が服従しなければならないと自ら判断する時に、それが服従するのは、正当である」(パスカル パンセL.174,Br.270)。これに対応するのは次のアウグスティヌスの言葉であろうと思われます。「信仰が理性に先行すべきであるということは、そのまま理性の原理である」 (アウグスティヌス「書簡122, 5コンセンティウス宛て」)。私は中学の頃からキリスト教に触れ、いわば素朴な形で、熱心に教会に通うようになりました。しかし大学に入り、様々な思想に触れ、殊にマルクス主義や、ニーチェなどの反キリスト教的思想に触れて、素朴な信仰を大きく揺さぶられていました。自分の中で、批判したり疑ったりする理性というものの位置づけが出来ていないことを、精神の痙攣のうちで痛切に感じていました。そうした中でパスカルのこの言葉は、不思議な光を与えてくれました。理性は何よりも、自ら判断して自らに納得することから始める。それがない限り、決して先に進まない。信じるということも、信じて服従することが必要であることを判断において納得し、跪くのでなければ、決して服従することはないと語られています。ある意味で極めて逞しい理性擁護の姿勢です。しかしそれ故に、理性が納得して服従するなら、この信仰はまさに理性的だというのです。信仰が理性に先立つという「信仰」重視の原理そのものが、理性の原理でありうるというのです。理性はその必要性をまさに「理解」し、承認する場合は、信仰の原理は理性の原理で有り得るのであるといいます。私は自分の中の縺れと痙攣が、解けたとは言いませんが、自分が進まねばならない「信と知」に関わる広い場があることを知らされました。そしてこの問題を徹底的に考え抜いた「アウグスティヌス」という名の人が、1500年以上前に存在したことをパスカルから教えられたように思い、一度徹底してアウグスティヌスのもとで、この問題を考えてみたいと思いました。やがて近代に帰ってくるつもりでいましたが、なかなかキリスト教古代の森を抜け出られないでいます。

もう一つ序言としてアウグスティヌスという人の思想の深さを示す言葉、これはこの修養会の案内文にも記したのですが、見ておきたいと思います。「あなたは私たちをあなたに向けて創られました。それ故私たちの心はあなたの内に憩うまで、安きをえません」(『告白』1,1,1)。この言葉は何度読んでも、汲み尽くし得ない深さをもっています。私たちは世の混乱と暗がりの中にあります。私たちに感じられるのは不安に喘ぎ、苦悶に呻く魂の動揺だけのように見えます。しかしこのアウグスティヌスの言葉は、まさにこの不安と恐れに動揺する自らの魂の喘ぎの動きそのもののうちに、一つの方向を見定めています。この安きを得ない心の渇き、求めの方向そのものに、創られた者に対する創り主の深い促しを認めた言葉です。自らの不安や懐疑のうちで、ころげまわることそのことにある出口も備えられてあることを教えているように思います。

Ⅰ 生い立ちと青春

アウグスティヌスはAD354年北アフリカ、ヌミディアのタガステ(現在のチュニジアのSouk Ahras)に没落しつつある中産階級のローマ市民パトリキウスの子として生まれました。母モニカは敬虔なキリスト教徒でしたが、父は宗教には無関心な人だったようです。しかし才能に恵まれた息子に望みを託し、近隣のマダウラの修辞学の学校に通わせましたが、学費が続かず、一時帰郷させねばならないほど窮していたと言えます。ようやく同郷の有力者ロマニアーヌスの支援で辛うじて学業を続けることが許されました。

16歳のアウグスティヌスは、さらなる修辞学教育を受けるために北アフリカ最大の都市カルタゴに赴いたのですが、父はその後すぐに亡くなったようです。

この修辞学ですが、この学問は、現代の欧米の大学で教えられているような文学研究の一部門ではありませんでした。修辞学に精通することがローマ帝国の権力の中枢に入ってゆく基本的条件になっていたのです。これはギリシアの都市国家以来の地中海文明の伝統であり、ここにこの文明の特徴と偉大さがあります。ここで学ばれるのは、基本的に言って、相手を説得する術であり、討論の仕方であり、演説の仕方です。ギリシアの都市国家では、自分たちのポリスの在り方に関しては、自分たちが議論し、採決して、決定するという民主制が基本でした。決してどこか知らないところで、国の行方が決まっているのではないのです。ここでは相手を説得し、出来るだけ大勢の人を自分の意見に賛成するように導くことが、肝要なことでした。直接民主制は都市国家の衰退と共に維持できなくなりましたが、国家の方向は、構成員の評決で決しようという共和制の理念はなお残されていました。国家を指導する人々は何よりも人を説得する術に長けていなければならなかったのです。

アウグスティヌスは16歳の時に、当時北アフリカ最大の都市カルタゴにやってきて、新しい世界に開かれます。それは彼にとってまず、「愛の目覚め」ともいうべきものでした。「私はカルタゴにやってきた。そこではいたるところ恥ずべき情愛の鍋(sartago-サルタゴ-)の煮えたぎる騒音が私を取り巻いていた。私は未だ愛していなかったが、愛することを愛していた(amare amabam)。密やかな内奥の欠乏の故に、あまり欠乏を感じない自分を憎んでいた。愛することを愛しながら、愛すべきものを求めていた。そして安全さ(securitas)を憎んでいた」(『告白』III,1,1)。アウグスティヌスは一人の女性に出会い、それから10年以上も同棲し、息子さえ持つのですが、ここでもアウグスティヌスの『告白』の偉大な独自性が表れています。単に自分の経験を述べるだけでなく、その経験をある普遍的な、だれにでも思い当たる人間経験一般に深めています。この叙述の背後には彼の青春の出会いがあるのですが、それを普遍的な「愛」の問題として取り出しています。彼は自らの青春を回想して、一人の女性との恋愛について述べているのですが、その出会いに先立って、自分は「愛することを愛しながら、愛すべきものを求めていた」というのです。素敵な恋愛がしたいという感情がまずあり、そしてそれにふさわしい恋愛の対象を求めていたと振り返っているのです。

しかしアウグスティヌスにおいては、この「愛を愛する」というのは、自らの恋愛の思い出を叙述するために、たまたま述べた言葉ではありません。このアウグスティヌスの愛の二重構造の理解は深く、彼の意志理解の核心をなしています。アウグスティヌスはこの愛の二重構造とでもいうものを、神の似像としての人間精神の根本構造として取り出しています。人間の精神の三一的構造の最初の分析は、愛する主体、愛の対象と、愛の対象とは異なる「愛」そのものの三つのものの分析から始まります。

「何を愛しているか、私は知らないなどと誰も言わないで欲しい。兄弟を愛するがよい。そうすれば人は同時に愛をも愛することになろう。というのも人は、それによって兄弟を愛する愛を、人が愛している兄弟以上によく知っているのである」(『三一神論』VIII,8,12)。愛の対象と同時に「愛」そのものを人間は愛しているというのです。しかも愛の対象は、実は人が良くは知らないものであり、その対象が人間である場合には、「他者」として一層「知られない側面」をもっているのです。アウグスティヌスによればそのような愛の対象よりも、「愛」、自らがそれでもって対象を愛する「愛」は自分にとって承知のものであり、一層直近にあり、まさに自己自身です。ここまでですとこの「愛」は自己の内に留まるものであり、後のデカダンスに於けるように、「自己陶酔」やナルシシズムに陥ってしまうものです。

その意味でアウグスティヌスは近代的デカダンスと共通のものをもちつつも、彼においてはこの「愛への愛」は違ったものです。単に自らの愛へ陶酔してしまうのでなく、アウグスティヌスは自らの愛を越えて、愛の原型、源泉としての神へ至ります。なぜなら「神は愛である」からです。アウグスティヌスにとって神は単に対象ではありません。我々の愛、我々の意志の根源として、我々のより直近にあるのです。愛への愛が、自己陶酔に陥らず、自己超越の構造をもっているところに、アウグスティヌス思想の特徴があります。「見てごらん、すでに兄弟をよりも神をよりよく知ったもの(notiorem Deum)としてもちうるのだ。明らかによりよく知ったものとしてである。というのもより現前するからである。よりよく知ったものである。というのもより内的だからである。よりよく知ったものである。というのもより確実だからである。愛である神を抱きなさい(amplectere dilectionem Deum)」(『三一神論』VIII,8,12)。

今回の主題は「魂のことをする」という聴きなれない表現を用いましたが、魂とはまさに、このように対象だけではなく、同時に愛することを愛している、愛さざるをえない存在であるということです。このように二重になって自己に、いわば折れ曲がっている存在としての魂ということをアウグスティヌスは執拗に徹底的に考えた人です。今回は時間の関係で焦点をあてることができませんが、アウグスティヌスにおいては、愛することを愛する愛が求めているのは、知であるという形で、愛と知と存在の三重構造で魂、精神を考え、ここに三一なる神の似像としての精神の三一構造を深めてゆくのですが、今日はこれ以上追って行くことはできません。

Ⅱ 第一の回心 ― 叡智的世界への目覚め

アウグスティヌスは19歳の時、キケロの『ホルテンシウス』を読み、深き感銘を受けます。「弱く心の定まらない年頃の私は当時こうした仲間のうちにあって修辞学の書物を学んでいました。私は人間的虚栄の喜びを得ようという虚しく断罪されるべき目的から、この学びにおいて人に抜きんでようとしていました。そして通常の学びの課程に従ってキケロとかいう人の書物を読むことになりました。この人の舌には誰もが驚嘆しますが、心にまではそうしません。ところがこの人のその書物は哲学への勧めをその内容としており、『ホルテンシウス』と呼ばれています。ところでその書物は私の心持をすっかり変えてしまい、主よ、私の祈念をあなたに向き変え、私の願いと欲求をまったく別のものに変えてしまいました。突然私のすべての虚しい希望は萎えてしまい、信じがたいほどの心の燃え上がりを覚えながら、知恵の不滅さを得ようと望みました。そしてあなたのもとへ帰還しようと立ち上がり始めました」(『告白』III, 4.7-8)。ここでアウグスティヌスはある新しい世界に目覚めます。これまで漠然と求めていた、「幸福な生」についてキケロは明確に、それを得るためには二つの条件があると言います。一つは「自らが欲するように生きる」ことであり、もう一つは「相応しいことを欲する」ことだと言います。「キケロは次のように語っている。『見よ、哲学する者ではないが、議論を好む人は、自ら欲するように生きる人は皆至福であるという。……これははっきり誤りである。というのも相応しくないことを欲することは、極まりなく悲惨なことであるから』」(『三一神論』XIII,5,8)。

ここでは意志の対象の選択ではなく、相応しいものを欲するような意志を選ぶかどうかが問われています。そのような「善い意志の選択」が問題なのです。これが先の「愛を愛する」ということに関して述べた「愛の原型」としての神を「相応しいものとして欲する」かどうかということなのです。「だから君ももう解ったと思うが、かくも貴重で、かくも真実な善きものを我々が享受するか、欠いたままであるかは、我々の意志にかかっているのである。というのも意志そのものほど、意志の内に存在するものがあろうか。この意志を善きものとしてもつ人は、地上のあらゆる王国、身体のあらゆる快楽よりも優先されるべきものを持っているのである。これを持たない人は、我々の権能のうちにないあらゆる善きものに優るものを欠いているのであり、しかもこれは意志のみがそれ自らによって自らに与えるものなのである」(『自由意志論』I,12,26)。こうしてアウグスティヌスは、「そしてあなたのもとへ帰還しようと立ち上がり始めました」というように深い決意をもって新たに生きようと決意します。

Ⅲ マニ教入信

アウグスティヌスが知恵の探求を決意した時期と、マニ教に入信する時期は重なっています。現在の我々の目からすると、善悪二元論の神話的宗教と見えるマニ教に何故、知恵の探求を志したアウグスティヌスが入って行ったのか、分かりにくい気がします。ところでアウグスティヌスの前に現われたマニ教は、信を強要するのではなく、すべてを理性的に解明すると主張するものでした。「ホノラートゥスよ、君は我々がこうした人々(マニ教徒)の手に落ちた理由が何であったかを知っている。それは彼らが言うのに、彼らに聞こうとする者を、威嚇的な権威を離れて、純粋なる純一なる理性によって神へ導き、あらゆる誤りより解放するであろうという彼らの言葉の故以外ではない」(『信仰の効用について』1,2)。「私はまた気づいたのだが、彼らは他者を斥ける場合、きわめて雄弁であったが、自らの説を弁護する場合、先の場合ほど、堅固確実ではなかった」(『ファウストゥス論駁』XX, 2)。

しかしこの理性的解明を掲げるマニ教の奥底には、厭世的で暗鬱な「苦悩の汎神論」(Ch.バウル)ともいえるものがありました。マニ教の理性主義に基づく聖書批判は単に、聖書の証言の不一致への批判ではなく、ことにイエスの誕生に関する記事の不一致に関する厳しい批判の背景に、アウグスティヌスは、マニ教の根本にある厭世的な世界観があることを指摘します。「先ほど言うのを延期した点、すなわちキリストの死は、偽りの、あるいは偽装のものとして宣べ伝えるべきであるが、キリストの誕生はそうすべきでないと何故あなた方(マニ教徒)には思えるのかということは、このこと(結婚の禁止)と関連している。確かに死は、いわば魂、つまりあなた方の神の本性が、神の敵なる身体から、つまり悪魔の制作物から分離されることであるとしてあなた方は宣べ伝え、賞賛している。そしてこの故にキリストが死にはしなかったが、死を装って推奨したことは意義あることだとあなた方は信じているのである。しかし誕生においては、あなた方の神は、解放されるのではなく、むしろ(肉に)繋がれると信じているので、この誕生を偽りの、仮現的なものとしてもキリストに起こったとは信じたくないのである」(『ファウストゥス論駁』XXX,6)。

マニ教徒にとって、世界は悪の支配のもとにあり、身体は悪魔に属するものです。そして神に属するものとしての魂は、この悪の世界の中で、囚われのうちにあります。それ故死は肉体からの逃走として、悪の世界からの解放ですが、誕生は肉に囚われることであり、呪いなのです。それ故救い主なるキリストが「誕生」したということは受け入れがたいのです。この暗鬱なマニ教の世界観をチュービンゲン学派の創始者であるF・H・バウルは「苦悩の汎神論」として剔てっけつ抉しています(F. Chr. Baur, Dasmanich.ische Religionssysthem, Tübingen 1831, S. 76)。

マニ教に深く入り込む中で、同じくマニ教に誘い込んだ友人の死によって、生が一つの問いとなる経験をします。「それにしても私たちの友情は、同じ勉学の熱に温められて、まことに甘美なものになっていました。私は友人を、若くまだ身についていなかった真の信仰から引き離し、あの迷信的な破滅的な作り話のうちに引きずり込んでしまいました。母がいつもそのために私のことを嘆いていたあの作り話にです。いまでは友人は、心の中で私と一緒に迷い、私の魂は、その人なしには過ごせなくなりました」(『告白』IV,4,7)。しかしこの友人が突然の熱病によって亡くなってしまいます。「この悲しみによって、私の心はすっかり暗くなり、目につくものはすべて死となってしまった。私にとって故郷は責め苦となり、父の家はわけのわからぬ不吉なものとなり、友人と共有していたものは、彼亡き今、おそろしい苦痛に変わった。私の目はいたるところに彼を探したが、どこにも見あたらない。私はあらゆるものを憎んだ。なぜなら、どこにも彼は不在であって、何ものも私に『待て、すぐ来るから』ということができなかった。生きていたころは、彼がいないときにも、あらゆるものが私にそう告げることができたのに。今や、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまったfactuseram ipse mihi magna quaestio」(『告白』IV,4,9)。

Ⅳ 懐疑主義への接近

AD383年29歳のアウグスティヌスは北アフリカのカルタゴを去り、ローマの修辞学教師となります。この時期アウグスティヌスの心を捉えていたのは、懐疑主義でした。彼は次のように記しています。「大海を渡るためにあなた(ホノラートゥス)方のもとを立ち去った後、私は、何を保持し、何を放棄すべきかと揺れ動き、ためらいのうちにありました。このような躊躇いが生じてきたのは主に、ある人(ファウストゥス)と会見した日からのことです。あなたもご存じのように当時私たちを悩ましていたすべての問題は、その人がやってくるなら、いわば天からの啓示のように解き明かされると約束されていたのです。その人が、ある種の雄弁さを除いては他の人々と何ら変わらないことがわかったのです。イタリアに住むようになって私は、そこに入ったことをすでに後悔していた宗派(マニ教)にとどまろうかということではなく、真なるものは如何なる仕方で見いだされうるのかについて思いを凝らし、深く熟考しました。この真なるものを愛慕する私の気持ちは誰よりもあなたが知っています。しばしばそれは見いだされ得ないと思われ、私の思いは、大波が寄せるように、アカデミア派を支持するようになびいていきました。またしばしば人間の精神はかくも生気にあふれ、鋭敏で洞察力をもっていることに気づき、真理が隠されているのは、精神に探求の方法が隠されているからであり、ある種の神的な権威によってこの方法そのものが保持されているのだとも思いました」(『信仰の効用について』VIII, 20)。

アウグスティヌスはミラノでアンブロシウスの説教を聞き、聖書が神を人間のごとく語る擬人論的表現は、象徴的に解釈すべきことを教えられ、これまでのカトリック・キリスト教が幼稚な神話的宗教でないことを教えられました。「カトリックの道は批判に耐ええない敗れたものだとは思えなくなりましたが、未だ勝者として現れたわけでもありません。……そこで通常考えられているアカデミア派の流儀に従って、すべてについて疑い、またすべての狭間を揺れ動きながらも、マニ教の人々からは離れなければならないと心に決めました。自ら懐疑することを決意している時に、ある哲学者達の方がそれより優れているとわかっている宗派にとどまるべきではないと考えたからです」(『告白』14, 25)。

Ⅴ ミラノでの回心

AD384年30歳を過ぎたアウグスティヌスは、当時の都ミラノに移り住みます。ここで修辞家としても高名なミラノの司教アンブロシウスの説教を聞くようになります。アンブロシウスはアウグスティヌスの「ミラノでの回心」において魂の導き手の役割を果たしたのではありません。彼は最初アウグスティヌスを警戒していたようで、アウグスティヌスはアンブロシウスとの個人的な面談を許されないでいます。アウグスティヌスはミラノに行くに当たり、マニ教徒の伝つてによってローマ市長シンマクスの推薦状を携えて行きました。このシンマクスは反キリスト教を旗印にしたローマ宗教復興運動の中心人物であり、この運動の阻止に全力を挙げていたミラノ司教アンブロシウスは警戒してアウグスティヌスを避けたとも言えます。アウグスティヌスがアンブロシウスに負うのは、マニ教が批判していた旧約聖書の神の擬人的表現を比喩的に解釈することをアンブロシウスが説教でたびたび語り、アウグスティヌスは「聖書」を新たな思いで読む「方法」を教えられたのです。その意味でアンブロシウスから宗教的真理理解の新たな可能性を示されたと言えます。アウグスティヌスはミラノでアンブロシウスをはじめとする新プラトン主義的キリスト教サークルに入って行きました。AD386年に彼は新プラトン主義の書物を通して、物質とは異なる「魂と神」の世界に目覚める経験を為しえました。

「そこで私は、それらの書物から自分自身に立ち返るように勧められ、あなに導かれながら、心の内奥に入って行きました。それができたのは、あなたが助け主となってくださったからです。私はそこに入って行き、何かしら魂の目のようなものによって、まさにその魂の目を超えたところ、すなわち精神を超えたところに不変の光をみました。……それは油が水の上にあり、天が地の上にあるような仕方で私の精神の上にあったのではなく、私を造られたがゆえに私の上にあり、造られたがゆえに私はその下にあったのです。真理を知る者はこの光を知り、この光を知る者は永遠を知る。それを知る者は愛です」(『告白』VII,10,16)。魂としての内なる自己を自覚し、この自己よりさらに内奥に超越する永遠なる神に一瞬触れる経験をしました。しかしこれはむしろ永遠なる神との隔たり、断絶を示されるものでありました。この挫折の経験により、アウグスティヌスは、永遠の真理が肉の身をまとい、魂を自らのもとへ導く「道としてのキリスト」の意味を改めて悟らしめられたと言えます。アウグスティヌスは「第一の探求する自由」(『自由意思論』I,2,4)を見出し、歩むべき確かな道を切り開かれたのです。こうしてアウグスティヌスは栄達への道を約束されたミラノの修辞学教師を辞任し、AD387年にカトリック・キリスト教会に属すべく洗礼を受けたのです。

A 信と知との関係

アウグスティヌスは新プラトン主義の書物を読み、一種神秘的体験をしました。これはしかし神と人間との決定的断絶を知らされる「失敗」の体験でもありました。そしてアウグスティヌスはこの挫折の経験によって、究極的なものとの関わりにおいては、根本的に「信」という態度が必要であることを知らされるのです。この信の必要性を示している文章を『告白』の7巻で、新プラトン主義との出会いを記した箇所からみてみたいと思います。「それゆえあなた(神)の書物(聖書)を熟考するに先立ち、それらの書物(新プラトン主義の)に私が出会い、没頭するのをあなたが望まれたのは、思うに、それらの書物から私がどのような影響を受けたかを記憶に刻み、後にあなたの書物において馴化され、思いやり深きあなたの指によって私の傷が手当を受けた時、傲慢と告白との間にどれほどの相異があるか、行くべき方向を見ながら、それに至る道を知らない人々と、単に眺めるだけでなく、そこに住まうべき至福なる祖国へ導く道を知っている人々の間に、如何なる相違があるかを認識し、区別しうるようになるためだったのです。実際もし先ず、あなたの聖なる書物によって教化され、それらの親しみ易さのうちであなたの甘味を味わった後、あれらの書物に出会ったなら、それらによっておそらく私は敬虔の堅固な土台から引き離されるか、あるいはすでに健やかに浸されていた心情に留まったとしても、人がそれらの書物を学ぶだけで、そのような心情をそれらの書物から得られ得ると考えたでしょう」(『告白』VII,20,26)。

「信」ということが、理性の批判を内に含むということを明確に述べているアウグスティヌスの文章としては、次のものが最も簡潔であると思います。「つまり知っていること以外何も信ずべきでないという人は、ただ一つ臆見の名を警戒しているのであり、確かにこれは醜悪であり、極めておぞましいものであると言わねばならない。しかしそうした人々が次のようなことを注意深く考察したならどうであろうか、つまり自らが知っていると思いなすse scire putet 場合と、自らは知らないと理解していることquod nescire se intelligat をある種の権威に促されて信じる場合に甚だしい相違がないかどうかである。実際この後の場合、人は誤りや非人間性や高慢の廉で非難されることはないであろう」(『信仰の効用について』XI,25)。

アウグスティヌスの信と知に関する基本的立場として、「知解せんがために我信ず(credo ut intelligam)」という定式が用いられます。ギリシア的な精神世界に生きるアウグスティヌスにとって、「信じる」とは、明確な認識を欠いた、低い知の立場です。しかし人はここから出発しなければならない。しかもそれは明確な洞察に到るためです。「信じるとは、同意を持って考える(cum assensione cogitare)ことである」(『三一神論』X,5,7)。この立場は一見、「知」を欠いた状態に甘んじる蒙昧主義に通じるとの誤解を与えかねませんが、そうではなくこの立場は、「信ぜんがために、我知解す(intelligo ut credam)」という「信」に先行する「知」を含んでいます。つまり理解し、知るためには「信じる」ということが必要であり、それがなければ真の「理解」は開かれえないのだとの「理解」が含まれています。

B アウグスティヌスの真理理解

新プラトン主義からアウグスティヌスが学んだ基本的な存在理解、人間理解の核心にあるのは、「真理は内的人間のうちに宿る」という発見です。そしてこの人間理解は、アウグスティヌスにおいては、この内的人間において見いだされる永遠の真理の超越性の発見でもありました。「「外に行くな、汝自身の内に帰れ。内的人間の内に真理は宿る。そしてもし汝の本性がうつろい易いものであることを見い出したなら、汝自身をも超越せよ(Noli foras ire, in teipsum redi; in interiore homine habitat veritas; et situam naturam mutabilem inveneris, transcende et teipsum)」(『真の宗教についてDe vera religione』IIIIX,72)」。

「私は、真理の欠乏のゆえに煩労し喘ぎながら、あなたを ―我が神よ、私を憐れみ、しかもまだ告白もしない私を憐れんでくださったあなたに向かって告白します ― あなたを探し求めていました。しかし私は、それによって人間が動物に優ることをあなたが欲したもう精神の知解(intellectus mentis)によってではなく、肉の感覚によってあなたを探し求めていたのです。しかしあなたは、私の最も内なるところよりももっと内に居まして(interior intimo meo)、私の最も高きところよりもっと高きにおられます」(『告白』III,6,11)。

C ミラノの回心における秘められた「決意」

このミラノでの回心が単に知的な回心ではなく、この世に対する深い断念を秘めた回心であったことを示す書簡の一節を紹介しておきます。「これを書く私は、かの完成を熱烈に追及する者である。その完成とは、主が富める青年に向かって次のように言われた時、語られたものである。『行って、あなたの持っているものをみな売って、貧しい人々に与えなさい。そうすればあなたは天に宝を持つであろう。そして来て、私に従いなさい』(ルカ18 ・22)そして私の力によってではなく、主の恵みが助けて、そのように私はしたのである。というのも私はかつて富んでいなかったからといって、より少ないものが求められたのではない。つまりこれを最初になした使徒たちも富んではいなかったのである。しかし持っているもの、および持ちたいと望んでいるものを手放す者は、この世の全てを手放すのである。しかしこの完成の道を私がどれほど進んだかは、誰か他の人より私の方がよく知っている。しかし私より神の方がよく知っておられる」(書簡157,39)。

アウグスティヌスのミラノでの決定的な「回心」はしかし旅の終わりではなく、新たな始まりでした。アウグスティヌスの理解を求めての経めぐりも新たな始まりについたばかりなのです。アウグスティヌスにおいて探求と発見は独特な仕方で結びついています。彼は「主の御顔を常に求めよ」(詩編105編4節)との言葉に思いをひそめて語ります。「それ故もし探求される者(神)が見いだされうるとするなら、何故『主の御顔を常に求めよ』と言われるのか。あるいは見いだされたものもなお探求されるべきなのであろうか。というのも理解しがたいものは、次のように尋ね求められるべきだからである、つまり自ら探求してきたものが如何に理解しがたいものであるかを見出しえた者は、自分が何も見出さなかったと思うべきではないような仕方でである。するともし自分が探求しているものが理解しがたいものだと理解した者がなお探求するのはどうしてなのか。理解しがたい事物の探求そのものにおいて、前進して行く者は、探求を止めるべきではなく、かくも大いなる善を探求する者は次第により良くされてゆくからである。この善は、見出し得るものとして探求され、なお探求されるべきものとして見出されるのである」(『三一神論』XV,2,2)。   

(日本基督教団 北白川教会員)