「共助会に賭けて生きる」ということ 井川満

【誌上 京阪神修養会 講演2】

一 はじめに  基督教共助会100周年記念

戦前版『共助』誌選集『恐れるな、小さき群れよ』の刊行の辞を、飯島信委員長はルカによる福音書12章32節を引用した後、信州美ケ原三城ロッジの中庭を散策しながら「共助会とはどういう団体なのですか」と奥田成孝に問うた私に、先生のそれまでの穏やかな表情が引き締まり、前を見つめながら一言、「君、それは、共助会に賭けて生きなければ分からないよ」と答えられた場面を忘れることが出来ない。初めて共助会の夏期信仰修養会に参加した翌年のことであった。と書き始めている。

京都共助会は、1924(大正13)年6月14日に帝大共助会京大支部として発足しているので、既に96年が経っている。この拙文において京都共助会発足に関わった先輩たちの跡を、発足の前後に焦点をあてて、私なりに辿ってみたい。奥田が飯島に語った「共助会に賭けて生きた」先輩達の歩みを今一度心に刻む必要を思うからである。とはいえ、私に出来ることは、奥田が共助誌に連載した『一筋の道』などからの抜粋を連ねるだけになるが、お許しをいただきたい。

二 奥田の京都遊学と森 明の京都伝道  

1923(大正12)年4月に奥田は京大法学部に入学している。京都に発つ直前の4月1日、その年の復活節に森 明から中渋谷教会において洗礼を受けている。キリスト教との出会いから洗礼に至るまでの経過は、『一筋の道』に詳しく記されている。何といっても、内村鑑三と森 明との出会いが決定的意味を持っていることを述べている。しかし、この偉大な信仰の先達に出会うに至るまでの自身の心の問題については「自分なりの心も問題を持っていた」とのみ記していて、内容には触れていない。また後年、トルストイが大きな頭陀袋のようなものを背負って坂道を上っている絵を永く書斎に飾っていたそうであるが、それは内村や森と出会うに至った時代の自身の「心の歩みをよく象徴してくれる感がしたからでもあろう」と記している。また進学先を、東大ではなく京大にした理由も「一度家庭環境を変えるのもよかろうと思って」との程度にしか記してはいない。

京都に発つに際して、淀橋の森 明の屋敷に別れの挨拶に行ったとき、「ぜひ京都においでをと願った」ところ、森 明は「必ず訪ねる」と応えた。その年の9月1日に関東大震災が起こった。奥田は夏休みで東京に帰省中であって、九段坂で地震にみまわれた。住んでいた屋敷は焼けてしまった。9月下旬に京都に帰るに際し、奥田は挨拶に淀橋の屋敷を訪ねた。その折、森には大震災故に生じた仕事も多く、そのため健康も勝れぬようすであったので、京都訪問についての意向を訊いた。森は「なおさらゆく」と応えた。

森 明の京都伝道の日程は、11月4日、5日と決まり、既に森が知っていた鈴木淳平と岩淵止に手伝ってもらい準備をすすめよとの指示であった。会場は京大基督教青年会(現地塩寮)で、奥田と鈴木は東京から送られてきた集会の案内チラシを配って歩いた。森の健康の故に、船によって東京から神戸まで来、神戸からは鉄道で京都へ来た。京都駅からは人力車に依ったが祭りの人波にでくわし、熊野で人力車を降りて休み休み、地塩寮まで歩かざるをえなかった。森は地塩寮に宿泊したが、夜中は激しい喘息故に殆ど夜具の上に座ったままで過ごした。集会は11月4日午後7時「基督伝研究に於ける人生改造の問題と彼自身」11月5日午後7時「キリストの自意識について」(後に懇談会)のプログラムであった。森は一旦壇に立つと熱意を込めて語り、聴衆は森の不健康など気づかなかった。しかし、森は東京に帰って病に伏し、半年以上を病床に過ごすこととなった。

三 京都共助会発足と森の第二回京都伝道の企て  

森 明は集会を終えたのち、奥田たちと語り合いのときをもち、小さくても良いから何らかの集りを京都に残していきたい旨を述べたが、奥田たちは互いに相知ってから幾ばくもの時を経ておらず、もう少し時をかして欲しいと述べた。しかし、この森の京都伝道を機に相知るに至った3人は、折々集まって聖書を学び、祈りあうようになった。この集まりに二、三の友も加わるようになり、さらには東京から山本茂男が態々訪ねてきてこの小さな集まりを励ました。時間が経つにしたがって、共助会についての理解も深まり、共助会の京都支部を作ろうとの願いが育ってきた。

東京と連絡を取りながら設立の準備を進め、1924(大正13)年6月14日に本間誠と金谷重雄を迎えて、奥田の下宿で発会式を挙げた。参加したものは奥田、鈴木、岩淵、神部信雄、金子一次の5名であった。発会式の後、吉田山へ行って祈り会をもった。こうにして京都共助会は始まったのである。

森は京都の友たちと二回目京都伝道を約束していた。これを11月に行うべく森は計画する。しかし、半年に亘る療養によってようやく回復した森の健康は、活動を再開すると損なわれていった。しかし、京都訪問の日程を定め、今回は母堂寛子と山本茂男が付き添うことで実現しようとした。しかし森の健康はさらに悪化してゆく。しかし、京都伝道を果たしたいとの願いはいよいよ強くなってゆく。京都訪問を実行すれば、森は命を落とすであろう。京都の者たちは訪問に同意すれば、僅か数名の学生達のために森の生命を落とさせることになる。しかし、訪問を止めようとすれば、「サタンよ、しりぞけ」との叱責を受けるであろう。この二つに挟まれて、奥田たちは苦悩する。このときの経緯は資料2に詳しく書き残されている。

しかし、森の病は更に篤くなり京都訪問は不可能の状態にまで陥り、つい森も諦めざるを得なくなった。そしてその数ヵ月後の翌年三月六日に天に召された。森の召天後に寛子刀自より聞いたことを奥田は次のように記している。(森の健康がすぐれない中、京都訪問を何としても実現したいと願い、そのため母堂が付き添うことになった)その節母堂が「そんなにまで無理していかなければならないのか」と尋ねられたら先生は「お母さん、友達というものはそんなにどこにでもあるものではないのですよ」と語られた由である。後日私共はその一言を承ってどんなにか深く心打たれたことであろうか。

四 奥田の京都残留


第二回目の京都伝道が中止になって後の冬休みに奥田は東京に帰省し、病床の森を訪れた。そして、森の下で教導を受けたい旨を語った。そのときの様子を奥田は次のように綴っている。私の願いには何ら応えられず床の上から手を差し延べて私の手をとらんとする如き態度で「奥田君お互い生涯キリストに真実に生きようではないか。君は共助会のために京都に留まってほしい。京都は気候のよくないところだ。君も健康的に頑健とはいえないが一年余りの生活をみていて京都の気候に耐えられない程の健康とも思われない。貧乏の苦労もするだろうが僕との腐れ縁と思って辛抱してほしい。しかし、いつか必ず喜んでくれるときが来ると信じている……」

奥田は数日後に「京都に留まります」と森に答えた。それから僅か二ヵ月あまりの後の翌年3月6日に森は天に召された。その翌月から奥田の大学最終学年が始まった。国家試験のある9月が、進路が決まる一つの時点である。奥田は森との約束をどう受け取るべきかの決断をしなければならなかった。この経緯を知っている人たちに相談した結果を奥田は「京都に残った方がよいとの意見の方はなかった。京都に残るということは森先生あってのことで、先生亡き今日君だけが残ってみても意味がないという意見が多くあった。私自身顧みて全くいわれる通り私だけが京都に止まってみても何ができるわけでもなく、そういわれるのが本当だとも思った。しかし他面淡々とそこに落ち着くこともできない感もした」と記している。

奥田にとっては頭から離れることのない、考え祈り続けなければならない課題であった。日々祈り続けたであろう。さらには夏休みには、鈴木淳平と共に木曽の寺で過ごし、この課題への神からの示しを得んとして、聖書と祈りに集中した。その結果を次のように記している。少なくとも私にとっては私なりの真実をもって祈りに明け暮れしたが神からの御示しは何ら得られなかった。(中略)それは何んと味気ない経験であったかと思うが、意外にも平和な平らかな経験を与えられた。自分は京都に残ろう。その理由は極めて単純、平凡ともいえる思いであった。やがて再び先生と相会う時があろう。そんなとき弁明がましいことを言わないでお会いしたいというに過ぎない。理由はどうともつけられるが何か後髪をひかれる感を免れない。そんな思いなく平らかな思いでお会いしたい。のこることにしよう。そんな単純な思いで、心平らかに事は定まった。

ひと夏を通しての祈りのあとに、奥田の心は京都に残ることで平らかに定まった。心は平らかに定まっても、奥田の外側は平らかというわけではない、むしろ内側が平らかであるだけ、外側は嵐となった。決心を報告すると、父親代わりのお兄様は怒り、こっぴどく叱った。お母さまは殊の外落胆した。奥田の心を耳にされた学習院初等科以来彼に目をとめて教導を与えてきた先生が訪ねてきて「宗教関係の仕事は君のように何らの苦労らしい苦労もしないで育ったものに出来る仕事ではない。考えなおしたまえ」と忠告した。奥田は「今その一々を書くのも辛いことであるし、誰の参考になることでもないから省略する」と記している。もちろんこれらのことは予想していただろう。しかし、実際にその場に臨んでの痛みは如何ばかりであったろうか。周囲の者が語り為すことは、この世の考えに従えば至極もっともである。ただただ耐える以外になかったであろう。イエスが公活動を始めると、家族は「イエスは気が変になってしまった」と思い、身内の者たちがイエスを取り押さえにやって来た(マルコ3:21)という、イエスの通られたのと同じ道であった。森 明が健在であれば家族の反応も少しは違ったであろうし、さらに牧師になるというのなら賛成は出来なくとも、家族にもその未来は幾らかは想像出来もしよう。しかし、京都共助会といっても学生が四、五人いるだけの会である。その為にと言えば共助会の先輩たちも賛成しがたいことであった。これらの反対に耐えて、奥田は京都に残ることに定めた。

この奥田の決心に共鳴して、共に共助会に賭ける者が出た。鈴木淳平である。鈴木には、勉学資金を出してくれた片倉製糸で一定期間勤務する義務があった。よって卒業後そのまま京都に残ることは出来ないが、その義務を果たしたら京都に帰ると鈴木は約束した。実際には、片倉の社長が鈴木の願いに理解を示し、一年余の勤務で京都へ行くことを了承してくれた。かくして奥田・鈴木を中心として京都共助会は活動を続けていったのである。

五 終わりに  


以上、ごくごく大雑把ながら、京都共助会の発足までの経過と、奥田・鈴木の京都残留までを描いた。私には次の二点は、私自身への大きな問いかけとなって残る。

一つは、森との間の約束「共助会のために京都にのこる」との約束の扱いについてである。相談した人は皆、奥田の京都残留は森がいてこそのことである。先生のいない今、奥田一人が京都に残っても意味がなかろう、との意見であった。それについて、奥田は「そういわれるのが本当だとも思った。しかし他面淡々とそこに落ち着くこともできない感もした」と記している。「淡々とそこに落ち着くこともできない感」にさせたのは何であったのか。それと根底で繋がっていると思われるのだが、奥田の生涯を捻じ曲げて、しかも京都を離れて側にいたいとの願いに耳を貸さずに、京都に残ることを奥田に病床から懇願することを森になさしめたものは何なのか、この懇願をとおして森は何を成したかったのか。

二つ目は、森は第二回目の京都伝道を実行すれば命を落としかねないことは、自らも重々分かっていた。「涛声に和して」のなかに「昨年頃から私は自分の身体が非常に悪くなって、ことに心臓が弱ってきていることをよく意識しているので、いつでも家を出る時(健康の悪いときは)、振り返って愛する家族の住み馴れた家をみるのも、いつできなくなるかも知れないと、自然に思うようになった」と記している。このような身体で京都の旅をすればどうなるかは分からぬはずはない。そこを押して京都伝道を何としてもやり遂げようと森を駆り立てたのは何だったのだろうか。それは共助会の京大支部を確かなものにす

るためなどということでないことは、母寛子にいった「お母さん、友達というものはそんなにどこにでもあるものではないのですよ」との言葉からうかがえる。森は、実現は出来なかった第二回の京都伝道の究極の目的は何であったのだろうか。この森と奥田の関係を思い起こすと、「主にある友情」の重さを感じるばかりである。

参考資料

1奥田成孝 「一筋の道」(『共助』1984年7月号より12回に亘り連載)
2鈴木淳平『恩寵の生涯』1985年
3北白川教会五十年史の「京大共助会の成立」(5頁~12頁)

(日本基督教団 北白川教会員)