私の歩み―共に生きる―李相勁

【誌上 一日研修会 講演3】

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙二12章9節)

私は1990年にはじめた日本での生活をかえりみて、出会いに導かれ日々支えられてきたことを改めて思い起こしています。出会いのなかには「基督教共助会」があります。きっかけは「東九条マダン」「ハンマダン」「マルマダン」での佐伯 勲先生との出会いでした。私は朴パク炯ヒョンギュ圭先生が参加された修養会で入会させていただき、朴 炯圭先生の信仰の証し、韓国における民主化運動などの歩みをうかがいました。また、北白川教会(日本基督教団)でお会いして苦難の現場を一緒に訪問させていただき、熱く語られる朴 炯圭先生の励ましの言葉が心に残っています。

私は韓国の家族と頻繁には会えない状況のなか、日本の生活において教会関係者はじめ、多くの方々との交わりのなかで共に生かされてきました。

日本との関わりは、洗礼を受けた韓国教会の牧師との出会いからはじまりました。当時、教会に通っていた同級生と久しぶりに会い、話すなかで何か惹かれるものを感じました。私は将来のことや人生に対する悩みや葛藤もあり、友人とゆっくり話し合いたいと思い教会で会うことにしました。訪ねて行った教会は、自前の礼拝堂はなくビルの2階でした。そのときは青年会の集いであり、みんなが優しく迎えてくださいました。私は教会には馴染みがなく緊張しましたが、みんなの優しさと温かさですぐに緊張がとけました。私はいきいきと信仰の証しをし

ている友人に「真実さ」を感じました。みんなが自分のために祈ってくれる思いには励まされました。私はさまざまな問いを抱きながらも、教会に通うようになり、徐々に教会生活に慣れていきました。そのときに青年会を担当する伝道師の就任がありました。伝道師は「祈祷会」のあとにも、私の信仰や人生に対するさまざまな問いに時間を惜しまず親身になって応えてくださいました。福音を伝えたいという熱い思いが伝わり、感銘を受けました。私は人々の信仰の証しを通して、神の愛を感じて福音の恵みにあずかり、信仰へと導かれていったと思います。「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピの信徒への手紙4:7)

青年会の方々の、教会の働きを担う姿に考えさせられました。「祈祷会」などで他人のためにとりなしの祈りをする原動力は何か、いわゆる「競争社会」のなかで、他者と比較しながら考えて行動することが「習慣化」していく自分には「新鮮な問いかけ」でした。イエスの招きの御言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11:28)「休ませて」という言葉に、比較することなくありのままの自分を認めるという神の御心が感じられました。御言葉が時代を超えて自分に語りかけていると思うようになりました。また、何をして、何をめざして、信仰とは何かなど人生の問いと方向性を見出そうとする思いが信仰に導いていったと思います。教会は「憩いの場」、「交わりの場」であり、行くのが待遠しくなっていきました。その経験から、地域に根ざして、開かれた教会をめざす大切さを学びました。

青年会担当の伝道師は牧師となり、宣教師として日本へ行くことになりました。牧師は「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)と、福音を宣べ伝える使命や宣教師として行くことについて語りました。青年会では宣教師の働きのために祈り、私は日本宣教の現場に行ってみたいという思いが高まりました。具体的な祈りの課題を確認したいという思いもあり、教会設立に励む宣教師を訪ねて京都に行きました。私にとってはじめての海外であり、日本訪問でした。その後、少しでも宣教のわざを支えられればと思い、京都の日本語学校に留学しました。私は教会の一室を使わせていただき、日本語学校に通いました。日本語学校の教室で、さまざまな国からの留学生が学び、互いに日本語で話し合うということははじめての経験で、楽しかったです。同じ教室で、仏教の「お坊さん」、キリスト教の宣教師など宗教関係者はじめ、多様な方々が共に語り合い、違いは豊かなことであるという「異文化交流」の楽しさにあずかりました。私は日本語を学ぶことで韓国語を考えることも多く、言葉の意味などを学びました。

私は日本語学校で学んだ後、関西聖書神学校で2年間学びました。さまざまな教派のほとんどの神学生が寮生活をしながら、早天祈祷会(火〜土)ではじまる日課を協力し、担い合い、祈りと実践、仕えることの大切さなどを学びました。入学してまもなく神学校は5月の「塩屋聖会」の会場となり、食事準備など一つひとつおぼえることが多くありました。私は日本語だけでなく、生活にも慣れないことが多く戸惑いや不安がありましたが、みんなに支えられて学びの日々を過ごすことができました。この経験はその後の歩みの支えとなっています。「関西聖書神学校は、天と地と海がいつも見える場所に建っています」(関西聖書神学校ホームページより引用)。神学校の建物の屋上は、憩いの場であり、韓国の家族をおぼえて祈るときもありました。休暇中には先輩たちと一緒に韓国を旅したこともあり、多くの方々から韓日の歴史を学び、植民地支配の痛み、戦争の悲惨さ、南北分断の痛みなどを学ぶように助言をいただきました。私の母は「離散家族」であり、同居した祖母は南北統一の希望を抱きながら祈っていました。

私は「日韓キリスト教史」を学びたいという思いがあり、同志社大学神学部に入学しました。神学部には文献が整えられて広く学ぶことができました。学問研究に対する関心が高まり大学院に進学し、おもに「日韓キリスト教関係史」を研究し、各個教会史、地域教会史、「民衆」の視点からの歴史などを学びました。「歴史神学」のゼミでは「アジアキリスト教史」などを学び、現場研修の機会も与えられました。

同志社大学今出川キャンパスには、同志社礼拝堂とハリス理化学館の間に、留学生であった 芝溶(ジヨン)、尹東(ユンドンジュ)柱二人の詩人の詩碑が立てられています。詩碑(写真)の案内板には「尹東柱は、コリアの民族詩人であり、キリスト者詩人である。

……同志社大学文学部に在学中の1943年7月14日、ハングルで詩を書いていたことを理由に、独立運動の疑いで逮捕された。裁判の結果、治安維持法違反で懲役刑を宣告され、福岡刑務所に投獄され、1945年2月16に日獄死した。」(日本語抜粋)と書かれています。また、詩碑には「鮮烈な民族愛とキリスト教信仰と心やさしき童心とが溶けあった尹東柱の詩は同胞ばかりでなく、民族を超えて人々の心を打つ。尹東柱を偲び、ゆかりの地にこの碑を立てるものである。」(抜粋)と刻まれています。

「 芝溶は、……1929年に同志社大学英文科を卒業するまでの6年間をこの学園で過ごし、英文学を学ぶかたわら、珠玉のような多くの詩を発表し、詩人としての基礎を築いた。…1950年朝鮮戦争勃発後行方不明となった。現在韓国では「韓国現代詩の父」と評価されている。……刻まれた詩は、京都を詠った代表作「鴨川」である。」(日本語抜粋)と書かれています。私は今出川キャンパスに通いながら、時代を超えていま自分に問いかけられているものは何か考えさせられました。

私は「関係史」のなかで生み出すものは何かに関心を持つようになりました。韓国の民主化運動において日本のキリスト者との交流と連帯の働き、小さくされた方々との連帯、人権運動、解放運動などの歴史を学びました。私はさまざまな関わりの中で、「在日コリアン」の歴史を学びました。隔ての壁を取り壊し「多文化共生社会」の実現に取り組む、共に生きる連帯の大切さを教えられました。その働きのなかには在日大韓基督教会の歩みがあり、在日大韓基督教会と関わりたいという思いから、牧師の道をめざしはじめました。「在日大韓基督教会の三つの特徴とその宣教的使命」(1.いのちを大切にする神の宣教に参与するマイノリティ教会 2.多様性を祝福し、「和解のしもべ」となるために改革し続ける教会 3.合同(Uniting)を続けるエキュメニカル教会として)[抜粋、在日大韓基督教会ホームページより引用]

私たちは恩師の深田未来生先生の宣教師館であった上賀茂伝道所(日本基督教団 現在、京都上賀茂教会)の2階に住まわせていただきました。周りには畑も多く近くには鴨川が流れるなど、自然に囲まれて、みんなに支えられて育児をしました。深田先生の同志社大学退職にあわせて、有志が「上賀茂宣教ネットワーク」の集いをはじめ、私も世話役となり、深田先生を囲んで学びと交わり、分かち合いのときをいまも持っています。

私は京都東山伝道所(在日大韓基督教会、現在、京都東山教会)の牧師として招かれました。教会に自前の礼拝堂はなく、在日大韓基督教会と宣教協約を締結している日本基督教団、日本キリスト教会などに協力をいただき、場所を借りて礼拝を行うことができました。毎回の礼拝において、集う場所が与えられ、礼拝が行われる喜びと導きに感謝し、共に恵みを分かち合いました。留学生たちと一緒に食卓を囲んでそれぞれの抱えている課題などを話し合い、祈りの課題を共感、共有して祈りました。鴨川で交流会をしているとき、鄭 芝溶の詩を思い出すこともありました。卒業や就職など留学生活を終えて、京都を離れるときの送別会で、京都での生活と導きを共に感謝し、連なることを大切にしていくと祈りました。

その後、私は川西教会(在日大韓基督教会)の牧師として招かれました。地域における「在日コリアン」の歴史、そのなかには「信仰共同体」を形成し、大切にしていた歩みを学びました。さまざまな苦難を、福音によって励まされて乗り越え、尊重し合い、共に生きる社会をめざして福音宣教に励む祈りと働きに教えられました。地域の教会と講壇交換や牧師会などを行い、教派を超えて地域に仕える、連帯の思いを分かち合い、交わりを深めました。地域の行事に参加し、地域に根ざし、開かれた教会をめざしました。それぞれの「賜物」が用いられて、多様性のなかで豊かな恵みにあずかりました。

次に、私は三次教会(在日大韓基督教会)において西部地方会の地方牧師として礼拝説教を担い合うようになりました。住まいの大阪府堺市の鳳教会(日本基督教団)からバスでの移動でしたが、変わりゆく季節の自然を満喫しながら車内で過ごしました。教会で1泊して日曜日の朝、教会の周りの川沿いなどを散歩しながら祈り、礼拝時間を迎える喜びに満たされました。苦難を乗り越えながら「信仰共同体」を形成し、受け継がれる信仰を大切にし、寄り添い共に生きる思いを分かち合う、教会の歩みに励まされました。

私は在日韓国基督教会館(KCC)の協力幹事を約1年間務めることになりました。KCCは「外国人との共生をめざす関西キリスト教代表者会議」などの事務局でもあり、「改定入管法」の問題などさまざまな取り組みを学び、「多文化共生社会」をめざして、教派を超えてエキュメニカル運動の連帯の大切さを教えられました。私はいま、日本の生活のなかで「在留カード」の常時携帯義務が課せられています。「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会」(「外キ協」)では、「外国人がくらしやすい社会は、日本人にもくらしやすい」と訴えています。

私は日本基督教団京都教区と韓國基督教長老會大テ 田ジョン老會による「相互交流のための同意書」の調印(1998年6月30日)以来、相互の交換プログラムや宣教協議会などに通訳や案内などで関わるようになりました。6月最終主日を互いに「交流を覚えて祈る日」として祈りの時を持っています。「《2020年の祈りの課題》―共通の祈り(1)東北アジアの平和のために。(2)差別をこえた多文化共生社会のために。(3)交流20周年を迎え、大田老會と京都教区の関係の成熟と共同宣教の新たな発展のために。(4)韓日間の協力を通して、コロナ19(新型コロナウイルス)危機を克服することができますように。」(抜粋、日本基督教団京都教区ホームページより引用)

2014年に、私は福知山教会(日本基督教団)に牧師として招かれました。(在日大韓基督教会から派遣宣教師)福知山に福音が宣べ伝えられ、恵みにあずかり、地域における福音宣教のわざが教会を形づくっていたこと、それぞれの「賜物」が用いられ、共に支え合う働きが「信仰共同体」になっていることに励まされます。信仰の先達の歩みを思い起こし、福音に生きる思いを新たにしています。

「日本基督教団京都教区宣教基本方針・方策」の「前文」にこう書いてあります。「京都教区は、教会の福音信仰と政治・社会の諸問題を切り離そうとせず、むしろ福音信仰に生きる重要な課題として『宣教とは』と問い続け、課題として取り組んできた。京都教区の各教会に所属する者、またそれに連なる者は、信仰理解において、また考え方においてさまざまな違いをもっている。けれども、そこに共通しているのは『主に倣いて』という生き方を貫こうとする思いである。」

(抜粋、日本基督教団京都教区ホームページより引用)

主の導きに感謝し、出会いを大切にし、福音の恵みにあずかり日々導かれて、尊厳が守られ、「いのち」の大切さ、「正義と平和」の実現、共に福音宣教に励んでいきたいと願っております。

(日本基督教団 福知山教会牧師《在日大韓基督教会から派遣宣教師》)