「森 明のまなざし」 に映るキリストの姿 朴大信

はじめに

安積力也さんの主題講演に対する「応答」を仰せつかりました。初めから終わりまで緊張の糸が一切途切れることのない真心からのお話に、ただただ圧倒されます。まさに「説明の言語」ではなく「実存の言語」。文字通り、一つ一つの言葉が全身全霊に貫かれていました。いったいこれに、何をもって応答するのか。できるのか。

実は講演が始まる前、講演者と司会者と簡単な打ち合わせをしたのですが、そこで笑えない話として出たのは、「おそらく安積さんへのフロアからのレスポンスは、すぐには出ないだろう。最終日あたりにようやくポツポツ出始めるのでは……」というオソロシイ見立て! また一週間ほど前、今日の準備のためにやり取りをさせて頂いた安積さんからのメールには、こうありました。「当日は、正直『出たとこ勝負』でいくしかありません。レジュメとは全然違うことを言い出してしまうかもしれません。とんでもない発話者の『応答』を引き受けさせられたと諦めて、どうぞ事前準備などせず、当日、心中深くで何を感じ、思われたのかを、できるだけ嘘偽りなく、率直に語って頂けたら、私は有難いです」。

戸惑いと確信

こうして私は今、ある意味で開き直って、しかしまたこれほど恐ろしい場はないのではないか、とさえ思える心地でここに立っています。しかしいさぎよく諦めることで御心に委ね、自らに示された思いを分かち合いたいと思います。

さて主題講演Ⅰは、今年の主題「主が望み給う ― キリストに在る友情に生きた二人の先達に思いを馳せる」に沿って、その一人である森 明を取り扱うものでした。しかし既にお気づきの通り、「森 明」の話が出てきたのは、講演が始まって1時間が過ぎた頃でした。ただし、そこで言及されたのはごく僅かで、本格的に語られたのは、最後の数十分でしょうか。誤解を恐れずに言えば、つまりお話の大半は、講演者自身の半生を共に見つめるものでした。森 明についてたっぷりお話を伺って応答に備えるつもりでいた私には、いささか戸惑う展開でした。

しかし伺う内に、私は思ったのです。森 明と講演者の話は、決して別々ではないはずだと。両者に割り当てられる比重が一見、逆転しているとさえ思えたその事態は、しかし事の真相に照らしてみるならば、むしろこれ以上ないくらい、いわば逆説的に、実は講演者は終始、森 明を雄弁に語っていたのではないだろうか。否、もっと極端に言ってしまえば、たとえこのまま森 明の「も」の字が出て来なくてもよいとさえ思いました。なぜなら、今日私たちの目の前に思いがけず差し出された講演者自身の生身の姿、あるいは「人間・安積力也」の裸の姿、その疑いようもない剝き出しの姿が、ここまで深く、愚直に、そして神の御前でこそ誠実に露わになったということ自体、それは紛れもなく、この講演者が森 明と真実に向き合い続けたことの何よりの証しに外ならないと確信するからです。

真実なる出会いとは、そういうものではないでしょうか。私たちが誰かと真実に出会う時、そこで起きていることは、単に相手をよく知るようになるということをはるかに超えて、その相手の存在や言葉、眼差しを通じて、この自分という人格が否が応でも対峙させられ、抉り出され、明らかにされる、ということではないかと思うのです。その出会いによって示された新しい自分の姿を、もう一度受けとり直しながら生きてゆく。そう思えた時、私は、この講演者をそのような真実な生へと導いた森 明という存在のリアリティを、他のどんな本や資料よりも確かな仕方で、まさに今日ここに立てられた尊い講演者の姿を通じて、感じずにはいられなかった次第です。そして本講演のタイトルが、「森 明のまなざし」と掲げられていたことにもようやく合点がいったのでした。

森 明の眼差し

いったい、森 明が見つめていた真実、またその眼差しが捉えていた私たちの真実な姿とはどんな姿でしょうか。

最近、2歳になったばかりの私の次女の姿から、色々と気づかされることがあります。言葉を覚え始め、自分の意志をはっきりと表すようになってきました。そしてしばしば、韓国語で「アッパ(パパ)!」「オンマ(ママ)!」と親を呼びつけるのですが、その呼び方はまるで叫びのようです。もちろん原因ははっきりしていて、一度普通の声で呼んでも親がすぐに応えてくれない時に、そうなります。しかし、たとえ一度目で返事をした場合でも、その親の態度が中途半端だったり、ちゃんと自分に向き合ってくれていると本人が思えないような時には、その不満や反発の度合いは尋常ではなくなります。ありったけの力を振り絞って、全身で叫び上げるのです。

その声はあたかも、次のように聞こえます。「私を無視しないで! 馬鹿にしないで! いい加減に扱わないで!」。まさに怒りです。しかし同時に、その手ごわい姿の一つ内側には、強い不安と深い悲しみ、あるいは底なしの虚しさも見え隠れします。それは純粋なまでに、人として生きてゆく上で幾度も抱えることになる、魂の飢え渇きなのかもしれません。

翻って、私たちの現実世界を見渡せば、今、ここかしこに起きている悲惨な争いや暴力の連鎖の根底には、個人のレベルであれ、国同士のレベルであれ、実は2歳の娘が魂の奥底に秘めているような純粋なまでの呻き声が、涙と共に鳴り響いているように聞こえてなりません。敵も味方も、実はみんな傷ついている。悲しんでいる。否、敵の姿がモンスターの如き化け物に見えれば見えるほど、その内側の闇は深い。そしてそうしたアンビバレントな姿は、いつでもこの自分自身と隣り合わせであるかもしれないのです。最初はガラスのように透き通って純真であったはずの魂の叫びが、いつしか自分でも止めることができないほど悪の力と結びつき、罪の虜となって、雪だるまのように肥大化してしまう悲劇です。

まさにこうした悲劇に着目し、その深い闇に福音の光が放たれる希望を見つめようとしたところに、私は森 明の一つの大切な眼差しがあると思います。私の手元には今、一つの説教があります。これは今日の講演レジュメの中でもその一部分が紹介されていたものですが、今からちょうど100年前の1922年に、私が現在お仕えする松本東教会の前身「松本日本基督教会」においてなされた森自身の説教です。どうしても説教の文を知りたいと思い、教会に眠る古い資料を探ってみましたら、幸いにも残っていました(信州教報「基督者」第44号、1922年9月15日発行)。

その説教の出だしは、「人間が何故宗敎を求めて居るか」という問いから始まります。そして彼は、その理由の一つに人生の「不安」を挙げます。あるいは「不安な、居心地の惡いUneasinessな心持」、さらには「何か自分の心の中に、ある淋しいことがある、言葉には云へぬ……Something Wrong」と続けます。そしてまさに、「このSomethingWrong を如何に片付けるべきか。これが根本問題である」と、私たち人間の根本課題を明らかにするのです。ところが、この説教には題が付けられています。「贖罪」です。つまり森は、不安や心に覚える〝何か良からぬもの〟といった人間の実存的問題の根本解決を、どこまでもキリストによる「罪の贖い」という主題において見据えようとするのです。

これはとても大切な視点だと思います。私たちが生涯にわたって問い、問われ続ける人生の根本問題、そして魂の根源的な救いに関わる問題です。私たちはこの罪という地平において、キリストと真実に出会う者とされ、神のはかり知れぬ愛と赦しの深さに打ちのめされて、再び立ち上がらせて頂く。そう信じてやみません。そして今日の講演でも引用されているように、私たちはまさにこの説教の最後で森が次のように告白する真実の言葉に、深く耳を傾けたいのです。

基督ほどのお方に思はれてゐる。彼の爲には自分はどうなつてもよい。どうか從はせてください。此の血が生きて通つて居るなら何處までも進める。お互いに慰め励まし最後まで諦めず、冷淡にならずに進みたい。よく闘つて呉れたと耶蘇に喜ばれるまでになりたい……。

「主に在る友情」

はたして、「何が『森 明』を、ここまで『本気』にさせるのか」。講演者からの度重なるこの問いかけに、私たちもあらためて、「本気」で沈潜したいと願うものです。その手がかりとして、ここでもう一つ、森 明について0 0 0 0 語られた文章(「説明の言語」)をご紹介します。

森はその生来病弱な身体に阻まれて、まったく学校教育を省略せざるをえなかったという。もちろん、貴族の子弟としてその教育に不足はなかったとしても、学校はただ教室ではないのであるから、その「学友」を持ちえないことの不足は何とも致し難かったであろう。その不足の中で、この人はイエスの人格的秘密に触れ、その弟子仲間に素直に参加している。のみならず、たいへん広い範囲に自分たちの仲間を獲得するようになった。しかも、ほとんど「友情」という絆によってだけである。ここでは友情と信仰とが同義語として現われる(「Ⅹ 森 明における『詩と友情』」より。熊野義孝著『日本キリスト教神学思想史』、1968年、新教出版社、所収)。

私たちは、森が終生見つめ続け、また苦しみ抜いた、自身の内側にのさばる言いようもない弱さと不安、あるいは孤独と絶望という深淵なる境地に、いかにして思いを馳せることができるでしょうか。病弱のために「学友」に恵まれなかった「不足」。そしてそのこと故に抱えることになったに違いない、彼の実存におけるありとあらゆるものとの断絶という、神の御前で露わにされる「罪」との孤独な闘い。そうしたただ中にあって、しかし彼は、「イエスの人格的秘密に触れ、その弟子仲間に素直に参加し」た、と言います。

言い換えれば、森はここで、他でもないキリストの真実なる眼差しに捕えられたということです。しかしそれどころか、実はそうなって初めて、共にこのお方の赦しに生かされ、ただこのお方のために互いに励まし合い、そしてこのお方のみを証ししてゆく同志の友が与えられたのです。この、まさに「主に在る友情」にひたすらに生きてゆく喜びと真剣さこそが、彼の生の内側、その罪の深淵に、命の光をもたらしたのではないでしょうか。「ここでは友情と信仰とが同義語として現われる」所以です。

おわりに

講演の冒頭で紹介された高校1年生の鋭い言葉が、今も胸を打ちます。「人間って、自分を知る深さまでしか、人を理解できないんですね」。確かにそう思わされます。自分を浅くしか見ることができなければ、相手のことも、その程度までしか見ることができない。なんと恐ろしい現実でしょうか。でも悲しいかな、それが現実です。相互の無理解や人間不信、争いや諦めは、今日も起こり続けています。

そもそも私たちは、自分自身をどこまで深く知り、見つめることができるでしょうか。しかし私は今日のご講演を伺いながら、逆にこう強く思わされました。もしも私たちが、自分で自分を知る物差し以上の深い眼差しをもってこの自分を見つめてくれる存在と出会うことができたなら、どんなに喜びに満ちたものとなるだろうか、ということです。かつて安積さんが、学生時代の恩師・神田盾夫先生から「愚か者!」と叱しっ咤た されたその言葉にまったく傷つくことがなかったのは、なぜだったのか。学生運動が激化したあの時代、暴力と権力が吹き荒れる不条理に対峙するあり方をめぐって、川田 殖先生から「いいんです。無力でいいです!」と、目玉が飛び出るような勢いで言い迫られながらも、その言葉自身が依拠する「真理の力」、あるいは真の「権威」の力に、やがて安積青年も魅せられていったのは、なぜだったのか。

私はここに、その師の、否、その友の、眼差しの力を思わずにはおられません。自分のことを誰よりも深く知ってくれる、友の眼差し。古い殻に凝り固まっている己の無知や恐れ、弱さをすべて包み、あるいは傲(おご)りさえ打ち砕いて、新しい命の道へと誘ってくれる友の、愛の眼差しです。森 明が私たちを見つめる眼差しも、これに重なります。しかし彼の眼差しの確かさは、自らが鍛え上げた眼力というより、その彼を、まさに友としてその眼差しに捕えて離さなかったキリストご自身の確かさに支えられていたに違いありません。

「基督ほどのお方に思はれてゐる」。見つめられている。私も生涯このお方を見つめ返しながら、その自らの瞳にキリストが曇ることなく映るようにして、「主に在る友情」に生きたい。その願いと決意が新たに与えられます。(日本基督教団 松本東教会 牧師)