忍耐は練達を生み出し、 練達は希望を生み出す キリスト者の生活とネガティヴ・ケイパビリティー 下村 喜八

ローマの信徒への手紙5章1〜5節

一 答えの出ない状態に耐えること

先ず、高橋望さまの感銘深い文章を紹介します。

自閉症スペクトラムの息子のことでひどく奮闘する日々が長く続き、疲れ果てていました。入り込んでしまった暗いトンネルの先が見えない。頑張っても頑張ってもうまくいかない。それは何十年も続いていました。(……)そんな時に読んだのが『ネガティヴ・ケイパビリティー 答の出ない事態に耐える力』(帚木蓬生-ははきぎほうせい-著)でした。「答えの出ない状態に耐える」。まさにその時の私の課題でした。えー答が出ない状態でいいの? とても驚きでした。(……)

ネガティヴ・ケイパビリティーとは、逃げ出さずにその場に居続ける能力、結論を棚上げする能力、宙ぶらりんを耐え抜く能力で、それは「能力」だというのです。しかもそれが「対象の本質に深く迫る方法」「相手を本当に思いやる共感に至る手立て」だというのです。合理的に解決して結果を出し、次に進む。それこそが唯一の正しい生き方だと思いがちです。でも違うというのです。どうして状況がマシにならないのか、なぜいつまでたっても道は緩やかになっていかないのか、いい加減にひと息つきたい! と思っていた私にとって、目からウロコのようでした。凌しのぐ、耐えるということの積極的な意味に客観的に気づかされたのでした。

と同時に、これまで凌ぎ耐えてきた道のりには、いつも神さまのまなざしがあったことにも思い至りました。やっと一山越えたと思うとすぐに次の試練が押し寄せてくる。神さまに向かって、なぜですか、もういい加減にしてください! と嘆きや怒り悲しみを祈りにしつつ歩んできました。というより、そのようにして神さまにしがみついていなくては、その時を耐え凌げなかったということだと思います。しがみつく相手として、いつも神さまはそこに居てくださったわけです。不思議なことに本の中で著者は、そこにとどまり続けるためには、「目」が必要だといいます。見守っている眼があることが大事だと。人は誰も見ていないところでは苦しみに耐えられず、ちゃんと見守っている眼があると耐えられると言います。精神科医の役割は、長期にわたって患者さんを見守り続ける眼となることだと言います。(……)神さまのまなざしは、いろんな形で私たちを励まし、支え、力づけ、癒してくださる。このことを知っているだけで、元気が出てくるようです(宮田咲子「福音」No.412)。

二 ネガティヴ・ケイパビリティー

ネガティヴ・ケイパビリティーは、詩人であることの苦悩を表現したジョン・キーツ(1795‐1821) の言葉です。詩人や作家は作品によって自己表現をしているのだと一般的には考えられています。しかしそうではなく、感情移入の能力によって他者と一体化するかたちで人物を創造し、生かします。彼らは、他者の立場に身を置くことのできる素質をもった人たちです。何十人、時には百人を超す人物の立場に身を置くことができます。純粋無垢な人物を生み出すことができ、また極悪非道な人物をも作り出すことができます。キーツは自分をカメレオンにたとえています。カメレオンは、居場所の環境によって色を変えます。詩人もまたカメレオンのように自分が創造する人物に入り込み、その人物の色に染まります。しかしここに深刻な問題が生じます。いろいろな人物になりうるが、自分自身が何者であるのかが分からなくなるという問題です。

キーツだけでなく一九世紀のヨーロッパの多くの詩人たちは、この能力ゆえに苦しみました。同一的性格あるいは個性の喪失、それに伴っ自己の存在が無化する苦しみです。詩人はその苦しみに耐えなければなりません。その耐える能力をキーツはネガティヴ・ケイパビリティーと呼びました。自己を主張する、自己を表現する、自己実現をするというような積極的、肯定的な能力ではなく、消極的、否定的な能力です。あるキーツ研究者(伊木和子)は、「消極的受容力」と訳しています。これは他者の中に自己を失う能力です。それは同時に、自己を介在させないで対象を客観的に見ることができるゆえに、その本質を認識できる能力でもあります。

他者の中に自己を失うことができるためには、自分が今まで獲得してきた知識、判断、善悪の尺度等を捨てなければなりません。しかし、過去的な自分だけではなく、現在の自分をも捨てなければなりません。自分であろうとする意志と感覚と知性とを眠らせた状態を持続しながら他者と一体となることによって他者の生を生きます。そうすることで他者の真の認識と、他者との宥和が生まれます。

他者の立場に身を置くことは、けっして容易なことではありません。それができないゆえに、誤解が生じ、対立が生じ、争いとなります。家庭においても、職場においても、地域社会においても、国際社会においても同じことが言えます。今の社会において最も求められているのは、この他者の立場に身を置くことだと私は思います。

三 性急に答えを出すことが求められる時代

キーツは、ネガティヴ・ケイパビリティーとは「性急に真実や理由を求めることをせず、不確実さとか不可解さとか懐疑の中にとどまり続けることができる能力」であると定義しています。帚木氏はキーツのこの概念のうち、詩人における同一性の喪失や無化の問題には深く立ち入ることはせず、定義文の方に重要な意味を見いだし、それを精神医療等の分野に敷衍し、応用しています。長年ご子息のことで苦労されてきた高橋さんは、帚木氏の著書を通して、答えの出ない状態に耐える能力がもつ積極的な意味を教えられ、大きな慰めと、今後もつづくと思われる事態に耐える力を与えられました。

現代の社会では、問題をてきぱきと処理し、早く答えを出すことが求められています。学校教育がそのような処理能力を養うことを目的とする傾向を強めています。帚木氏は精神医療でもそうであると指摘しています。精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があるそうです。分析家たちは学んだ知識と理論の応用ばかりにかまけて、目の前の患者との生身の対話をおろそかにしすぎていると批判しています。ちなみに今の若者たちはドラマや映画、さらにオンライン講義を早送りで見るそうです。時間当たりの生産性(タイパ)が重要視されます。そのような若者たちは、人間として何か大事なものを身につけることができずに成長するのではないかと危惧されます。感入力や思考力、対象との心の通ったつながり、生きることの充足感といったものを。

キリスト教界においても同じようなことが言えるのではないでしょうか。私は職場の関係もあって、いくつもの教会の礼拝に出で、一三人の牧師の説教を聴いてきました。すべてではありませんが、師さんには答えを性急に出し過ぎる傾向があるように思われます。参考にされた文献を丁寧に読んでおられない場合があります。抽象的な概念を別の抽象的な概念で説明して済まされる場合があります。恐らく忙しすぎることがその一因だろうと思います。毎週説教をするのは大変なことです。しかも同じ聴き手に対して何年にもわたって話さなければなりません。ですから牧師さんには、何よりもじっくり考える時間を差し上げないといけないと思います。また、教義あるいは社会的イデオロギーを基準にして聖書を解釈される場合があります。この場合、最初から答えが出ています。これはネガティヴ・ケイパビリティーを欠く典型です。さらに、日本には、説教は批判の対象にしてはいけないという暗黙の了解のようなものがあります。したがって説教は一方通行となります。牧師と信徒のあいだに隔ての壁があります。これでは血の通った対話は不可能になるのではないでしょうか。牧師さんは孤独です。ここでも相互が他の立場に身をおくことが求められます。ちなみにブルンナーの説教集を読みますと、前回の説教に関してこういう批判があったというくだりが何度も出てきます。この教会には牧師と信徒との対話があったと推測されます。

四 他者の立場に身を置くこと

残された時間の都合で掻い摘んでお話しすることをお許しください。性急に答えを出すことになり、今回のテーマに関し自家撞着に陥ることを恐れます。

他者の立場に身を置くことを、完全、純粋、全人的に行われたのはイエス・キリストではないでしょうか。詩人たちが心の中で(感情や想像力や思索において)行ったことを、イエスは現実に身をもって生きられました。キリストは私たちの所まで降りてきてくださり、私たちの罪と弱さ、病と苦悩のすべてをご自身の身に負ってくださいました。

他者の立場に身を置くことは、聖書的には愛の行為と言い換えることができると思います。はじめに神の愛があります。その愛に応えて生きることがキリスト者の生活です。詩人たちは生来の能力によって他者の立場に身を置くことができます。キリスト者はキリストの愛に促されてはじめて他者の立場に身を置くことができます。そこには能力という点で能動と受動の違いがあるかも知れませんが、他者の中に自己を失うという点では同じであり、ネガティヴ・ケイパビリティーが要求されます。

パウロは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ一二15)と語り、また、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。(……)弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」(Ⅰコリ九20‐22)と語ります。私たちキリスト者には、他の誰よりも、他者の立場に身を置くこと、ネガティヴ・ケイパビリティーが求められています。

五 忍耐は練達を、練達は希望を生み出す

また、私たちは「すでに」と「いまだ」の中間にいます。すでに、キリストの十字架の贖いよって義とされていますが、現実はいまだ罪のただ中にいます。そのようなキリスト者の生活においてもいわば「宙ぶらりんを耐え抜く能力」が求められるのではないでしょうか。キリスト者の生活は、生まれながらの古い人とキリストに生かされる新しい人、肉と霊、行為義認と信仰義認、傲慢と謙遜、敵対と平和、自己愛と隣人愛、地の国と神の国の二項対立の間で、両極を行ったり来たり繰り返す観を呈します。一向に埒が明きません。この二項対立は弁証法のように統合止揚されることはありません。進歩や成長(聖化)は望めず、合理的な解決も望めません。ちなみに人格的な関係にあっては、答えの出ないのが常態ではないでしょうか。宙ぶらりんの状況が生涯つづきます。逃げ出したくなることもあります。「忍耐」が求められます。

今日取り上げたロマ書5章3節の「苦難」はパウロが受けた迫害による困難や労苦を指していますので、主にフィジカルな意味をもちます。「忍耐」もフィジカルな苦しみに耐える意味だと思われます。しかし、今はもっぱら精神的な意味で用いることになります。「練達」は、何度も火の中をくぐらせて不純なものがすべて取り除かれた金属を意味しています。この箇所では、何度も苦難をくぐりぬけ、鍛えられて生まれる、人間の内心の有り様を表現していると言えます。注釈書では、「堅固な魂の情調」「確固たる性格」、あるいは戦闘の場数を経た老兵が身に着けるような「堅固な性格」等と説明されています。次のような解釈もあります。「人生の戦いを通して人はより強く、より潔きよくなり、またより善くなって、神に一層近づく」(バークレー)と。しかし、私たちは信仰生活をつづけるなかで、本当により強く、より潔きよく、より善くなるものでしょうか。あるいは人格が陶冶されるでしょうか。これらは、人類の進歩を信じ、個人が人格の教養形成を目標として生きた19世紀の精神風土の名残ではないでしょうか。「どんな人でもすべての人に対して、すべてのことに於いて罪がある」(トゥルナイゼン)とあるように、私たちは、この世にあっては、何ひとつ善と呼べるものは為しえないのではないでしょうか。

先ほどの引用文には、宙ぶらりんの状況に留まりつづけることで、「対象の本質に深く迫る」ことができるとあります。私たちの生活にもそのようなことが起こるのでしょうか。私たちは、キリストの愛と信頼に応えて生きようとして、上記の二項対立のなかで苦しみます。しかし、その経験を通して、しだいに自分の罪の深さを知らされていきます。そして罪の深さを知れば知るほどキリストの愛の深さを知ります。つまり次第次第にキリストの本質に深く迫ることになります。このように「忍耐は練達を生む」の「練達」は自己の罪とキリストの愛の認識を深められてゆくことではないでしょうか。キリストとの交わりが深まることです。キリストのリアリティーが増すことです。そのような意味での「練達」とともに、二項対立の後者、つまり「新しい人」「霊」「信仰義認」「謙遜」「平和」「隣人愛」「神の国」の領域が自然に、自分ではそれと気づくことなく増し広がる可能性が開かれます。そして「忍耐」も、キリストが見守ってくださっているなかでは、がまんして耐えるというマイナスのイメージを失ってゆきます。

「練達」の原語(ドキメー)には、「(真実であることの)実証」という意味もあるそうです。手元の四種類のドイツ語聖書はすべてそのように訳しています。この解釈では、神との和解の恵みは、忍耐を通して実証されることになります。思い返せば私たちにも、神との和解の恵みが真実であることを実証された経験があるのではないでしょうか。

私たちがキリストの愛の内にあるとき、またキリストの愛が私たちの内にあるとき、私たちは満ち足りた現在、充足された現在を経験します。キリストに似た者になる歩みができているわけではありません。しかしひとり神に祈るとき、人から無償の行為を受けたとき、キリストに生かされた小さな行為が人の心に伝わるとき、そして信仰の友と交わるときに、満ち足りた現在を経験したことがあります。その時、今ある自分が本当の、あるべき自分だと知らされます。その時、心に平安と喜びと生い の命ちがあることに気づきます。そして、このようなキリストと一つなる生それ自体が私たちの生の意味であり、目的であることを知ります。そのような経験に裏打ちされて、キリストが再び来られるとき、キリストと同じ姿に変えられ、キリストとの、また隣人との一つなる交わり(神の国)が実現されるという希望が確かなものとして待ち望むことができます。「練達(実証)は希望を生み出す」とはそのような消息ではないでしょうか。

(日本基督教団御所教会会員)