平和をつくり出す人たち (2011年 5号) 疋田國磨呂

 私たちの日本は、アメリカのB29の空襲によって主要都市が焼かれ、一九四五年八月六日、九日の広島と長崎の原爆投下により、ようやく太平洋戦争を終結するに至りました。それから六十六年目の今年三月十一日(金)午後二時四十六分、東日本大震災によって、まるで終戦時のような大惨事が、奥羽・東北・関東一帯を襲ったのです。

  私は、救援活動のため奥羽・東北の被災地の現場に立ったとき言葉を失いました。今まで経験した地震被害の現場と違って、津波被害の現場には家も死亡した家族の遺体も何一つ残っておらず、まるで焼け野原のような状態なのです。更に驚くべきことは、地震津波の被害を受けた福島第一原発の事故で放射能汚染という第二の被爆が起こったのです。四カ月経っても約六万人余りの方々が避難生活をし、死亡者一万五千人余り、行方不明者五千人余りです。被災地と被災された方々の上に、ただただ神の特別な慰めと助けを祈るばかりであります。東日本大震災の被災地域の復興には長期の時間とぼう大な資金が必要となります。

  このような状況の中に在って今一度、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(口語訳マタイ五・九)との主イエスの御言葉を想起します。東日本大震災は、経済大国と科学先進国という日本のおごりが打ち砕かれた大惨事でした。この復興は、日本にとって第二の戦後復興ではないでしょうか。私は、教会に連なる者として、戦後六十数年、ほんとうに日本に平和をつくり出すために祈り努めて来ただろうかと問われます。

  日本は、戦後、世界で最初の被爆国として、「ノーモア広島、ノーモア長崎」と唱って世界の核兵器廃絶運動の先頭に立ってきました。しかし皮肉にも、その日本が原子力発電の〝安全神話〟に乗せられて、福島原発事故で第二の被爆をもたらしたのです。「平和をつくり出す」ことは、人の命を奪い合う戦争のない状態をつくり出すことですが、目に見えない放射能から人の命を守ることでもあります。福島県では、緊急避 難区域三〇キロメートル以外の区域の幼稚園や保育園では、子どもたちは園庭で遊ぶことができず、水道水も使えないのです。子どもたちの命を守ることが、平和をつくり出すことでもあるのです。「ノーモア原発」を実現するのもキリスト者の新たな使命ではないでしょうか。

(日本基督教団 大宮教会牧師)