「改正」教育基本法の破綻(2007年4月号) 山本 精一

 二〇〇六年十二月十四日夕、政府・与党は参議院特別委員会において、政府提案の教育基本法を強行採決した(「改正」教育基本法)。この強行採決を推し進めた人々の間、さらにその背後には、一九四七年に発効した戦後教育基本法の精神に対する粗暴な敵意が当初から渦巻いていた。そうした粗暴な敵意は、政 治の最終局面において、様々な暴挙となって噴出した。

 過半数の公述人から政府法案反対・徹底審議を求める意見が表明され、日本各地で草の根から反対の叫びが上げられ(大手メディアはこれを終始一貫して無視あるいは隠蔽し続けた)、寒風に身を晒しながら連日連夜多くの市民がこうした各地の叫びを担いつつ国会議事堂を取り囲みそこに立ってくださった。ここには、国家が教育を支配する過ちを繰り返すことに対する痛切な否と、人間の尊厳を教育において希求する呻きが満ちていた。

 しかしこの国の政治権力者は、そうした批判と希求を歯牙にもかけず、議会・委員会の質疑では、紋切り口調の答弁(「戦後体制からの脱却」)を声高に繰 り返すだけであった。しかもこの「改正」へ向けた世論形成のために、政府機関は「やらせ」の嘘を仕組んだ。あげくの果てに、審議時間が経過したことを口実にして、採決を強行した。対話と批判をなりふり構わず押しつぶすその姿には、国家が教育支配に乗り出したときの暴力性がはっきりと映し出されている。 それは、嘘を用いて事を起こし、対話の内実を破壊し、教育現場の苦闘に柔らかく多彩につながろうとする思考と想像力を停止させ、共通の国家目標(「国を愛する心」)を全国一律に叩き込もうと画策する。そこでは「愛する」という言葉が、「国」という言葉に強引につながれ隷属させられている。国家は自らに対する「愛」を強要することで、「愛」を支配的操作の産物にまで貶めた。ここに「改正」教育基本法の道義的・宗教的破綻の癒しがたさがある。

 このような「愛」の欺瞞が現場にもたらす苦しみは計り知れない。そのとき本誌において刻み出され続けてきた呻きと洞察に、改めて励まされる感を深くする。そこにはわれわれがこの国の教育の未来を今仰ぎ見るために立ち返らねばならない「荒野に呼ばわる声」が幾重にも谺している。そして先師の言葉が、われわれのそば近くにいやわれわれのうちに新たに語りかける。「友を信じ、人を恐れず、決死の一途を辿り申すべく候」(森 明)。