教会と無教会 (2007年6月号) 久米あつみ
五月号掲載の飯島信氏講演「森明の信仰と共助会(前)」を(校正者の特権でゲラ刷りのうちに)読み、考えさせられる所があった。内村鑑三は少なくとも伝道の初期、無教会というものを教会と対立するものとは考えておらず、むしろ「真正の教会」、「一番善い教会」をめざす者の集いであり、「壊すように見えて実は建てる者」であり、聖礼典への尊敬の念等はこれを尊重すると言っている。実際内村の生存中は、彼の個人的魅力に惹かれる向きもあったであろうが、教会人も多く内村の下に赴いて教えを受けているし、無教会のメンバーも教会に出席する(とくに無教会の集会のない地域では)など、交流もかなりされていたと聞く。
そして飯島氏は内村にとっての無教会の特色を、
①その集まりがいずれの教派にも属さないこと。
②運営は民主的になされ、教職制は取らず、会員はすべて同一の聖書的立場に立つこと。
③聖書の研究を主とすること。
の三点にまとめておられる。
これらの特色は、たとえば共助会のような同志的友情団体ではほとんどそのまま受け入れてもよいだろう。してみると教会と友情団体とはどうちがうか、が問題になってくる。教職制を取らない、ということは、教会における秩序(序列と見る見方もあるだろうが)を認めないことにつながり、聖礼典執行の権威にもかかわるだろう。また内村は聖礼典を信仰にとって非本質的なことと見ていた、とのことだが、人間の弱さに合わせて主が制定された「目に見える言葉」である聖礼典を、他のもろもろの儀式や形式と同じ次元で「非本質的」、と切ってしまっていいのか、という疑問は残る。人は聖書の言葉を「学ぶ」だけで何の補助手段も要しないほど聡く強いのか。また規則をもち、建物や財産を所有する「法人格」はこの世との接点を考える上でも必要と思われるが、持たないほうが純粋かつ自由であるのか。神への賛美と、隣人への奉仕は、聖書講義のみでなされるのか。
これらの疑問はあるにせよ、「無教会」のあり方に学ぶべきことは多々あるであろう。しかし今日、教会と無教会の間には、学問上の対話は別として、交流はほとんどない。いや教会と無教会の間だけではなく、各教派間の交わりも皆無に近い。これでよいのだろうか。
カルヴァン研究の分野で、カルヴァンとルター他の改革者との比較や、カトリックとの関係が学び直されるようになって来たのも、対象ひいては自己の検証は、「他者」との対話を通してこそ、可能になるからであろう。