寛容と遵守(2001年9月) 久米 あつみ

 朝、出勤の時間だ。鉄扉を開け、車を出す準備をする。と、足元にたばこの吸殻ひとつ。おととい来た電気屋が捨てて行ったものだろう。拾い上げて指先にはさむ。また一つ、これは庭から道路に出る境に落ちているから、通 勤の人が落として行ったものだろう。これもつまみあげてさきほどのと一緒にする。たばこの吸殻は「落ちた」のではなく意識的に吸う人が「落とした」ものだから、腹が収まらない。

 車を出す。すぐ前の新青梅街道は早くも渋滞。待つほどに、前の車の窓が開いた。あ、またかと見るともなく目を走らす。窓から突き出された右手にたばこの一本。数分後にそれは下に投げ落とされる。火もついたまま、その白い紙の筒はアスファルトの上に落ち、転がって見えなくなる。「ほんとにもう、たばこを吸う人はマナーが悪いんだから」とこれは私の胸の内。大学につくと、それこそ朝から晩までマナーに外れた吸い方をしている学生を叱っていなければならない。狭い廊下で歩きながら吸っている学生や、禁煙の標示の真下で吸っている学生もいる。エレベーターの中で吸っている学生を見つけたときは、思わずその手を叩いてしまった。私より数等厳格なある先生は、そういう学生を見つけ次第、大声で叱責しておられたが、このごろそのお声があまり聞かれないのは学生のマナーが少しはよくなったせいかしらん、それともお疲れかと案じて見る。

 ところで、と車を転がしながら考えるのだ。喫煙者から嫌煙者はどう見えるのだろう。喫煙者はどういう言い分を持っているのだろう。「何も言うことはないよ。吸いたいだけさ。体に悪いこともわかっちゃいるさ。だけどそれを悪いと言う、嫌煙人種の言い方はいやだね。」と大方の喫煙者は言うにちがいない。喫煙は吸う人のみならず、周囲の非喫煙者にも害をもたらす、それなら禁じるべきではないかというのが正論ではあろうが、嗜好を体への良し悪しだけでとらえると、そもそも嗜好と言うものの存在意義がなくなってしまう。考えてみると文化にも似たような面 があるかもしれない。いや信仰の領域に入っても、真理を真理として信じることはいついかなる時でも信仰者の遵守すべきこととして、生活の次元では他人の行動様式、思考様式に関しては寛容でなければならないのだろう。他人を思いやる想像力は、実に私たちに欠けているのだから。