キリスト賛歌・キリスト告白 (2008年1月号) 尾崎風伍

 ヨハネによる福音書第一章は、この福音書独自のクリスマス賛歌であるが、その中に次のような言葉がある。《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた(一四節)。わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである(一六-一七節)。》  何という喜ばしい緊張と高揚感にあふれた言葉であろうか。しかし、ヨハネによる福音書が著された紀元九〇年代は、教会にとって大変厳しい時代の始まりであった。すなわち、ユダヤ教の最高会議でキリスト教の信仰は異端であると正式に宣言され、キリスト者はユダヤ教会堂から追放されることとなった。また、それまで偶発的・局地的であったローマ帝国のキリスト者迫害が、ドミティアヌス帝の時から帝国ぐるみの、組織的なものに変わっていった。その厳しい苦境の中で記されたクリスマス賛歌の、この強い喜びの響きは一つの驚きである。が、常識では考えられないこのような力の源こそ、ほかならぬ賛美の対象であるキリストから発する。

 ヨハネ福音書第一章は本来、キリスト賛歌であると同時に時代と世界とに対する信仰告白でもある。たとえば一八節《いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。》これは賛美告白であって目をつり上げて敵に挑む言葉ではない。けれども、たとえば同じただ一人の神を拝むといっても単純な唯一神教のユダヤ教にとって、父のふところにいる独り子である神とは、聞き捨てならぬ挑戦的な言葉としか受け取られなかった。ローマ皇帝にとっては、「イエスは主である」(皇帝が主ではなく!)という言葉が聞き捨てならぬものであった。こうして迫害は本格的なものとなった。キリスト者にとって体の中から突き上げてくる喜びから歌うキリスト賛美の歌が、時にその時代と世界に対して深く鋭い問いとなったからである。ひるがえって現在の日本の状況は、私どもにとって紀元九〇年代のローマ帝国と似ていないであろうか。私たちは時代の状況がいかにあれ、主キリストに対する賛美告白の歌を歌いつつ、新しい年の歩を進めよう。