キリスト教の平和主義と国家 (2007年10・11月号) 原田博充

 今年七月六日(金)、京都にあるNCC(日本キリスト教協議会)宗教研究所で、「キリスト教の平和主義とは――戦争と平和――」と題して語る機会を与えられた。この講義の前半では、『共助』の今年二・三月号に載せていただいた「聖書の平和主義と日本国憲法九条」をレジュメ代わりにして、戦争と平和についての聖書の多様な主張や使信を概観した。その後、宮田光雄「兵役拒否のキリスト教精神史」(『平和の思想史的研究』創文社所収)、木寺廉太「キリスト教公認までの信徒の兵士の実態」(『古代キリスト教と平和主義』立教大学出版会所収)、『殉教者列伝』(『キリスト教教父著作集22』教文館)などを少し勉強して、古代キリスト教と平和主義について話した。右の『殉教者列伝』には、三一三年コンスタンティヌス大帝によるキリスト教公認以前の時代に兵役を拒否して殉教したマリヌス、マクシミリアヌス、マルケッルス、ユリウスなど、果敢な殉教者の物語が活き活きと描写されている。

 その際これらの人々の殉教の理由が兵役(つまり戦争、人殺し)を拒否する平和主義であったか、ローマの軍人として強制される皇帝礼拝を拒否したための殉教であったかは、その両方があったらしく、個々の場合について、いろいろ検証されている。しかし、いずれにせよ、三一三年のキリスト教公認以前の時代には、「古代教会は、おしなべて平和主義の立場を貫いている」(宮田、前掲書三六頁)ようである。

 ところがキリスト教が「ミラノの勅令」によって公認された翌年、三一四年八月、アルル教会会議の第三決議で「平時に武器を捨てる者たちに関しては、彼らが交わりから遠ざけられるべきことを定めた」という決定がなされた。この決定の解釈をめぐっても諸説があるが、どうやら「キリスト教徒の兵士は義務を果たすべきであり、脱走兵は教会から罰せられる」(木寺前掲書一四頁、傍点筆者)という意味の定めがなされたらしくある。これ以後、キリスト教はローマ帝国にとりこまれ、「体制内の宗教」と化し、戦争を肯定し、参加していくことになる。三一三年以前と以後のキリスト教の戦争や兵役に対する態度の質的変化は、結局キリスト教が国家とどういう関係にあるか、ということと深く結びついている。

  現今、この日本においてまたもや国家主義的な傾向が著しく擡頭してきていることに、私は非常な不安を覚える。キリスト者、キリスト教会は、国家とどのような距離関係を保つべきか、常に目をさましていなければならない。