関係のネットワーク(2008年6月号) 下村喜八

 数年前、誰の言葉か失念したが、「大切にすれば大切なものになる」という言葉をどこかで読み、以来、結構気に入っている。歳を重ねるにしたがって、ますますこの言葉が身にしみて本当だと思うようになってくる。たとえば、それが万年筆であっても、壷であっても、また植物や動物であっても、あるいは友人や家族や近隣の人々であっても、こちらが大切に取り扱ったり、大切にする気持ちで接すれば、必ずいつのまにか私たちにとって大切なものになっている。私たちを和ませ、力づけ、慰め、支えてくれるものになる。しかしこのことは、見返りを得ようと意識して物や人に接しているわけではなく、後で、それが結果として大切なものになっていることに気づくのであるから、決して功利主義ではないと私は思っている(大切にするということ以前に、大切にされているという側面も当然あるわけであるが)。そのような関係のネットワークに囲まれて私たちは生きている。その関係のネットワークを少しずつ広げ、固くしてゆくことで、生が多彩で豊かになる。ニーチェによって無価値と無意味と無倫理の淵に落とされた私たち人間は、そこにしか虚無への落下を防ぐものを見いだせないように思われる。

 私たちの内なる人間性を尺度とする世界観をヒューマニズムと規定すれば、上に述べた関係のネットワークの構築はヒューマニズムが志向する核心部分と言えるであろう。しかしそこには看過できない二つの問題があるように思われる。その一つは、関係のネットワークによって確かに心理的には虚無への落下を防げるかもしれないが、そのネットワーク自体は空中でふわふわと浮遊しているように思われる。もう一つの問題は、大切にできないもの、関係のネットワークから排除されるものが存在しているという事態である。その原因は、すべてが関係のなかで動いているとすれば、そのもの自体の中にもあるであろうが、私自身の内にも存在していると言わざるをえない。むしろ後者、すなわち私自身の内に関係を疎外するものが存在している事実の方が深刻である。それは――論は飛躍するが――大本の関係(神と人の関係)が破損しているところから来ていると考える以外に説明がつかないように思われる。たとえニーチェによって弱者の信仰、弱者のルサンチマンと言われようと、ひとたび罪を赦す犠牲の愛に出会った私たちは、虚無と罪の淵から十字架を仰ぐことしかできない。「罪人の私をお赦しください」と。そこからはじめて、今まで関係から排除されていたものをも含み込む形で物や人を大切にする心が生まれ、真の意味で関係のネットワ ークが構築されるように思われる。