イスカリオテのユダとわたしたち(2008年7月号) 大島純男

 弟子の一人であるイスカリオテのユダが、口を挟む。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」厳しい言葉である。ユダヤ人は、貧しい人々に施しをするよう教えられていたため、この言葉に反論できなかった。正論だったからである。ただし、この言葉を語る人間の心が問題となる。

 ヨハネによる福音書の記者は、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と説明を加えた。三百デナリオンのお金が入れば、これまでごまかしてきた金額の穴埋めができると考えて、そのような発言をしたのだと、少なくとも、この福音書を見る限り、そのような強いマイナス・イメージが浮き上がって来る。

 そして、この記事を読むわたしたちは、イスカリオテのユダは、非道な悪人であり、こういう悪人だからこそ、イエスを裏切ることができるのだという具合に、いつの間にか、ユダと自分たちの間に垣根を設け、その垣根のこちらの側に自分を置いて安心している、そういう気がしてならない。イスカリオテのユダは、果たしてわたしたちと全く別の人間なのか、そのあたりのことを今年の受難節の間、ずっと考えていた。

 イエスは、山上の説教で、「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(マタイによる福音書六章二節)とお語りになった。自分は偽善者ではないと言い切れない弱さがある。その弱さゆえに、イスカリオテのユダを向こうに置き、自分だけがこちらの安全地帯にいて、ユダのことは知らないと言えない。ヨハネ福音書の記者が、ユダを悪人として描くとき、そのユダに自分を重ねざるを得なくなる。ユダを盗人として切り捨て、裏切り者として切り捨てる。切り捨てる者たちと、切り捨てられる者たち。そのような構図が現代のキリスト教界の中で起きていないだろうかと、強く危惧する昨今である。