沢崎堅造・良子夫妻と共助会の三人の先達を想う (2013年 2号) 井川 善也
沢崎堅造を信仰と学問の先輩として深い尊敬をもって世に紹介した飯沼二郎は、しかし、世の統治と神の統治を二元的に捉える宗教改革者に疑問を呈した後にこう記す。「そのようなルーテルやカルヴァンを肯定しているように見える沢崎さんにも、私は、はっきり、疑問をもたざるをえません。」(『沢崎堅造の信仰と生涯』七五頁)。この自らの問いかけに対し飯沼は、「隣人を愛せよ」とのイエスの言葉に、支配階級のエゴイズムに抗し社会的弱者の側に立ち続ける生き様において応答した。
「伝道とは証しであると思っています。言葉をもって、行為をもってすることでも……ないと思います。いわば『じっとその中に住む』ということです。」この沢崎の言葉を深く受け止め「贖罪的求道者」として隣国との和解の働きに仕えた澤正彦は、当時の民主化運動での逮捕者への擁護を講壇から語り、韓国からの強制退去を余儀なくされた。「私はもっと長期にわたって韓国に留まりたかった、もう少し韓国で求道してみたかったのです。……しかし、私には、ただ留まることに意味があったより、あのキリストにより開かれた贖罪的求道をしたかったのです。そのキリストは、召された地に留まれと命じつつも、もう一つ後ろを顧みず、語れ行けと命じておられるような気がしました。私は自己正当化するようで、大変心苦しいのですが、その後者の「語れ」「行け」「証しせよ」の声をより強く聞いて、今日に至ったと思っています。」(『沈黙の静けさの中で』一二〇頁)
青年期、暗い淵からキリストの言葉に生かされた小笠原亮一は、「キリストはいつも寂しき人の友である。寂しい処へ行き給う。……あなたは今日も亦、愈々寂しき処へと」との沢崎の言葉と出会い、自らも寂しき処へ歩まれるイエスの後を追う。後年、北白川教会牧師となった小笠原は、アルバイト先でのいじめで店をやめ、支払われるべき給料をもらえない中国人留学生に心を痛め援助する沢崎良子(熱河宣教で夫堅造と二人の子を天に召された)に「心を鬼にして」次のように語ったという。「北白川教会は戦時中、戦争で苦しむ中国への人々に福音を伝えるべく伝道者を送り出した。しかし中国の人々が一番願っていた、日本が戦争をやめることについては一言も言わなかった。……いじめられ、給料をもらえなかった留学生のお世話をすることはよいことである。しかし、もう一つ欠けていることがありはしないか。お店に行って、日本人青年にいじめを止めさせ、働いた分の給料をきちんともらってあげる。そのことが抜け落ちていないか。」 八〇歳を越えた沢崎夫人は留学生に「一緒にお店に行きましょう」と申し出られた。この言葉をきいた留学生と友人達は驚き、喜んだという(『北白川教会七十年史』三一頁)。 沢崎夫妻と共に今は天に在る三人の共助会の先達は、沢崎を熱河に召した主の招きに「沢崎の生涯」を通して深く触れ、またそれ故に、時代の風雨の音に遮られ沢崎が聞きとること叶わなかったかもしれぬ声をも聞き取り、その声に真実に応答して歩まれたのではないか、と私は思う。また沢崎良子さんのように「砕かれた心」を神と人の前に持ちたいと願う。