希望を分かち合う者へと(2013年 3 号) 飯島信

 日本基督教団が行っている東日本大震災の人道支援活動の一つに、「お茶っこ」と呼ばれるものがある。仮設住宅の集会室に珈琲や紅茶、日本茶などを用意し、仮 設の人々に懇談の場を提供することを目的としたものである。しかし、道具を用意したからと言って、仮設の人々がすぐに参加してくるわけではない。昨年二月に始まった当初は、開店休業の状態が何日も続いた。ようやく一人、またひとりと、スタッフとの信頼関係が生まれる中で参加者が現れ、現在は釜石市内の七カ所の仮設で「お茶っこ」が行われている。そして、この「お茶っこ」に参加した仮設の方の数は、暮れまでに延べ二、〇〇〇名を超えた。

  担当スタッフのSさんから聞いた話がある。「お茶っこ」は、午前十時から午後三時まで行われるが、ある仮設で、「お茶っこ」が終わる三十分前になって決まって顔を出す年老いた女性がいた。その女性は、来ても皆と話をするのでもなく、ただ黙って 座っているだけだった。半年が過ぎた頃、初めて口を開き、あの津波で娘さんを亡くされたことを語り始めた。半年たって、やっと自分の中の一番辛かった思いを語り始めたのである。この話を聞き、私は、被災者に寄り添うとは何かを教えられたように思った。ただ黙って心の扉を被災者に向けて開き、時間を分かち合うこと。それが寄り添うことなのかも知れないと。

  レントを迎えている。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との十字架上でのイエス様の言葉は、ゲツセマネの園での「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」との祈りと一つになっている。「御心のままに」と全てを神様に明け渡 してこそ為し得る祈りである。

  神様は私たちの罪をイエス様に負わせ、十字架の苦しみを引き受けさせて肉体の死に追いやった。しかし、その死の淵より引き上げ、復活、即ち究極の勝利である永遠の命を与えられた。ここに、希望がある。

  三・一一より二年を迎えた。被災地に生きる人々を忘れることなく、寄り添う日々の歩みを神様は私たちに求めておられる。遣わされた馳せ場において、それぞれの出来る方法で、被災地に生きる人々に寄り添い続けていきたいと思う。そして、真実の希望を分かち合う者へとなりたいと思う。