最新情報第8回韓日基督教共助会修練会特集

感想(日本側)

濱田史子「韓日修練会に参加して」

私の母は平壌で生まれました。日本が朝鮮半島を植民地支配していた1928年のことです。母の父は軍人でした。そして母方の曽祖父は逓信省勤務で、明治38年(1905年)朝鮮通信機関が逓信省管理となるに際し朝鮮に渡り、各地で勤務ののち大邱(テグ)郵便局長になったそうです。

母は幼少期に帰国したため、朝鮮半島での記憶は全くありませんが祖父、特に曽祖父は長く支配する側として朝鮮で暮らしていたのです。私は日本の植民地支配のことを知ってはいましたが、今回初めて韓国の地を踏み、ここで私の祖父や曽祖父たちが支配する側の人間として生きていたことを感じていました。朝鮮の言葉を使ってはいけない、創氏改名、従わないと罰を与えるなど、ここで暮らす人々に多大な苦しみを与えた場にいた、与える側にいた、これが私のルーツなのだ、ということが響いてきました。お会いした韓南大学の先生方の温かいもてなしに感謝しつつ、先生方のおじいさま、おばあさまたちに私の祖父母たちが与えたであろう苦しみを想像し、植民地時代の出来事が自分に深く関わっている感覚をおぼえました。韓国の街にいるとたくさん目に飛び込んでくるハングル文字。これを禁止されることがどういうことか、行動を制限、あるいは強制されることがどれほど痛みを伴うことか、自分がその立場だったらどんなに辛いことか。植民地時代を生きた人々も多くが他界しました。が、私たちはその歴史の上で今を生きています。植民地政策、敗戦を経て今の日本があります。その日本に生きている私、過去と無関係ではいられない、今を生きるものとしての責任があります。知ること、耳を澄ますこと、語り合うことが大切です。和解―。一朝一夕には難しいです。出会い、交わり、深めていく、これができるのも人間です。この営みが和解へとつながり、平和への道なのだろうと思います。

私の実家では朝鮮植民地時代の民衆の暮らしが話題にのぼったことはなく、軍人だったおじいちゃんは優秀だった、ひいおじいちゃんも郵便局長というエラい地位についた人だった、という話になっていました。母が生まれた平壌も「あそこは日本だったのよ」と聞かされていました。祖父たちが、朝鮮半島にいた人たちの生活に思いをはせ、私たちに語ることは全くありませんでした。私が植民地時代の人々の暮らしを知るようになったのは大人になってからです。本を読んだり、ドキュメンタリーを観たりして知りました。明治生まれの祖父は父親が早くに亡くなって祖父に育てられたそうです。おそらく江戸時代の生まれの人です。敵対する相手は刀で斬る、鉄砲で撃つ時代です。その精神がしみ込んでいるのかと思いますが、祖父は「日本は戦いくさに負けたけど、自分の部隊は負けたことがない」と、敵に囲まれたときどう対処したかを誇らしげに語っていました。時代の価値観は武力で相手を倒すのが正しい、が主流だったのでしょうが、戦後、朝鮮半島、中国の人たちへの思いはどうだったのだろうかと思います。少なくとも私の実家では祖父母の、彼らが生きてきた時代への思い、日本の植民地支配や戦地となった場所での人々への思いは継承されていません。

ある時代にある国(ないし民族)のために武力行使やむなしと権力者が判断すれば、戦争が始まってしまいます。一人ひとりが大切、自分も他者も。自分と他者の絆を深める努力をする、韓国と日本も個人がその努力をすること、その場を持つことが大切だと思います。これまで共助会の修練会を継続してこられたことに敬意を表するとともにそのベースにキリスト教の愛があることを胸に刻んでいます。    

(第二勝田保育園、誌友)

韓日修練会に参加して  角田芳子

この度、修練会に参加でき、言葉では表現できない「心のぬくもり」のようなものを感じつつ過ごすことが出来ました。韓国の街並み、施設、交通機関など約35年前訪韓した時とは様変わりで近代的になっていました。町には高層ビルが立ち並び、すべての事柄はキャッシュレスで、学生たちも上手に使いこなしていました。前回も、ミッションスクールとの交流ということで温かくしていただきましたが、すべての事柄に緊張感がみなぎっていたように記憶しています。今回、接する人々が明るく、どこかユーモラスで自信に満ちているように思いました。

韓日基督教共助会という旗印のもと韓南大学を中心に行われました。飯島委員長の「韓日修練会の意義―和解の使命を帯びて」の発題があり、それに対して韓南大学建築工学専攻教授の応答がありました。日本風に横断幕をご準備くださり、プログラムを美しい表紙のレジュメにまとめてくださって、本当に助かりました。最初は緊張していた気持ちも徐々にほぐれ、温かい言葉がけや交わりの中で、すっかりくつろいでいる自分がいました。昨年、この大学で裵貞烈(ペチョンヨル)先生の共助会入会が、今回の韓国訪問に繋がっていることを考えました。素晴らしい企画の韓日修練会が出来ましたこと感謝しています。この時の様子は、新聞社の取材も入り3月20日の新聞にも掲載されました。一

日目、総長先生までお出ましくださり、学校紹介と理念を語ってくださいました。そして、私たちの質問にも答えてくださるというので、ミッションスクール大学の韓南大学ではどのようにクリスチャン教授を得ていますか? と質問しました。すると当校の教授は全員がクリスチャン、クリスチャンでないと雇わない、この大学はミッションスクールですとはっきりご回答いただきました。クリスチャン教師を得ようと苦労している日本のキリスト教主義学校との違いをまざまざと感じました。それほど人々の思考の中にも、国の政治の中心にも、キリスト教の影響は大きく深く根づいているのです。

美味しいお料理の数々、朝鮮総督府跡の建物の見学・グループで日本語学科の学生たちの案内で市場でのショッピングも用意してくださいました。日本語を駆使して色々案内してくださる若者たちの一生懸命さに頭が下がりました。私も、これをチャンスにハングルを学び始めなくてはと刺激を受け、ラジオのハングル講座を少しずつ聞き始めました。閉会礼拝前には、尾崎真理子さんの共助会入会式もあり感謝なことでした。今回も若者が多く参加され、共助会の働きの素晴らしさを思います。というより共助会を導いてこられた命を懸けた和田正先生・堀信一先生ほか多くの日韓の和解を願い、実際に出て行かれた先輩

たち。この志しが、私たちをも包み込んでいると言ったらよいかもしれません。先輩たちがしてくださった事を神様が忘れず、報いてくださっているように感じてなりません。先人たちによって蒔かれた種が、ますます成長し、両国の架け橋となっていくよう願っています。    

(浦和バプテスト教会員・華道家)

阪田祥章「かけがえのない、4日間」

今回初めて『韓日基督教共助会修練会』に参加しました。まとまらないため点景描写の感想となりますことをまずお詫びします。

修練会を終えて帰国する日のソウルの、雲ひとつない晴れ渡った空が、とても印象に残っています。梅の香りや開き始めたツツジの花、多くの観光客……賑やかでのどかな春の喜びを感じました。

ソウルより南にバスで2時間ほど下った、会場となったテジョンのハンナム大学は、まだ寒々としていて、冬の淋しさを残していました。大きなつぼみを重々しくつけたモクレンがひときわ目につきました。

ソウルからテジョンへ向かうバスの車窓から見た景色は、確かに私にとって異国でした。目に映る街並みに、田舎の風景に、日本とはどこか似ているようで何か違う、その何気ない景色に、私は早くも、日本への懐かしさを感じていました。しかし、この、普段は意識にさえのぼることのない当たり前の〝ふるさと〟が、かつての韓国の人々からは奪われたのだ ―日本によって―と思った時、わたしは、ハッと思いました。懐かしいと思えるふるさとそのものが、もう無い……。

今回の滞在中、独立記念館、景福宮、安重根記念館、西大門刑務所を訪れる機会に恵まれました。かつて日本が為した行為―身体的な苦痛は言うに及ばず、私たちの最も神聖なる領域に、土足で踏み入り、魂に消え去ることのない深い傷を負わせた数々の蛮行を思うとき、それを為したかつての日本統治者や官憲、その他大勢の者たちに思いを致すとき、その一員で、お前はない、と誰が言えるのか、と問いただされる自分がいます。

それらは過去の人間の所業であって、この私とは無関係である、と一体だれが言えましょう。私が人間である限り、この蛮行はまた、私の為したことでもあるはずです……。「実際私は追求してみたい忿怒の矢を多く持っていたが、石はむしろ私自身の胸に投げつけられる形になった」という尹ユン 鍾ジョン 倬タク牧師の言葉が、それとはまったく違った意味において、私の胸に刺さっています。

ハンナム大学で受けた、あたたかい、垣根のない、隅々まで心の配られた歓迎には御礼の言葉もありません。特に早朝から深夜まで献身的に私たちを支えてくださった裵貞烈(ペチョンヨル)先生には心から敬服します。それと同時に先生の人々を笑顔にするユーモラスなお人柄に魅せられました。また、応答してくださった郭魯悦(カクロヨル)先生、発題・通訳をしてくださった高鉄雄(ゴウチョルウン)先生も終始私たちに寄り添い「主にある友情」とは何たるかを身をもって示してくださったように思います。テジョン市内を見学する際には、日本語が話せる3名の学生たちが案内してくれましたが、私たち一人ひとりの要望を丁寧に聞き、歩きながら絶えず言葉をかけてくれた姿には感銘を受けました。私自身を思い返しても、日本の学生ではこうはいかないでしょう……。さらに、夕食の際は日文科の先生方も駆けつけてくださいましたが、皆さんの流暢な日本語はもちろん、その快活さと豪快さには、韓国の人々の底知れぬ明るさ(粘り強さ)と優しさを見たような気がします。

ソウルのホテルでの朝食の際、裵先生と同席になりました。「今の若い人たちは自分の名前の漢字すら分からない」という話題から、しかしハングルの持つ意義について話が及びました。

「たしかに今、経済的な貧富の差が問題になっています。しかし、知識にも差があるのではないですか。むかしは知識も権力者の独占でした。しかしルターがドイツ語に聖書を翻訳しました。直接的ではないにしろ、そのおかげで、今では私たちも直接神様に祈ることができるのです。これはとても素晴らしいことではないですか。ハングルもまた、知識を一部の者たちのものから、私たちのものへと解放しました」。ハンナム大学正門のキャンパスマップに添えられた「真理は汝らを自由にする」という聖句が思い起こされます。「私たちが、自らに自明な伝統、歴史に無自覚に生きて過ごす時、多くのことが隠されて見えなくなってしまいます」という片柳先生の応答を思い越します。知らないことの罪、そして知らないことすら知らないことの罪……。

ソウルの地で、裵先生のご子息であり、かつて東京で顔を合わしていた裵太郎(ペテラン)さんに再会できたことは心温まる喜びでありました。

ハンナム大学でのあたたかい交わりにより、緊張が融解すると同時に、ソウルの晴れ渡った空には心から喜ぶことが出来ない私がいます。あたたかい交わりに甘えて、あぐらをかいては本末転倒であります。かつての日本の蛮行を見て、傷の舐め合いをするようなことは侮辱であります。歴史に浸り、生きる……かつて王宮の正面を塞ぐ形で建設された朝鮮総督府……朝鮮の人々を圧していた巨大な石の塊は、無造作に、バラバラに打ち捨てられ、屋根の上にあってソウル市街を睥睨していた尖塔は、地中5mに掘られた深みに沈められ、人々から見くだされる存在となり果てました。この厳然たる事実の前に、果たして日韓の〝真の和解〟はできるのか、こう問い質される私がいます。

ただならぬ時代(とき)の流れのなかにして汝(な)がたましいを溺れざらしめ(南原 繁)今回の豊かな実りと与えられた友情に感謝し、ともに祈ります。

(YMCAスタッフ 誌友)

上田英二「韓国の旅で感じたこと」

飯島先生からこの修練会参加の呼びかけがあった時に思ったのは、自分に参加する資格があるのか? ということでした。参加する前から、この旅には素晴らしい学びと体験、素晴らしい人々との出会いと深い交わりが与えられる確信があったし、歴史に向き合い罪の自覚を深めたい気持ちも強くありましたが、

それにしても、与えられるだけでよいのか、と。しかし不思議にも、こうした思いは韓国に着いて様々な出会いを続けるうちに徐々に溶解してゆきました。

旅の間、眠れない夜が続きました。毎日、たくさんのものを受け取り、心が揺さぶられ、無意識の中でそれらを反芻し、その意味を考えていたのだと思います。その意味はいまもまだ決して明らかではありませんが、感じるままに言葉にしてみたいと思います。

修練会では「和解」についての学びがありました。

「和解とは神様から出ることであって、神様が和解の主体である」、というコリント書の言葉が与えられました。そして、私達(韓日)の人格的な「出会いと交わり」が重ねられた時に、私達の思いを超えたところで、私達の知らないうちに、神様が和解を与えてくれるのだ、という教えとして受け取ることができました。いつそれが与えられるのか、どうなったら与えられるのか、それはわかりませんが、それは希望として確かにあるのだということを、韓国の皆様すべてがそのやさしさと友情で教えてくれました。そして共助会の歩みがその中にあることを知ってうれしく思いました。晴れ渡った朝、韓南大学の礼拝に参加した時、学生たちの讃美歌合唱、笑顔の説教がその思いを祝福してくれているように感じました。

ではこの「出会いと交わり」とはどんなことをいうのでしょうか? そのことについては、贖罪的宣教や様々な奉仕に働かれた偉大な先人たちの歩みの中に豊かにそれがあります。そのことを覚える時、感謝の念がわきあがります。そして私には、この共助会の旅そのものも、すべてがそれであったのではないかと感じられました。今を生きる人達との人格的な出会いと交わりの場はもちろんのこと、死者たちと出会って、その苦悩を感じ、つらい思いに襲われながら、死者たちと共にいる、そういった時空の中にも「出会いと交わり」の場があるように感じました。その場には、共に苦しむイエス様の姿もありました。こうした試練の場で、死者たちによって変えられてゆく自分を感じました。

こうしたすべての「出会いと交わり」によって、私達の思いが強まり、不条理に立ち向かう迫力となって表れ、神様の前で義とされる姿に近づいてゆく、それが具体的な行動にもつながってゆく、それは韓日のことだけにはとどまらない様々な不条理への態度となる、和解のプロセスとはそういうことなのかもしれないと思いました。

この旅では、神様から様々な場にひきずり出され、罪に直面させられ、向き合うことを命じられました。歴史の場所を訪れ「出会いと交わり」を与えられた時のことを記します。常にべ・チョンヨル先生の深い案内を受けることができました。天安市の独立記念館では植民地支配と3・1運動で抗う人々の姿を見ました。その展示の前で記念館の女性の説明する情熱に圧倒されました。解放に向けた運動の歴史が韓国の人たちにいかに大切なのか知ってもらいたいという気持ちにあふれていました。

ソウルの景福宮では歴史ある儒教文化の李氏朝鮮を日本統治による朝鮮総督府建設によって、その文化を踏みにじることで朝鮮そのものを踏みにじる日本の姿を見ました。西大門刑務所歴史館では植民地支配からの解放と民主化への解放を求めて命がけで抵抗する魂を見ました。命をかけて守るべきものがあることを見ました。安重根(アンジュングン)義士記念館ではキリストの教えに殉じるとはどういうことなのか、そして彼を義士として敬愛する韓国の人々の魂に触れることができました。植民地歴史博物館では今現在の不条理に立ち向かい闘っている人の迫力に圧倒されました。同じ状況が来た時に、私たちはどういう覚悟をもって抗うことができるのか、苦難の歩みを闘ってきた韓国から学ぶべきことが沢山あることに気づきました。

終わってみると、呼びかけから始まって、すべてが神様に導かれていた旅であることを感じます。眠れぬ夜を過ごしましたが、最後には何故か晴れやかな気持ちになりました。これらすべてが和解のプロセスの中にあるためではないでしょうか。こうした和解への学びはこの地、韓国―私達日本人が作り出した最大の不条理、最も重大な罪を犯したこの国―の中でこそ与えられる。罪に向き合うことはつらいことだけれど、その中に和解のプロセスがあり、そしてそれは神様の恵みとして私たちに与えられてある、と思いました。神様に感謝するとともに、こうした気持ちを与えてくれた韓国の皆様に感謝いたします。そしてこうした場を与えてくれた、共助会の皆様とこれからも共に居て、その思いを深めてゆきたいと思うようになりました。

(日本基督教団 流山教会員)

中西 博「韓国での期待」

私が海外旅行を最初にしたのは、1974年8月に韓国旅行でした。ヨイドでEXPOが開かれ、世界からクリスチャンが集まった。三菱自動車のタクシーが走っていました。ところが、8月15日に朴大統領夫人が暗殺されました。在日朝鮮人の文世光が撃ったのですが、私達と同じ飛行機に乗っていたため、新聞記者から日本人が殺したと言われ、意見を聞かれた。当時、当惑しました。板門店に行くバスから、多くの白いチマチョゴリを着た女性達が広場で、一斉に真ん中に歩く姿は、印象的でした。その前に、南山タワーに夜登った時、23時になると私達以外皆が急にタクシーを捕まえて居なくなりました。これが、初めて戒厳令を実体験したことでした。また、別の日に、パゴダ公園に行った時に、目のクリクリとした髭のはえたお爺さんに会いました。その方が銅板のレリーフに米国のウィルソン大統領の言う国際連盟に民族自立を掲げたのに呼応した非暴力による3・1独立運動を描くことを提案したと話されていました。

2001年9月11日に米国で、同時多発テロが起こった時に会社の慰安旅行で、ホノルル国際空港に着陸しました。

妻は、米国に航空機が着陸出来ずに、きっとカナダに行ったのだろうと推定したと話していたそうです。翌日の新聞には、第二のパールハーバーと出ていました。日本に帰る日は1日おくれ、朝6時頃からホテルを出発して空港で待ち続けること4時間以上、中部空港では無く、広島空港でした。そこから蒲郡までバス移動でした。

2011年3月11日15時前に、愛知県蒲郡市の社宅から引越しする日で一段落して、ベッドに寝ていた時に地震を体感しました。後で知ったのですが、東日本大震災でした。

今回は、何かが起きる。ムーブメントと最初は言いましたが、リストラクチャリング(日韓共助会の再構築)が起こることを期待します。

(日本基督教団 北白川教会員)

角田秀明「第8回韓日基督教共助会修練会に参加して」

今回、3月18日~20日に行われた韓日共助会修練会に初めて参加することができ、深く感謝しています。当日18日は羽田空港の出国と韓国ソウルの金浦空港のいずれもが長蛇の人々の出入国の審査手続きを待っていたため大幅に時間がかかり、予定していた修練会の開始時間の15時から2時間遅れての17時開始となりました。どうやらドジャースの大谷選手の韓国でのオープン戦出場が影響していたようです。

そのような状況ではありましたが、第二日目の時間を調整して全ての予定したプログラムを行うことができました。私は韓国語を全く知りませんので、心配もありましたが、修練会に参加された韓国のクリスチャンの方々の中に日本語の達者な通訳がいてくださり、大変助かりました。自己紹介と交わりの時間(日本側と韓国側の2回)でお互いに知り合うことができました。

また、二日目の19日には、午後の自由時間に学生さんの案内もいただき、大田市内(教育博物館、中央市場、旧都庁)を見学する時間もいただきました。プログラム全体を通して、韓国の方々が私たちを暖かく迎えてくださっていることを肌で感じました。

修練会の会場は韓南大学でしたが、そのキャンパスの広大さに驚かされました。広々とした大きな公園の中にいくつもの校舎が建っているという感じで、あまりの広さで大学全体のイメージが掴めないほどでした。

修練会の始めに、今回の発題と応答の内容が日本語とハングルにそれぞれ翻訳されている製本された冊子が全員に渡されました。内容を見て驚きました。発題者や応答者から事前に頂いた原稿をそれぞれ言葉に翻訳した形の冊子でした。このためにどれだけの時間と労力をかけてくださったかと思うと感謝に堪えません。

最初の日本側からの発題を飯島 信氏、その応答を郭魯悦氏、二日目には韓国側から高鉄雄(ゴウチョルウン)氏が発題し、その応答を片柳榮一氏がしてくださいました。それぞれの発題から応答の内容がしっかりつながりがあり多くの気づきをいただきました。感謝しています。

今回の韓日共助会修練会に参加して改めて韓日共助会の歴史を認識し、この貴重な営みに祈りと信仰とエネルギーを注いで育てて来てくださった両国の先達に感謝しました。韓日共助会修練会の目指すところは「和解」だと飯島委員長は発題の中で言及していました。

韓日の正しい歴史を直視し、その上で和解への道を求めていくことが韓日共助会の存在意義だと思わされました。その和解は、人格と人格の出会いを根底に据えてなされるものであり、何よりも交わりの積み重ねが求められていると思います。今回の修練会もその一歩を刻んだことと思います。

二日目に発題された韓国の高鉄雄(ゴウチョルウン)氏の言葉が特に心に残っています。コリント信徒への手紙2の5章を引用し、「和解のための主体が飽くまでも主であり、決して人間ではないという点を強調します。人間はイエス・キリストを通じた神様の和解を受け入れるだけです。」この言葉からさらに進めて、和田正牧師の経験に触れられました。「和田牧師が韓国を訪問され、韓国人に対して心から謝罪した時、幼い頃に父親を暴行した日本軍に対して憎悪心を持っていたある韓国人牧師がむしろ日本人を憎んでいた自らの罪を許してくれと和田牧師に謝罪したという経験を話してくれました。」

今回の修練会は、正しく、「出会い、学び、語り合い、祈り合うことを通して、お互いの理解を深め、ひいては、韓日両国のみならず、東アジア全体に自由と平和をもたらす大切な働きの一翼を担う群れとなりたい」との委員長の願いが具現化したものと言えます。

最終日の20日の閉会礼拝の時に石川光顕氏が二冊の本を紹介してくださいました。その一冊「日韓交流の歴史」を帰国して早速購入しました。次回の韓日共助会の修練会までにジックリ読んで備えたいと思います。正しい歴史認識の上にこそお互いの真の友情が生まれると思うからです。

(浦和バプテスト教会員、聖学院高校講師)

安積力也「『無い物ねだり』の旅」

この歳にして初めての訪韓。受けた衝撃は甚大だったのに、ほとんどが心底の空洞に吸い込まれたまま、いまだに返ってこない。いくつかの断想を記すしかない。

(1) 大田での三日間の修練会。発題者と応答者の間で、厳しい内実をもった言葉―例えば「加害の側に立つ日本人である私たち」(飯島 信)「3・1節は……日本帝国主義の武断統治に対して……民族の正義と自由に向けた平和な独立運動を表出した日」(郭魯悦(カクロヨル))などーが、人格を賭けて語られていた。しかもそこには相互に、不思議な和らぎがあった。何ゆえなのか。

修練会初参加の私には、それを頭では理解できても、どうにも「心」が付いていけなかった。韓南大学の皆さん一人一人から放射される真摯さと厚情にしばし圧倒され、深い感銘と感謝を覚えつつも、私には、一点、ある種の「もどかしさ」が残った。

(2)修練会のあと、重い緊張をもって参加した三日間のオプションツアー。私の国が朝鮮半島で為した残虐極まる歴史事実の血痕がしみ込む現場。その中でも特に必見すべき場所と記念館を訪ねるツアーだ。裵貞烈(ペチョンヨル)さんの深い洞察と配慮に充ちたガイドに身を委ねながら、私は初めて、最も恐れていた歴史現場の幾つかと「対峙」することができた。そこに立って、私はいったい何を感じ、何を思うのか。それを逃がさず、ごまかさずに捕らえて、心に刻もうと思った。

だが、もう帰国して一か月も経つのに、その時感じたことを的確に表せる言葉に、いまだ出会え

ない。見たものの映像はリアルに思い出せる。なのに、その時心が感じていたであろうことは、まるでブラックホールに吸い込まれる星屑のように、内奥の闇に消えたまま、戻ってこないのだ。あれだけのものをこの目で見、この手で触ったのに、私の肉の心は硬く閉じてしまったのか、そして無感動・無感覚の仮面を自らに対して装ったのか。それほど私は、どこまで行っても、怖がりの小心者のまま、なのか……。

一つだけ、確かに心に刻まれているものがある。修練会二日目の午後に訪れた大田の朝鮮総督府跡。正面玄関から入って二階の応接室に通じる広い大理石の階段を見上げた時、一瞬、体に戦慄が走った。遠い過去、どこかで見たことのある風景……。

私の父は戦前、天皇制下の内務官僚だった。戦時中は栃木県知事の地位にあった。敗戦前の「産めよ増やせよ」の国策の下、私はその知事官舎で生まれた。私は、あの戦争の「落し子」なのだ。息をつめて各階の暗い内部を見た後、外に出た。やっと深々と深呼吸が出来た。その時、構内を囲む街路樹の一つに、な

ぜか目がとまった。体を持っていかれるように惹きつけられた。

「一本の裸の木」(写真)。すべてを無残にはぎ取られた灰褐色の幹と枝々。それを寒風吹き荒む天空に晒して、両の手を差し伸べるように峻立している。朝鮮半島固有の大地に深々と根を張って生きる一つの「いのち」の、何事かへの「不屈の意志」が、抗いがたく迫って来るようだった。

(3)ツアー最後の夜、皆でソウルの中央市場に繰り出し、小さな食堂で大鍋を囲んだ。しんどいガイド役を果たしてくださった裵貞烈(ペチョンヨル)さんが、談論風発、実に楽しそうだった。

向かいに座った私は、それを惚れ惚れと眺めながらも、心は、別の思いで膨れ上がっていた。貞烈(チョンヨル)さんの心の奥には「まだ語っていない“何か"」があるのではないか、それを私にぶつけていただけないか。そう思った私は、本当は何を聴きたいのかはっきりしないまま、唐突に、モゴモゴと訳の分からぬ「問い」をぶつけてしまった。その時突然、そばに座っていた飯島さんから「安積さん、それは無い物ねだりです!」とストップがかかった。間髪を入れず石川さんから「飯島さん、それは言い過ぎだ!」と声が上がったが、私は、背後から思わぬ足払いを食らったようなショックを覚えて、もう黙するしかなかった。そのあと、すべての事態を見届けた貞烈(チョンヨル)さんは、尋常でない眼差しで私を正視しながら、静かにこう言った。「また来てください。」それは、拒絶とも招きとも取れる背反した響きを伴って、私の肺腑を射抜いた。

何かが拒絶され、何かが拒絶を超えて、深く交差した。

何が起こったのか、本質は未だに霧の中だ。ただ一つ言えること。私の無知丸出しのぶしつけな質問に対して、貞烈(チョンヨル)さんは、

本気で「自分を偽らない応答」を返してくださった。それが私にとってどんなに「有難い痛さ」だったか。今も、しみじみと感じている。

(4)在日の朴大信(パクテシン)牧師の言葉が、改めて心に響く。「『我らの罪をも赦したまえ』との祈りに悔い改めを重ねながら、私たちは『我ら』と呼ぶべき自らの隣人を発見してゆくのです。」

(『共助』2023年第5号「主の祈り 第六回」)

(基督教独立学園高校 元校長)

光永 豊「大切な友へ」

主にある韓国の友に、改めて自己紹介をするつもりで書きます。私は1984年生まれ、祖父と祖母、片親だけがクリスチャンの家庭で育ちました。大学は電子工学科に属し、卒業後は東京にある二つの中学、高校で働きました。その後山奥の小さなキリスト教学校での働きを経て、現在は東京神学大学という、日本で唯一つの神学専門の単科大学である神学校の職員として勤めています。以前なら当たり前にするような自己紹介を、この韓日基督教共助会修練会ではできませんでした。私が託されている役割を背負い切れず、自分が背負っている全ての肩書きに、重荷を感じていたからです。

私は最後の全体懇談会で、和解はずっとし続けなければならないものであるような言い方をしました。心のどこかで自分に無理をして、分かったつもりで言葉を発してしまったかも知れません。恥ずかしながら学生時代は、目先の試験を通過するための、暗記科目としての歴史にしか触れていません。私は戦時中の日本人が韓国の人々に酷いことをしたのだと中学校で教わった世代の人間ですが、言葉はそこで止まったままでした。おそらく私のような日本人は、日本に多いと思います。その場しのぎの丸暗記、点数稼ぎに力を尽くし、本質的な学びに触れていない私にとって、この修練会は学生時代に学ばなかった歴史を知るきっかけとなりました。平和な日々を愛する気持ちはあっても、小さな島国の狭い領域で過ごしている私は、日常の中で自分の国や国境を意識する感覚がありません。無神経、無頓着な性格も助けになっているかも知れません。世界の中で自分がどこに立っているのかを認識できなければ、私が生まれながらに享受している平和や国籍によって生じる責任が、分かるはずもありません。決して当たり前ではないはずの平和を当たり前のように享受し、貪り尽くしていくだけです。

しかし、日本で生まれ育った私以上に日本を知り、労苦の中で学ばれた方の心に触れ、目の前に現れたの人に対する尊敬が、私の心を内側から突き動かしました。心の深さ、広さ、大きさに、圧倒されました。この交わりを大切にしたいから言葉を学びたい、歴史を学びたい、心を開きたい。素直にそう思えて、惹きつけられるような師や友に、出会ってしまいました信頼できるキリストにある友だから、私の抱える困難を伝えておこうと思います。私は言葉を読むこと、言葉を聞くことに、少しばかりの困難を抱えています。頭での言語処理に困難がある分、実際に体を動かし、触れるという経験が、私にはどうしても不可欠なのです。この韓日基督教共助会修練会で、私は確かに自分の体を韓国の地へ運び、触れました。現在の韓国には、日本を好きな若い人が意外といることも知りました。街の風景を見ても、確かにそう感じる側面がありましたし、世代差もあるのかも知れません。韓国の華やかな面や、目先の居心地の良さばかりを見てしまえば、歴史と和解の使命を忘れてしまいそうにもなります。しかし同時に、ソウルの街中で軍服を着た若い人々を見た時、今も朝鮮半島の分断によって負わざるを得ない痛みを見た思いもしました。日本のすぐ近くの、同じ現代を生きる人々が、国から課された義務を負っている。自分がここで生まれていたら、果たして耐え抜くことができただろうか。困難からすぐに目を背けてしまう自分に何ができるのか。私に与えられた今という中で、韓日の歴史の中での和解とキリストにある和解を、どう生きたら良いのか。「それから、弟子たちに言われた。『私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。』」(マタイ16章24節)

迷いと不安を問いとして心に抱きつつ、主の前に告白します。たとえ私が自らの意志で選んだのでなくとも、私は日本で生まれ、日本でここまで育った今を主から与えられました。真理は逃れようのない、主から託された道です。私は政治家でも、活動家でもなく、キリストに生かされているひとりの人間です。私が生まれ、私が育った背景の中で、なおも和解の道を生きるよう、確かに命じられました。和解の働きを担った共助会の先輩に、私は程遠い人間です。本当は、キリストの十字架を前に、負うことを恐れている自分がいます。ハードルが高すぎます。自らの力では到底負いきることができません。赦されるということを、私はまだ十分に受け取れていないかも知れません。しかし私は、かつての日本人が犯した罪を、他の誰のものでもない、私自身の罪として負うことを望みます。その一歩に辿り着けなければ、傷付け、傷付けられる他者の痛みを知ることができないからです。人生で1度も行ったことのない初めての海外でずっと緊張していた自分が、また韓国に帰りたいと思うのが不思議です。私には、友が必要です。どうかこれからも、和解の道を共に歩んでください。私にとって、大切な友だからです。

(日本ホーリネス教団 井土ヶ谷キリスト教会員/東京神学大学職員)

市川啓太「韓日修練会から与えられた問い」

共助会の集まりに参加するのは昨年のクリスマス礼拝以来2度目でした。共助会とのつながりが浅い私を韓日共助会修練会の輪に加えてくださり、韓国で時間を共にしてくださった皆様に感謝します。私は、母が韓国に留学していたこともあり、以前からその歴史や文化に触れる機会と関心を持っていました。韓日の近現代史を学ぶことを通じて、日本による植民地支配の歴史が現在の日本と地続きであることを認識していました。現に日本社会は多くの点でこの負の歴史、植民地支配の暴力と差別を温存しています。その一方で、私はこの事実を自分自身の問題とは切り離された、どこか遠いものとして扱っていたように思います。

このような中で、私が今回の共助会修練会に参加を決めた契機は、現在イスラエルによってガザで行なわれているジェノサイドにあります。私は11月にパレスチナに滞在することを計画していました。この計画が頓挫しただけでなく、訪れるはずだったパレスチナで引き起こされている筆舌に尽くしがたい惨状は、今後どのような世界を生きたいのか、どのように植民地主義と向き合っていくのかという問いを私自身に投げかけました。それ以来、今回の大量虐殺にとどまらず、75年以上続くイスラエルの植民地支配と暴力に対して自分なりに抗議し、パレスチナへの連帯を表明してきました。しかし、この問題と向き合う過程で、私自身に対する疑問が浮かびました。植民地支配という点で重なる日本とイスラエル。日本に国籍を持ち、生まれ育った私は、日本の蛮行を自らの課題として引き受けない限り、他国で進行する植民地主義に抗することはできないと思ったのです。もし、ここから目をそらすなら私の行動は欺瞞であり、ダブルスタンダードではないのかと感じました。そして迎えた修練会では、裵ベ 先生を始めとした韓南大学の方々が私の想像を超えるもてなしで迎えてくださり、きめ細かい対応と配慮で何一つ不自由のない生活を送ることができました。修練会プログラムの韓国側と日本側の発題と応答についても、事前に翻訳した冊子を用意してくださり、さらにはほとんどの先生が日本語で会話をしてくださったのです。多くの方々と楽しく交流でき、日本の植民地支配、そして韓日が現在抱えている課題と社会問題についても対話することができました。

さらには、韓国の人々から見た日本、韓国で記憶されている日本という視点を学び、日本の植民地支配が社会と人に残した大きな傷、その支配と未だ正されない不正義に声をあげている人々と出会いました。日本では全くと言っていいほど触れられない日本の加害の歴史が、無味乾燥とした知識としてではなく、生身の人間の経験として私に迫ってきたのです。私にとって韓日の歴史は他人ごとではなくなりました。しかしながら、あまりにも与えられたものが大きかったこの5日間を振り返ったとき、私はその恵みや愛をただ一方的に受け止めることしかできませんでした。今回の修練会の核心は韓日の和解でしたが、プログラムを通して私の姿勢は常に受け身でした。「和解」という言葉がどこか上滑りした空虚なものとして響き、自分の言葉として受け止められなかったのです。ひとつに、心の底から韓日の歴史を主の前で共に嘆き、主が示す和解の希望を直視することができなかった私の存在があります。知り、吸収することが精一杯で、深い所で自らを、韓国の方々を顧みる余裕がありませんでした。もう一つに、私はこの特権的な立場を利用して、韓国の方々の暖かい歓待と出会い、歴史の記憶をただ消費しただけではないのかという不安と恐れがあります。もしそうであるなら、私の行動それ自体が極めて植民地主義的なものです。修練会の副題にあった「歴史に生き真の和解の使命を帯びる」ということの答えを私は見出せず、植民地主義という世界の大きな病理に対して、何か次に進むための明確な行動とビジョンを持つことができませんでした。私は韓日の歴史をどのように引き受けて、日本人として生きることができるのでしょう。植民地支配から続く日本の歴史を生きているのか、そして真に和解したいと願えているのか。これは、帰国後も私の中で燻っている問いです。

私はどこかで今回の修練会を通じて日本の歴史に対して悔恨することでけじめをつけ、現在植民地主義から一歩引いたところで声をあげている自分を正当化したかっただけなのかもしれません。しかし、主は私の心の内を知っておられます。今回目の当たりにしたのは、私がいかに無知であるかということ、そして、私たちの立っている現在は、植民地主義の歴史そのものであるという事実です。私たちの世界がいかに歪であるか、この歪みをどのように直視し私の問題として引き受けていくことができるのか、私は自分自身に、そして祈りを通じて神様に私がどのように用いられるべきなのか問い続けなければならないと感じています。

(日本基督教団 高井戸教会員 誌友)

石田真一郎「意義深い四日間 — 第 8 回韓日修練会に参加して」

私は2024年3月18日(月)~20日(水)の修練会に初参加致しました。回数を重ねて来られた韓日の方々の多くの祈りとお働きを、心より感謝申し上げます。1992年の第一回の写真を見ますと、私が大変お世話になり、今は天国におられる方々の懐かしいお顔が見えます。尾崎風伍先生・マリ子先生、本間浅治郎先生です。本間さんは、私の東京神学大学の学生時代の(父親のような年齢の)同級生です。当時、韓日修練会で韓国に行かれたお話をしてくださり、「李仁夏(イインハ) 先生は、立派な方ですよ」と、感じ入って語ってくださいました。

今回の韓国側の方々の、大変真心のこもったおもてなしは、本当にありがたい限りでした。こんなにご親切にしていただいて、頭が下がるばかりです。コロナで中断していた韓日キリスト教共助会のイエス様を中心とする交流が、さらに深まるように祈ります。郭魯悦(カクロヨル)先生は、飯島信先生の日本側発題への応答で、中村敏著『愛でつなぐ:韓国のために架け橋になった日本人10人』(トビア、2021年)の次の文を引用されました。この10人は「日本人キリスト教徒として自分を犠牲にして、植民統治によって抑圧と搾取、蔑視と無視、差別と不平等、迫害に苦しむ韓国人のために命をかけて献身し、仕え、世話し、愛した」。「韓国人の暮らしに入り、彼らの隣人になることを望み、日本人の蛮行に心を痛め、償う気持ちで行動した」。

片柳榮一先生は、高鉄雄(ゴウチョルウン)先生の韓国側発題への「一つの応答の試み」で、「両民族の千五百年を越える長い交流の歴史を見ると、やはり韓民族は、日本民族に対して、兄の位置にあることを思わされます」と語られ、「両民族の畏敬に満ちた交わりにおいて、真の和解の道を切り開く」と述べられ、その道を既に切り開いてくださった多くの尊敬する先生方の後に続き、「細く険しい道ではありますが、主の憐れみに促されて、その道を希望をもって私たちも共に踏み行きたいと思います」と結ばれました。私は「アーメン、アーメン」の気持ちです。

修練会が終わった翌日の3月21日(木)、私はわがままをお許しいただき、独自行動でソウルから地下鉄とバスを乗り継いで南に向かい約2時間、華城市の提チェ 岩アム教会に行かせていただきました。飯島先生のご配慮と裵太郎さんが大変親切に道案内してくださったお陰で、スムーズに行くことができました。私の妻は、1993年頃に、当時教会員だった筑波学園教会の韓国ツアーで行きました。私はその時、行かなかったので、提岩教会訪問は長年の念願でした。実現できて、本当に感謝です。素朴な農村の印象です。非常に悲しい事件の現場です。

日本は1910年に韓国を併合し、植民地としました(1945年の敗戦まで)。1919年3月1日にソウルで「三・一独立運動」が始まり、たちまち朝鮮全土に広まり、キリスト教関係者も多く参加しました。日本の総督府は慌てて、鎮圧に動きます。同年4月15日に、提岩教会のメンバーに教会堂に集まるようにと、日本の官憲から要請がありました。提岩教会の人々も独立運動に関係したのです。

21名が集まると、日本の憲兵隊が教会堂を封鎖して火を放ち銃撃し、全員亡くなり、駆けつけた家族も含め、23名が犠牲になりました。数日後、カナダ人の宣教師スコフィールド氏が現場を訪れ、記事にして世界に報道したので、知れ渡りました。韓国では歴史の教科書に出ているそうです。

1960年代以降、日本のクリスチャンや牧師も多く現場を訪れて謝罪し、会堂再建の献金等も行いました。第1回韓日修練会に参加された方々も訪問され、当時は、事件のため23歳で夫を失った田チョン 同ドン 禮ネ 長老が健在で、お話を伺うことができたそうです。田チョン長老は事件後70年以上、毎日、事件の起こった午後2時に教会に来て祈り続けられました。私は現場で、亡くなった方々への謝罪の気持ちを込めて、神様に祈り、案内してくださった裵ベ太テ郎ランさんと共に、今後、韓国と日本が平和でよい関係を作ることができるように、祈りました。戦後の日本の教会は、この事件に深く心を痛めて来ましたが、最近は忘れられかけているのではないかと、私は心配です。

教会と記念館は改修工事中で、直接確認できませんでしたが、会堂に十字架上のイエス様の祈りが刻まれているそうです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)。イエス様が、ご自分を十字架につける人々をゆるす祈り、敵を愛する祈りです。これが提岩教会の方々の、事件後から今日までの祈りなのでしょう。胸を強く打たれます。

私は修練会の最後に、石川光顕さんがご紹介くださった『日韓歴史共通教材 調べ・考え・歩く 日韓交流の歴史』(明石書店、2019年)を買って読んでいます。両国の歴史学、歴史教育に携わる高校教員、大学教員の共同作業でできた本です。羽田からソウルまで空路2時間~2時間半! 

一番近い隣国への理解を深めたいと願います。

今回の韓日修練会を、神様に深く感謝致します。アーメン。  

(日本基督教団 東久留米教会牧師)

朴大信(パク テシン)「和解の主に駆り立てられて」

プログラム初日、私は予定の集合時間に韓南大学キャンパスに降り立ち、裵貞烈(ペチョンヨル)先生に温かく迎え入れられた。しかし日本からの他の参加者たちは、飛行機の遅延で未着。私たちはしばらく待つことになった。実は既にこの時点で、私はかなり疲れていた。理由は二つ。一つは、これより数日前に韓国入りし、家族で母国旅行を満喫していたからだ。幼い子どもたち3人を伴う旅程で、体力はほぼ尽きていた。もう一つは、本誌連載「聖書研究」(主の祈り)の最終回の執筆原稿を、結局海を渡っても持ち込むことになったためだ。家族が寝静まった後、宿の部屋の片隅でコツコツと仕上げ、やっとの思いで提出できた安堵感と脱力感に浸っていた。

そのようにして、息つく間もなく迎えた修練会初日。そこに、思いがけない「余白」が与えられたのである。そしてここに、既に今回の一つの真骨頂があったように思えた。日本からの到着組が予定より数時間遅れる中、当然スケジュールは変更を余儀なくされる。ホストとして、事前に周到為された学内外の様々

な連携や約束も、咄嗟の再調整が求められる。ところが、スタッフ陣は全く慌てない。焦りや苛立つ様子も皆無。むしろその事態をゆったり受けとめ、時折ジョークさえ交えつつ、眼差しは時間調整のことより、既に到着した私と、この後に来る日本からの一行の姿に向けられ、私たちを心から歓待するムードに満ち満ちていたのである。裵先生はじめ、郭魯悦(カクロヨル)先生、高鉄雄(ゴウチョルウン)先生、潘信煥(パンシンファン)校牧室長、学生スタッフらと交わしたユーモア溢れる対話は、頂いた紅茶の香りと共に忘れられない。この徹底したホスピタリティの奥深さに包み込まれる時、心が癒される。のみならず、人は自分の存在がそのように認められているとき喜びを感じ、だからこそまた、相手や他者に対しても信頼と敬意をもって心開いてゆくことができるのだと確信できた。

今回の主題は、「和解」である。キリスト者として、その和解を真実に生きるという処にまで実を結ぶことを願い、そのための出会いと人格的な交わりというものに期待が集中していたのは、私だけの所望ではないだろう。私たちは今、意識的にも潜在的にも、真の和解を必要としている。それができないでいる内は、何か悶々として、生きた心地がしない。福音に生かされるリアリティからも離れている。そう言ってよいのかもしれない。

和解は、その当事者間において、もちろんしないよりは、した方が良い。できないよりは、できた方が良い。しかし思うに、和解とは、そのような天秤にかけて、打算的、あるいは政治的に、あるいはまた戦略的な妥協や互恵的な利益を前提として、交換条件のように為されるものだけを指すのだろうか。その交換条件が成り立たなければ、和解は遠のいてしまうだけなのか。しかし、あの「余白」の時間に私が強烈に受け取った韓国側の圧倒的な歓待心は(そしてそれはプログラム全体に貫かれたことは言うまでもない)、何かの報いを前提としたものとは到底思えない。ただ一方的に注がれる恵みのようであった。ただただ相手の存在を喜び、尊び、受け入れ、尽くさずにはおられない、一種の理屈を超える原動力に突き動かされた奉仕の姿であったように思えてならない。

そう思うと、真の和解とは、何か最初から自明の問題があって、その解決のために「和解しなければならない」という要請として、既定路線から迫り来るものだけではないのではないか。むしろ和解の義務に先立って、和解の意志や衝動が働く。しかしそこから、実は何が本当の問題であり、何を自らの負うべき重荷や使命としてゆかなければならないか、そのことが両者の真実なる出会いと交わりの中で新しく発見され、感得される。しかも、そこで見えて来る他者の痛みや渇望が、必ずしも自分と無関係に起きているのではないとの自覚や自責にも支えられて、それ故に自らの存在を懸けずにはおられない。そうした他者のために献身する姿が形造られるところにこそ、真実なる和解のための端緒が開かれるのではないか。

この点で、応答発題で片柳氏が提示した次の一文は、大変示唆深い。「私たちは過去の、殊に自分が生まれてもいなかった時代の民族の罪に責任を覚え、謝罪しなければならないと言われた時、自分はその当事者でなかったのだから、と逃げ口上を言いたくなります」……「そしてそのような無理解な残酷さの源が、単に個人的なものでなく、個人がその中に生まれ育った共同体、民族の歴史の巨大な歩みの中にあることを……教えられました」。

韓日の間には今なお、摩擦と緊張関係が続く。そこに蠢く感情や記憶は複雑を極め、それらはまた歴史的・社会的に構築されてきた側面も併せ持つ。真の和解は、これらの限界を突破した永遠の彼方から、真の神にして真の人として来たり給うイエス・キリストの命懸けの愛(十字架による和解の業)に駆り立てられるものでなければ、その道筋と結実を失うであろう。

(日本基督教団 松本東教会牧師)

北中晶子「友なるイェス」

共助会そのものについて不勉強なまま、不思議に心惹かれ、参加を許されたことを深く感謝致します。学んでも学んでもまだ知らないことがあるような日本の残虐行為を知り、韓国への旅はいつも少し緊張します。けれども、韓ハンヤム南大学の先生方、特に裵貞烈(べ チョンヨル)先生の心を尽くした歓迎に、安心して「ここにいて良い」と言われているような気がしました。だからこそ、真摯な発題や応答を、心静まって聴くことができたと思います。ただありのままに感じ、考え、祈ってよい、そのことがどれほど有難かったか、言葉にできません。訪問した私たちを、韓国の先生方が日本語で迎えてくださったこと、また、日本で理不尽を強いられてきた在日の方々が、今回の旅の大切な架橋となってくださったことも、どこか象徴的なこととして感じられました。

少し時間がたった今、ふるいにかけられたように心に残って消えないのは、思いがけず、小さなお話の数々です。忘れられない師との出会いのゆえに、あるいはお世話になった誰かの素朴な優しさのゆえに……「その国」はあの人がいる(いた)国だと思う。個人的なお話が、石畳の石の一つひとつのように、平和を求める道のりを造るのだと思いました。しかしひるがえって、同じように小さな、個人的な記憶のゆえに、決して忘れることができない傷と悲しみがあることも、このように和やかな修練会の中でも改めて知らされました。「ここにいて良い」、それは、関わることを許されたということに違いないと思います。その関わりの中で分かち合う明るさも暗闇もあり、救いも、絶望も、あるからこそ、「ここにいて良い」ことは本当の意味で「有り・難い」こと、決して当たり前でないこととして体験できると思います。この旅で繰り返し聞いた「主にある友情」という言葉が、その最大限の重みと深みを伴って、私の胸に響きました。

順序が逆で情けない限りですが、帰国してから、改めて韓国共助会のこと、韓日修練会のことを少しずつ読みました。委員長はじめ、この旅の実現に奔走してくださった方々の、参加者全員の背中をそっと押してくださるような熱意の底にあるものに触れ、考えずにはいられません。残されて今ここにある傷や破れを通して、我が事として実感する、戦争への悔い。歴史を通じ何度も見て来た過ちではなく、まだ誰も見たことのない未来への「希望」、かすかな望み。キリストと共に、神の国へと一歩一歩近づきたい、切なる願い。

それらの土台となる、小さな、個人的な出会い。

抽象的な誰かではなく、現実の「あなた」と出会わなくては、語り合うこともなく、一歩踏み出すこともない。共に歩いてくださる主イエスの教えを「友情」として知り直す旅でもありました。韓国側、日本側、どちらとも関係なく、たくさん響いた笑い声の記憶と共に、これからも大切にしたいと思いました。

(ICU教会牧師 誌友)