応答 2 )発題2に対する一つの応答の試み 片柳榮一
高鉄雄先生が、自らの歩みを振り返りながら語られた日本での思い出をお聞きしながら、私も思い当たることがありました。
先生が触れられた崔昌華(チォエチャンホア)牧師の「NHK日本語読み訴訟」による日本の中での変化は、私も鮮明に覚えているものです。「最高裁まで争って最終的に訴訟は負けましたが、名前の呼称に人格権があることが認められました。この訴訟が日本社会に広く知られ、在日コリアンの名前を日本式ではなく韓国の発音通りに報道する方向にマスコミが変わった点で大きな意味がありました」と語られました。確かに私たちはそれまで、日本式の漢字の読み方で、韓民族の方々の名前をいわば無神経に呼びならわしていました。それが80年代から、マスコミの努力が大きかったのでしょうが、韓国の発音通りに読むように変わってきました。私もその変化の意味が最初分からず、なぜこれまでの日本式ではいかんのかと首を傾げた記憶があります。自分にとっての母国語で自らの姓名を語るということが、自らのアイデンティティーを形成、確立する上で、基本的な意味を持つことに無理解、無神経であったことを、今恥じらいつつ思い起こします。私たちが、自らに自明な伝統、歴史に無自覚に生きて過ごす時、多くのことが隠されて見えなくなってしまいます。そしてそうした伝統の典型的なものが言葉であり、言葉というものに、一つの民族の長い歴史の経験が色濃く、生々しく刻み込まれています。そしてその歴史の負の面の氷山の一角として、この呼称の問題もあることを思います。自らの傍らに、自らの隣人として生きる人々が自分の言葉を、自分が生まれ育った母国語で、或いは自らの由来する国の言葉で語り得ないことのもどかしさに対する無理解です。私自身、いわば上から目線の、横柄で無理解の蔽いがここに張り巡らされていることに、気づきませんでした。
そしてそのような無理解な残酷さの源が、単に個人的なものでなく、個人がその中に生まれ育った共同体、民族の歴史の巨大な歩みの中にあることを、私は一人の尊敬する韓国出身の先生から印象深く教えられました。その先生は、今この私の話を韓国語に通訳してくださっている李相勁(イサンキョン)先生が現在牧会しておられる教会を創設された李仁夏(イインハ) 先生です。李先生が1981年の基督教共助会京阪神信仰修養会で統一主題「隣人とは誰か」のもとで主題講演されたお話です。この事に関しては何度か共助会でもお話ししましたが、自分の記憶を辿りながらの話でした。ところで最近共助会では、戦前からの雑誌『共助』をインターネットで読むことができるようになりました。それで記憶を確かにするために、検索して、この講演を改めて読むことができました。この講演は雑誌『共助』の1982年、つまり翌年の2・3月合併号に掲載されています。
韓国プロテスタント教会は1884年を、宣教師が始めて韓国に到着し、宣教を開始した年として覚え、1984年(この講演の2年後)、宣教百周年を祝うことになっていたということです。しかし李先生は語ります。「ところが、そのきっかけとなる前史は日本で展開されました。1882年における津田 仙と李樹廷(イスジョン)の出会いによって始まりました。当時李王朝の宮廷歴史学者であった李樹廷(イスジョン)は、東京帝国大学の朝鮮語教授として派遣されていました。李樹廷は日本政府の農業関係の顧問をしていた津田 仙(津田塾大学の創設者津田梅子の父)と親交を結び、その家庭に招かれました。床の間にあった掛け軸の漢文の山上の垂訓に目をとめた李樹廷(イスジョン)はいたく感動し、それから求道の生活が始まり、翌年4月29日、おそらく復活祭であったと思いますが、東京露月教会で洗礼を受けました。……さて李樹廷(イスジョン)が受洗した年の5月11日、東京新栄教会では全国信徒大親睦会が開かれ、当時のキリスト教指導者、植村、内村、新島等が集まり、そこに彼も招かれ参加しました。席上奥野昌綱牧師の発議で、彼は朝鮮語で祈りました。『植村正久とその時代』の著者、佐波亘は、祈る言葉はわからなかったが、それは初代教会のペンテコステの光景を彷彿させたといっています。
……李 樹 廷は日本人キリスト者との出会いの中で、朝鮮の「マケドニア人」を見事に演じました。あの時代に両民族が出会った美しいエピソードは、福音が民族を越える普遍的真理であることを伝えると共に、その当時の両民族の歴史的状況を語っています。その時代は未だ、両民族が支配し、支配される関係になかったのです。当時の全国信徒親睦大会の記念写真を見ると、李樹廷(イスジョン)は民族衣装に威儀を正し、明治キリスト教指導者の錚々たる指導者に伍して並んでいます。そこには畏敬の雰囲気すら漂っています。対等の交わりとは、かくあるという真実を、このエピソードは伝えています。この美しい出会いの一齣は、日帝の朝鮮支配の歴史的コンテキストでは、悲劇的なものに変わります。……
1892年、島貫兵太夫(しまぬきへいだゆう)は朝鮮伝道視察をして、朝鮮人の劣性を説き、救いがたい民族であるとすら報告します。そして東洋の先導者である日本人が東洋伝道の天職を担っていると主張します。
1894年、日清戦争の勃発を契機として、日本の勝れたキリスト教指導者、植村正久は日清戦争を義戦として肯定し、朝鮮の改革が日本の天職であると説きます」(『共助』1982年2・3合併号6―7頁)。
私にとってこの講演は、衝撃的なものでした。明治帝国憲法発布以前の日本で、韓国のキリスト者を迎えての、すがすがしく、晴れやかな出会いと畏敬の雰囲気すら感じられる光景と、日本の朝鮮支配の野望の込められた日清戦争後の、醜悪と言うほかない日本人の変化した態度の対比には愕然とせざるをえませんでした。そしてそこにキリスト者も例外なく巻き込まれていったのです。私たちが歴史的事実として知っている日清戦争以来の出来事が、私たちの心の内に影を及ぼし、次第に韓民族に対する畏敬の念を奪い、侮蔑の意識へと変えてしまったことに慄然とさせられました。そしてその影は今も厳然として私たち日本人の心の内にも外にも及んでいます。内には無理解、無関心、果ては侮蔑へと内向しています。そして外には街頭でのヘイトスピーチやそれを公然、隠然と支える体制と人々の動きに現われています。私たちは過去の、殊に自分が生まれてもいなかった時代の民族の罪に責任を覚え、謝罪しなければならないと言われた時、自分はその当事者でなかったのだから、と逃げ口上を言いたくなります。私は李仁夏(イインハ) 先生のこのお話を聞いて、明治時代に始まった日本の韓民族侵略の影が現在の日本の、自分が生きているこの日本の中に、そして自らのうちに、色濃く及んでおり、決して過ぎ去った、自分に関係のない出来事ではないのだということを、鮮烈に示されました。
高鉄雄(ゴウチョルウン)先生が日本に来られて、日本の或る方から、突然深々と跪いて、日本人としての謝罪の言葉を語られたことをお聞きして、私は、驚嘆しました。私自身にはそのような率直さがなかったと、自分が恥ずかしくなりました。そのように率直な謝罪をしなければならないと改めて思います。そしてもう一つ先生のお話で、考えさせられたことがあります。韓国の憲法裁判所の判決で、謝罪を公的に強要することが、良心の自由を侵害するものだとされているとの指摘です。確かに謝罪の現れとしての賠償や様々な償いの行為が、裁判の判決として具体的に命じられるとしても、謝罪そのものを強要することを良心の自由の侵害としていることには、深く考えさせられます。心からの謝罪がなされるためには、心の内奥での自身の気づきと納得による罪の告白がなされ、謝罪が自発的に発せられるのでなければ、真実の謝罪にならないことを深く見据えての、韓国の裁判所の判決であったように、法律の素人ながら、私には思われます。
その意味で私はあらためて、同じアジアの隣人として生きる一人の日本人キリスト者として、この百年を越える歴史の中で、日本民族が韓民族に対してなしてきた罪、そして今なおその影を引きずって、無関心、侮蔑を捨てきれないでいる私たち日本人の負い切れない罪に対して、心から謝罪いたします。そしてその思いを形にしてゆきたいと願っています。
東アジアはこの200年ほど、個の尊厳と民主主義を育む基礎となる西欧的近代文明の摂取、形成のために苦闘してきました。その中で日本は、共に近代化をすすめるのでなく、自分だけ抜け駆けしようとして多くの苦痛を隣国に与えてきました。そして日本はなおその暗い歴史の影を引きずって、隣国から孤立したままでいます。そのような自縄自縛の中で、藻掻き苦しんでいるのが、日本の実情だと私は思っています。私たち日本にとって韓民族との真の和解は、私たち日本が孤立から抜け出すために、必須の道なのだと思います。
私たちのテーマである、日韓間の真の和解の一つの道しるべ(道標)は、李仁夏(イインハ) 先生が語られた、明治初期にはあった、両民族間の「畏敬」に基づく晴れやかで、対等な交わりを回復することにあると思います。そして神との和解を与えられたキリスト者には、特別に選ばれた課題が与えられていることを思わされます。先ほど第二コリント5章の和解の言葉を先生が引用されました。まさに私たちが必要としているものであることを思わしめられます。そのことを思います時に、あらためてその直前のパウロの言葉が心に浮かびます。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(コリント二5:14― 15)。キリストは私たちのために死なれたこと、その死の事実が私たちに迫り、促していることをパウロは語っています。そして単に私のために死んでくださったというのでなく、すべての人のために死んでくださったと語られています。ここに自分の、そして自らの民族だけの殻から抜け出しうる深い根拠があると思います。今世界は、自分たちだけの民族第一主義の恐るべき濁流に晒されています。かつて旧約の預言者エレミヤは、迫りくるバビロニアによるエルサレムの陥落の悲劇を経験しましたが、私たちは今、民族第一主義の新たな奔流に起因する争乱、核戦争にまで至りかねない地球全体の破壊の可能性をあらためてひしひしと感じさせられています。そのような狂気ともいえる動きの中で、なお私たちは、キリストの十字架に込められた、測り難い神の愛の熱情に望みをおいて生きるべく召されていることを思います。私たちの前には多くの困難があります。しかし私たちの和解のために何よりも主が死なれたことが厳然たる事実としてあることを改めて思わされます。私たちを取り囲む重い暗がりの壁に面しながら、なお私たちのためにすでに身を捧げられたキリストにおける神の愛に促され、押し出されて、韓民族、日本民族の間の和解の希望の務めを担いたいと切に願います。
先ほど私たち両民族の対等な交わりと言いましたが、私は、民族の千五百年を越える長い交流の歴史を見ると、やはり韓民族は、日本民族に対して、兄の位置にあることを思わされます。そのことは、日本の古代において、大陸文化を日本に根付かせるのに果たした渡来人の広範で貴重な役割に先ず見られます。
日本に住む人々は先進の文化と技術をもたらしてくれた朝鮮半島からの渡来の人々を畏敬の念をもって受け入れてきたのです。
確かにその時々の支配勢力のいわばナショナリズムから何度か中断はありました。その代表は豊臣秀吉による侵略でした。しかし基本的には、海の彼方の国を、文化の先進国として見なしてきたと思います。そして李仁夏(イインハ) 先生が語られた李樹廷(イスジョン)のエピソードは、明治の初めの日本人がなお抱いていた兄たる韓民族への敬愛の念が明瞭に示されたものだと改めて思わされます。
ただこの百五十年程の日本近代化の表面的な成功によって、日本民族は、傲慢な成り上がり者になっていただけです。基本的には、いまなお韓民族は私たちにとっては文化的成熟において兄の位置にあることを痛感させられます。それはかつての中国文明摂取の深さにおいても見られます。韓国の人々が今尚持つ礼儀正しさのうちにも、生活レベルでの儒教受容の深さが現われているように私には感じられます。もちろん儒教が我々の求める真の個の尊厳を阻害している弊害は日本と同様、韓国にもあるとは思いますが。また先ほど高鉄雄(ゴウチョルウン)先生は、韓国の憲法裁判所と、日本の最高裁判所との判決にみられる良心理解の相違を指摘されました。謝罪という、人間の心の奥底、つまり良心に従ってなされるべき行為は、国家の法制機構によっても強制されてはならないとの理解は、謝罪というものの本質を深く洞察したものです。しかもこのような理解を、最高法規の解釈を司る憲法裁判所が、自らに制限を課して判決をくだしている点には感銘を受けます。このようなところにもヨーロッパに由来する良心理解、ひいては宗教思想理解を韓国の人々が深く自らのものとしつつあることがうかがわれます。そして最近の、政治批判、社会変革に対するダイナミックな動きをなす韓国社会の姿は、様々な問題を抱えながらも、世界的な近代化の流れにおいても、もう日本の遥か先を行っているように思えてなりません。
世界全体が混乱の様相を示す中、人類全体が新たなグローバルな文明の形を模索しています。そのような中で、東アジアの長い歴史の文化形成において兄である韓国から、私たち日本は、多くのものを学んでいかねばならないと思っています。そうした中から生まれる新たな、両民族の畏敬に満ちた交わりにおいて、真の和解の道が切り開かれることを思います。そして神からの和解を知らされている私たちキリスト者には、その和解の道が独特に示されていることを覚えます。高先生が先ほど名前を挙げられた和田正、沢正彦、乘松正康、織田楢次、曾田嘉伊智、浅川巧、尾山令仁牧師等、多くの尊敬する先生方が、その道をすでに切り開いてくださっています。細く険しい道ではありますが、なお主の憐れみに促されて、その道を希望をもって私たちも共に踏み行きたいと思います。
(日本基督教団 北白川教会員)