戦後80年 本土空襲を体験したあの日 加賀見 妙子
第二次世界大戦の終結から、80年後の現代も「国益」を追い求め、自らの理論に縛られて引くことのできない戦火がやまない現代である。
かつて日本も選択を誤り「失敗」が予測されていたにもかかわらず、戦争につき進んだ。「総力戦研究所」という、首相直属の研究機関で、精密なシュミレーションをした結果、戦争は長期戦となり、日本の国力は、数年で尽き、結局ソ連参戦を迎えて敗れるというものだった。それは政策に反映することはなく、日本は12月米国との戦争に突入した。
私は5歳で就学前だった。自宅は横浜鶴見の台地にあり、閑静な住宅地で、近隣には音楽家 高木東六、藤原義江の邸宅もあった。市街地は軍用地として道路拡張工事がはじまり、家屋解体による住民の立ち退きが強制されていた。他所に引っ越す家族も増えていった。
1942年小学校が国民学校に名称変更した年に入学式を迎えた。校庭には奉安殿があり、御真影の前では、登下校時礼をして通過するようオリエンテーションを受けた。ラジオでは「杉の子」という戦意高揚の童謡が流れていた。
▽1941年(昭和16年)真珠湾攻撃で勝った勝ったと喜んだのもつかの間の話、次第に敗色が漂いはじめ、1942年6月ミッドウェイ海戦で主力空母を4隻失うという大敗北を来たし、ガダルカナル島の日本軍全滅の知らせと共に、横浜は急に重苦しくなっていった。
▽1944年(昭和19)8月3日 テニアン島、グアム島の日本軍が全滅した。10月20日、米軍の主力部隊がフィリピンのレイテ島に上陸する。これで、日本海軍の中部太平洋における制海空権は完全に米軍の手に渡った。
▽1945年3月10日B29爆撃機334機が各種爆弾・焼夷弾を、雨あられのように東京に投下した。現在の墨田区、江東区、台東区が烈風の中を火が帯状になって走った。人々は水のある隅田川に飛び込み熱浴の中で死んだ。僅か2時間半の爆撃で約10万人以上の死者が出て100万人程の罹災者が出た。
一週間程経て、父はその惨事を見て来て後「男女の区別も分からず黒こげの死体をスコップで片づけていた」と家族に何度も報告し、その衝撃を消せない程の光景を思い出し語った。生き残った人たちは家族の安否を確かめようと黒焦げた衣類で歩き回っていたという。その直後「こんな京浜工業地帯にいられない。疎開だ‼」と家族に言った。
母の実家のある神奈川県中郡小田原町に縁故疎開することになった。私の2年生の夏休みだった。母はその頃から体が弱り朝夕熱が出ると言い氷枕でクーリングしていた。肺結核に罹っていた。私の記憶では、横浜から東海道線で、何回か荷物を運ぶため兄弟三人をつれて小田原通いをした。窓から飛び乗り席を確保するのが私の役目だった。
小田原駅の先の早川駅までトンネルがあり、警戒警報が鳴ると列車はトンネル内で止まり、乗客の何人かは列車の車輪にある線路に身をひそめて、B29敵機の襲来を防いだ。車両めがけて何度も襲撃し、1時間以上経て列車に乗り込んだ。
私たち家族は根府川近くの山の傾斜にある(一夜城近く)実家の倉に住むことになった。繊維の卸問屋をしていた実家は市内にあり、蔵は早川にあった。1階は布地、2階は二間ある静かな山間の蔵であった。
小学校は、小田原城近くの小学校に1時間半の道のりを毎日通学した。3年生から4年生まで方言のあ
る級友と机を並べた。横浜の小学校の同級生は現在の大山神社の近くの農家や神社の講に集団疎開し、父母が恋しく毎夜布団の中で泣いたと話していた。小田原は米が入手できず、麦ご飯と魚が毎日の食事だった。鯖、鮪、鯵、いか、シャコ、鯨などお弁当はいつも魚ばかりだった。
近隣には住居が少なく、友だちもいなくて、弟と通学する日常だった。みかんは育てる人がいなくて小さな皮の厚いみかんを、母が殺菌よけになると言ったので下校時2個位を吸うように食べた。町から畑に来る人がいてそら豆や菜っ葉などを食べた。
1945年5月7日ドイツ軍が米、英、仏の連合軍に、無条件降伏する。
その日から、5月25日。B29爆撃機により東京の山の手方面の大空襲をうける。8月5日。夏休みの暑い日、朝から空襲警報がなり響いた。眼下の小田原の町は静まっていた。昼前B29の轟音が相模湾から黒い隊列で近づいて来た。機銃掃射のバリバリという無気味な音が始まった。母が「防空壕に入りなさい」と大声で命令して、庭の築山に掘った壕に逃げこんだ。二重の扉になっていて、入ると電気が付いたが、祖母が消燈してしまい日中の明かるさはなく、弟が扉を少し押し開けて外をのぞいていたので私も顔をくっつけて空をみた。
早川の方には来ないが、町をめがけて、急降下する機体の腹と車輪の入る部分がみえた。10機程の編成の米軍闘載機P51と書いてあるねずみ色の小型戦闘機が山すれすれに飛び回り旋回した後に猛射をはじめた。舐めるように照射をしたようだった。恐怖が強くて隙間を閉じたことを覚えている。弟が「p公行ったよ」と言ったのを覚えている。
5月25日の空襲で東京は焦土となった。病床の母は私と弟の学校の報告を毎日聞き頷きながら評価をしてくれた。山本五十六元帥の死を何度か話しながら「日本も終りね」とつぶやいた。
5月6日横浜・平塚が大空襲にあい我が家も丘の樹木も焼けたと祖母から聞いた。
父は東京の会社に出勤すると2、3日帰って来なかった。東海道線の列車が何回もB29の照射にあっていたので私たちも納得していた。母の容態は日ましに悪くなり、もう立ち上がることも出来なくなり、ある日父がペニシリンの空ビン4、5本を持って帰って来た。使った後のペニシリンの残りを注射器に入れて、母の腕に父が注射をした。警友病院の医師も田舎に避難したと聞いた。
1945年1月7日24時頃、叔母(母の妹)に起こされた。「母さんがもうダメだよ」と言った。母は細
い手を出して私の手を握ったけれど触れただけの力しかなかった。弟が泣いたので私も深刻さを感じて泣いた。母は33歳だった。私8歳、弟7歳の年だった。
母の遺体をリヤカーにのせて、国府津・鴨宮の松林と田の畦道を通り野辺の送りを経験した。実家の叔父叔母いとこたちと歩いた。「火葬できるのは上級だよ」と叔父が言った。骨壺も入手するのが大変だったらしく父が横浜から抱いて持って来た。火葬は薪だった。すでに重油はなかった。
私にとって、松並木、小田原の町は当分苦い場所だった。小田原城も消失し貧しい漁村だった。戦火の中を逃げ迷った経験はないが、温かい家族の生活から貧しい漁村で実母を失い、子どもたちにとって、空白となる親の不在の人生は苦悩の人生の出発だったと思う。
5年生の4月から横浜神奈川区子安に戻って、小学校に通学した。中学は1949年、横浜のミッションスクールに入学し、数人の宣教師に出会った。アメリカのミッショナリーから派遣されたミス・ミスター教師で礼拝から英語に接した。入学は母の遺言だったと父から聞いた。私は入学した時から被害者の意識はなかった。
東京裁判は戦勝国が制定したもので1931年の満州事変、日中戦争は裁判の対象に入らなかった。そのことが今もって近隣の中国、韓国の恨みをかっている。北朝鮮問題もその範囲である。80年前の戦争経験の中で日本が犯した加害側面の反省が挙げられない限り近隣諸国の反日感情はいつまでも正されないだろうと思う。
神さまがいると思ったことは、この恐怖体験から学んだ。 (日本基督教団 久我山教会員)
