この国で歩む 李炳墉
【誌上 一日研修会 講演1】
初めての異国生活
釜山から飛び立ってすぐのこと。大韓民国と日本はこんなに近かったかと驚いた。福岡に降り立ち山口宇部へと導かれる。ま
た驚いたのは山川が茂って見え綺麗だった。町の看板はすべて日本語。読めない。「ああ、異国やなあ。」こうして日本での生活が始まった。過ぎてみたら5ヶ月ほど生活した宇部。1年間だろうと思って来たのに今年の5月で40年。
宇部から東京へと移り1981年冬、東京は寒かった。泊まるところも知り合いも友も誰もいない。新宿駅地下道、寒さを避け寝泊まるおっちゃんたちに紛れ込んで夜になると特に冷たく骨にしみるような刺される冷気。春まで待てないかもという思いがよぎるその日。寝転んだ隣のおっちゃんに焼酎を飲まされた。「今夜は最高に寒い! これを飲め!」と言われ口に入れ込んだ。朝目が覚めた。体は段ボールで包まれ、足と顔には新聞紙に包まれていた。枕の横にone cup の空き瓶が転がっていた。
しばらくしたある日、焼肉屋にアルバイトとして紹介された。紹介の電話をしてくれたあのホームレスのおっちゃんは今はいずこへ? 彼は私を地下道から追い出してくれた恩人。以来5年間もここで働くことになる。
神学の道
東京で迎えたクリスマスの日、再び生まれ変わりの体験(『共助』2021年第2号掲載、「私のクリスマス」)により、まず礼拝する教会を探し求めた。大韓民国の母教会の牧師に紹介され東京福音教会に通うようになった。その教会の奉仕者である東京キリスト教短期大学(TCC)神学生の菊池姉により東京キリスト教学園を紹介された。「李さん、韓国で神学校に行く献身の話を聞いたけど、日本にも素晴らしい神学校があるよ。」と言い、学校の電話番号を手渡し菊池さんはイスラエルへと旅立った。数日後、日本への思いを断ち切って帰国する準備のため、総領事館に訪ねたときだった。総領事館の階段の下に設置された電話ボックスが目の前に大きく迫ってきた。菊池さんから渡されたメモのダイヤルをいつの間にか回していた。
「私、韓国人です、その学園に入り勉強したいです、どうすればいいんですか?」
電話の向こうでTCCの丹羽副学長が、「今日が願書提出の締め切り日ですが、もうこんな時間なので明日学校に来てください。」
「いや、今から行きます!」
「そこから来ると夜になるよ。」と、優しく親切だったが、私は強引にも、「でも行きます!」、副学長は事務長に託して入試の手続きを進行させてくれた。
こうして私は合格を手に入れ、入学と献身の日々が多くの兄弟姉妹たちと学びの全寮生活が始まった。パラダイスのような国立キャンパス、今も教える教授の顔が目に焼きつく。学園は私にとって神学の学び舎ですが日本語の学び舎だった気がする。優しさと賑やかさと讃美の声、笑い声、聖書、ヘブライ語、ギリシャ語と神学の教え、学生全体の活動、朝の早天祈祷会、昼のチャペル、特別講演会、年一回のシオン祭。馴染み深い天国だった。神様が私をここに置いたみこころは深かった。
在学中結婚も婚約も恋愛も禁じられた学校。しかし婚約して入学した私のことを論じ合って学則も変えたらしく結婚は結果的に一年間延ばされたものの妻も学園内で生活がゆるされた。十二指腸潰瘍、お粥、祈り、癒しと体験深い学校生活だった。生涯忘れられない友が多くできた。
1984年春、東中野に留学生教会を開拓、数十人の留学生信徒が集まった。その年のクリスマスイブ会の準備ができた。キリストの生涯の映画上映の準備もできた。クリスマスイブ礼拝は進んでいるがパーティーの準備を終えた妻は中野総合病院に運ばれた。その日夜中に最初の子は流産。
留学生教会から献身者がでた。そのうち数名は東京キリスト教学園に入学できた。留学生教会は他の牧師に引き継いだ後、東京神学大学に編入、思えば東京福音教会(李 清吉牧師)、福生教会(金 小益牧師)、留学生教会開拓、そして東京教会(呉 允台牧師・金 君植牧師)で奉仕しながら、大学院(旧約聖書専攻)に進んだ。論文指導をしてくださった尊敬する左近学長がくも膜下出血の病いにより召された。最後の弟子となった。
共助会との出会い
東京神学大学で木村一雄先輩との出会いにより「共助会」とも出会う。夏の修養会に参加したことを思い深い友情に触れた。共助会のメンバーの凄さに感動した。「主にある友情」深くて難しい内容、自分の愚かさ、これらに吸い込まれていく希望。個人を超えた教会、国の間を包む友情と愛。自分の身に沁みる。共助会有志たちの心を集め私の手術後、入院費用一切の医療費を済ませたり、大学院卒業まで毎月奨学金で支えられる。
以前、共助会に招かれて講師として来られた姜信範(カンシンボム)牧師(提岩里教会)講演の通訳として東京から京都に来たことがある。佐伯 勲さんに案内され、京都東九条の在日集落の子どもたちと言
葉を交わすその時、日本宣教の必要性を強く感じた。後に京都が最初の赴任地になるとは。その導きに感無量。
1991年3月、東京での学びを終え、在日大韓基督教京都教会に導かれ着任した。伝道師として京都は最初の赴任地であり、共助会のメンバーの北白川教会の小笠原 亮一先生との出会い、妻の同志社大学入学時、保証人の佐伯兄弟(後の牧師)、多くの祈りに覚える共助会の兄弟姉妹たちが居られた。
京都は美しい文化と伝統ある歴史が流れる川のようだ。ここで伝道師から講道師を経て副牧師となる。教会奉仕の中で最も大事な刺激を受けた3年間でした。日本宣教の必然性を覚えながら「聖職者の汚れ」を見たところでもある。しかし共助会のメンバーであるゆえに耐えて自分が磨かれていたことを今も覚える。
1994年3月大阪生野区にある巽教会の招聘を受けた。J・マッキントッシュ、カナダからの宣教師が開拓した教会の第二代目の牧師となった。赴任前の冬はあいりん地区(西成)釜ヶ崎に住み込む体験。来日した最初の冬、東京新宿の夜を思い起こす一ヶ月間だった。その後の一ヶ月間、鎌倉雪の下教会を学習するため加藤先生の説教を聞いた。またその後、韓国のあの提岩(チェアム)教会をはじめドゥレ村の運営に触れた。
神戸淡路大震災とNUM設立
1995年1月17日、早天祈祷会の直前、考えられない事が起きた。神戸淡路大震災。その昼に大阪の生野区から神戸長田町まで走りボランティアとしてワゴン車一杯の物資を積み込み走った。思った以上に大変なあり様だった。目標地点まで約18時間かかり、これが一回限りと思った。しかし神戸から離れるまで3年かかった。神戸で働いていた多くの外国人たちの相談、生活の面倒、怪我人の世話、帰国者たちの手伝い、残念ながら命を落とされた人の行方を捜し、本国の家族との連絡、その処置。小学校や広場での炊き出し、外国人管理局、警察、市役所などへと走りすることは山積みだった。大阪巽教会で月曜日の早天祈祷会が終わるや否や被災地へ、土曜日の夜に被災地から巽へ帰ってくるというサイクルになっていた。毎日付いて来るマスコミとの対応、まわりに集まる人々との祈祷会、礼拝、聖書の学びが日々続いた。
済州島、釜山での家族探し、ソウルの赤十字、外務部の協力を求め、いくつかの教会も尋ね働きかけた。日本のTBSをはじめ、大韓民国のKBS、MBC、新聞雑誌だけでなくアメリカ、カナダ、オーストラリアのクリスチャンメディアが関心を持って私の活動をニュース化していた。「基督教震災現地対策委員会」を設置し、数人の委員たちと一年間救済活動が続いた。京都北白川教会をはじめ、共助会のメンバーは心熱くこの働きを応援してくださった。今年で神戸震災からまる26年、主にある友情に生きる共助会に深く感謝する。
大震災の一年後、NUM(New Union Mission forChrist)宣教会が設立された。1996年1月に「新神戸教会」が異人館近辺サドワニマンションの一室に開拓され救霊活動がゆるされた。三度移転し、現在三人目の担当宣教師が忠実に牧会している。
夢が日本でビジョンに
信州での共助会夏期信仰修養会のとき「神学大学を卒業したら韓国に戻り人材育成のため、キリストによる勝利ある人生のための働きをしたい。」私の将来を尋ねてくれたM・Cさんと語り合った。その後、日韓共助会交流で共に韓国の旅をしたこともある。大学院卒業後の春、M・Cさんが自宅に訪ねて来られ、「その働きのためその準備をしてください。」と多額の献金を置いて帰られた。祈り行動する信仰と友情に言葉を失うほどの感動で、計画準備に忠実な日々でした。しかし震災によって足が止められたこともあったが、今、日本宣教が何よりも大きい使命であると。韓国で結ぶはずであった夢が、日本で実を結ぶためのビジョンに変わっていった。
1994年3月から震災後、釜ヶ崎キリスト教連合センター(KCUC)として週2、3回伝道活動する。食事を共にする伝道集会、聖書の学びを数人の有志とチームを組んで今年で27年目となる。その後私は、米国のMcCormick Theological Seminary、韓国の長老会神学大学院で博士課程に導かれ修了できた。
大阪巽教会に来られる日本人グループは文化教室の一環として聖徒の自宅が提供され、ひと家族の聖書の学びから始まり、ハングル教室、ゴスペルソングを青年たちと共にスタートするようになった。この小さな群れが日本人中心の「The ArkCommunity」の名で今日に至る。
2015年、日本宣教研究所(JMI)が設立、日本福音宣教に役立つあらゆる分野の資料を整理し研究していく目標で活動が始動された。日本宣教、伝道する人材育成が中心である。そして在日韓国宣教師総連合会の協力と世界キリスト教連合会とMOU関係を結び研究活動する。毎年宣教師大会を開催し主管協力するリーダーシップがゆるされた。在日する宣教師連合会と協議会をひとつにする役割とひとつになった在日韓国宣教師連合会(写真①)の初代会長として奉仕することになる。さらに世界各国の韓国人宣教師牧師諸団体との連携活動の活性化に力尽くすことができた。
Mission Center 愛の郷
「愛の郷(仮称)」で宣教総合センター(写真②)を作るビジョンを営む。
幅広く活動されるN・Y教団、教会の中の働きのひとつである4/14window movement に関わりKids English のsmart book がアメリカ・韓国・日本との協力で製作された。これによるKIDSに向ける英語教育ができ、教会学校が作られていく。その各保護者が教会と繋がるセル(Cell)ができた。
またアメリカ、韓国、タイ共同でする霊的成長集会であるエクレシアの参加を積み重ねてきた。そして日本の我々でEcclesia Japan 開催を準備していく。
讃美と祈りが満ち溢れる開かれた礼拝、ベイシックバイブルセミナーとビジネスバイブルセミナー、霊の実践と体験のためのEcclesia Japan、文化教室としてスポーツ・ミュージック、放課後学童教室、シニアスクールなどビジョンが叶えられる祈りと協議を重ねている。
私の学びと働きとビジョンを持ち成長していくように祈って下さった共助会に感謝しつつ、これからも主にある友の皆さんの祈りに合わせ伝道に励んでいきたい。感謝。
(在日大韓基督教大阪巽教会牧師、NUM・The Ark Community)