「友よ、歩み出そう。キリストが待っておられる。」 飯島 信
閉会礼拝
聖 書
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
(ルカによる福音書第18章9~14節)
2025年度の基督教共助会夏期信仰修養会の最後の閉会礼拝を迎えました。
今回の修養会は、参加者数から言えば、昨年より大幅に減じました。準備委員長であった鈴木幸江さんから、「今年はどうしたのでしょう」との戸惑いのメールまで届いたほどでした。
しかし、修養会最終日を迎えた今、私は言葉に言い尽くし得ない感謝の思いで満たされています。これほどの恵みが与えられるとは思ってもいませんでした。3点に分けて述べます。
第一の恵みは、若い世代の参加が3分の1にまで上り、しかも、初めて共助会の夏期信仰修養会に参加した方がその多くを占めていたことです。1919年、第一次世界大戦後のベルサイユ条約が締結されたと同じ年のクリスマス、今から106年前に生まれた基督教共助会は、その目的を青年伝道に置いていました。ですから、当時の正式名称は、帝国大学高等学校学生基督教共助会です。そして今回、その本来の目的が蘇って来ているのを覚えたことが恵みの理由の一つです。
第二の恵み。それは言うまでもなく韓国から裵貞烈(ペチョンヨル)先生をお迎え出来たことです。裵先生は、大学退職後、韓日の架け橋としての役割を担って下さると聞いています。言う間でもなく、韓国で新しく共助会に入会された方は、徐順台(ソスンテ)さん以後、数十年も久しくありませんでした。裵先生によって大田(テジョン)の韓南(ハンナン)大学とも深い関わりが出来、次回の韓日修練会も、前回と同じく韓南大学での開催が準備され始めていると聞いています。
第三の恵み。それは、もはや先達と呼ばれる世代に入りつつある安積力也さんや片柳榮一さん、そして共助会の次を担う石田真一郎さん、鈴木善姫さんと北中晶子さん、さらに光永豊さんと阪田祥章さんからメッセージが語られたことです。その上、先ほど入会された細川敦子さんと、今いる仲間と共に、何と豊かな、そしてキリストに従う友たちが与えられていることかと思います。
このような中で閉会礼拝を迎えました。
私は、閉会礼拝の題を「友よ、歩み出そう。キリストが待っておられる」としました。そして、歩み出す己の自戒の言葉として、司会者に読んでいただいた聖書の箇所を選びました。
今から、短い時間ですが、これまでの私の歩みを振り返り、修養会の主題との関わりにおいて、人生で学び得たことをお話しします。
私が社会の問題に関心を持ったのは、1968年に大学に入学して間もなくのことでした。自分から進んで関心を持ったわけではなく、ある方を通して出会わせられたのです。その問題は、戦没者を祀る靖国神社を国営化する問題でした。戦死した者たちを神として祀る靖国神社を国営化することは、かつての侵略戦争を国家として肯定する行為であり、日本が再び戦争への道を歩み出す危険性を孕んでいました。その時に出会ったのが一冊の小さな本でした。戦没学徒の手記を記録した『きけわだつみのこえ』です。
何故か分かりませんが、彼らの手記は私の心を捕らえました。中でも2人の学徒の言葉は今でも心に残り続けています。一人は中村勇(いさむ)です。東京物理学校(現在の東京理科大学)学生。昭和17年12月入営。19年4月、ニューギニア・ホーランジアにて戦死。21歳。
昭和18年10月8日の彼の日記からです。
「わたしはかぎりなく祖国を愛するけれど
愛すべき祖国を私は持たない
深淵をのぞいた魂にとっては……」
そして、佐々木八郎でした。東大経済学部学生。昭和18年12月9日入団。20年4月14日、昭和特攻隊員として沖縄海上にて戦死。23歳。
「『愛』と『戦いくさと『死』— 宮沢賢治作『烏の北斗七星』に関連して」の手記の一部です。
「……では何のために今僕は、海鷲(海軍航空隊)を志願するのか。……この世に生まれた一人の人間として、偶然おかれたこの日本の土地、この父母、そして、今までに受けて来た学問と、鍛えあげた体とを一人の学生として、それらの事情を運命として担う人間としての職務をつくしたい、全力をささげて人間としての一生をその運命の命ずるままに送りたい、そういう気持なんだ。そして、お互いに生まれ持った運命を背に担いつつ、お互い、それぞれにきまったように力いっぱい働き、力いっぱい戦おうではないか。そんな気持なのだ。……」
こうして彼は、沖縄の海で、あまりにも短い人生を終えたのです。「この世に生まれた一人の人間として……今までに受けて来た学問と、鍛えあげたとを一人の学生として、それらの事情を運命として担う人間としての職務をつくしたい、全力をささげて人間としての一生をその運命の命ずるままに送りたい……そして……生まれ持った運命を背に担いつつ、お互い、それぞれにきまったように力いっぱい働き、力いっぱい戦おうではないか……」
誠実な、心を打つ言葉でした。読んだ時、これほどの誠実さをもって自分は今を生きているのかが厳く問われる言葉でした。
にもかかわらず、中村勇にしても、佐々木八郎にしても、彼らが命を懸けた戦いとは何であったのかで
す。中国で1、000万、アジア全体では2,000万に及ぶ人々の命を奪った日本帝国主義の侵略戦争の一端を担わさせられた厳然たる事実を直視した時、私のそれ以後の人生は、戦没学徒たちとの絶えざる対話となりました。彼らがその本心において何を願っていたのか、その願いに私がどう応えて行くのかでした。
彼らの願い、それは言うまでもなく非戦です。無謀な力によって、他の命を奪うことなく、また自分の命も奪われることのない世界です。彼らへの私の応答は、単なる非戦ではありません。絶対非戦、即ちどのようなことがあろうとも二度と繰り返してはならない意味をこめての絶対です。
靖国問題を経ての戦没学徒との出会いを通して、私の立つべき人生の位置は定まりました。絶対非戦、即ち命の尊厳を守り抜く内なる世界に全ての現実を位置付けるのです。
70年代から80年代にかけて、時の独裁政権に対して闘われた韓国民主化闘争への関わりも、日本社会における在日朝鮮人・韓国人に対する民族差別に対する取り組みも、国民統合の手段として再び「日の丸・君が代」を学校現場に強制し、思想・良心の自由を踏みにじる力に抗う戦いも、そして沖縄の基地問題も、その全ては人間の尊厳、命の尊厳を守り抜くことに基盤を置いています。
人はそれぞれに与えられた課題を負って生きています。誰もが同じ課題に取り組むわけではありません。それぞれにとって、より切実な課題があり、また取り組むに時があり、そのことが大切なことは言うまでもありません。ただ、許されるなら、それぞれの負っている課題を分かち合い、そのことを覚えて祈る時が与えられるなら、どれほど力と勇気が与えられるでしょうか。
希望に満ちている友の喜びを喜びとし、悲しみにくれる友の悲しみに佇(たたず)む、そのような私たちの交わりです。しかし、私たちの交わりには、キリストの眼差しが注がれています。憐れみと慈しみに満ちた眼差しに押し出されつつ、私たちそれぞれに備えられた道を歩み出したいと思うのです、キリストが待ち、共に歩もうとされているその道をです。
それでは、共助会にとって、今この時にキリストが待っておられる道は何かです。
それは韓国と在日との和解の道だと思うのです。36年にわたり暴虐の限りをつくした朝鮮半島の人々に対し、在日の人々に対し、真実に許しを乞い、アジアに真の平和を造り出す協働の業を共に担う者となるために、和解を実現する時が来ていると思うのです。そして、基督教共助会はその業を担う使命を負っている、私はそう思います。祈りましょう。
(日本基督教団 小高伝道所/浪江伝道所牧師)
