断想1『日韓キリスト教関係史資料Ⅲ 1945~2010』朴 大信

 【日韓の資料を読んでの断想1】

『日韓キリスト教関係史資料Ⅲ 1945-2010』

(新教出版社、2020年)より

■第Ⅰ部「アジア太平洋戦争敗戦から日韓基本条約締結までの交流の動き(1945-1965)

1.敗戦から朝鮮戦争休戦協定成立まで(1945-1953)

断想―。膨大な資料が物語る歴史の断片を自由に切り取り、また繋ぎ直しながら、今私の胸を打ち続ける何がしかの響きをここで共に分かち合うことができれば幸いである。

ところで、私には私なりの個人史があり、家族史がある。それが自分の意識に上ることは普段あまりないが、しかし本資料集を読み進めていくと、不思議にもそれまで眠っていた自分の小さな人生物語が目を覚まし、口を開いて大きな歴史と対話を始めるのである。ここでいう大きな歴史とは、書名に即して「日韓キリスト教関係史」のことを指す。今回は時代を1945~1953年に限定して、その中でいくつかの歴史資料を紐解きながら、それが特にこの私の出自とどう関わるのか、そのあたりから想いを綴ってみたい。

時は1945年11月15 日。日本の敗戦からちょうど3か月後、大阪では、解放の喜びと民族の希望に胸を膨らませたある朝鮮教会が、再出発の歩みを始めていた。すなわち、現在の在日大韓基督教会の戦後の出発点となる「在日本朝鮮基督教連合会」の創立総会が行われたのである。私は今、日本基督教団の教会に仕える者であるが、私自身の教会的出自はこの在日大韓基督教会にある。のみならず、私の祖父・朴命俊(パクミョンジュン)は、在日大韓基督教会を長らく牽引した在日コリアン1世世代の牧師たちのひとりであった。実は先に触れた、戦後の再出発となった「在日本朝鮮基督教連合会」の創立総会で開会礼拝の説教を担当したのは祖父であった(在日大韓基督教会発行「福音新聞」664号)。

残念ながら私の手元にはその説教記録がない。また本資料集にも祖父の名前は特に見当たらない(ただし、27頁の資料3「大阪の朝鮮教会 活溌な伝道再開」に記載の「林命俊」という名は、史実上、「朴命俊」のことだと思われる)。公の記録はともかくとして、私の記憶には生き続けている祖父が、いったいその時、何を語ったか。神と会衆との前で、この歴史的節目をどのように信仰者として受けとめ、また一朝鮮民族として経験していたのか。

この創立総会で明確に謳われたことは、その発足趣旨書にもある通り、日本基督教団からの離脱である(20頁)。19世紀末、日本各地に立てられた朝鮮教会は、厳しい労働と孤独に喘ぐ同胞の民たちにとって、信仰の交わりと慰めの場であった。しかし再び日本が世界大戦に突入していくにつれて、朝鮮教会は圧迫され、次第に教会の自主性も失われて、ついには日本基督教団に連合させられることになる。日本語の使用が強制され、言語的・精神的混乱により教会発展が妨げられる中、「朝鮮の教会を最も苦しめたものは神社参拝の強制と、神棚の各戸安置の強制とであった」(17頁)。やがて1945年8月15日を迎え、日本の敗戦によって朝鮮は日本の袂から解放される。日本に居住していた多くの同胞たちはその後帰国したが、しかし様々な事情から日本に留まる者たちもいた。私の祖父母も後者であった。そして戦禍冷めやらぬこの時、既に「朝鮮教会の利権や資産、備品は日本教会に自然吸収」されていたため、残った教会と教師たちは新たな教会的基盤を緊急に再起すべく、ここに日本基督教団からの離脱を決すると共に、大同団結して「在日本朝鮮基督教連合会」を発起したのであった。

 私の名付け親でもあった祖父の生涯を辿ると、それが「大きな歴史」のうねりの中で紡がれていたことが、本資料集を通して改めてよく分かる。上述の教会創立を準備していた当時の所属は、確かに日本基督教団であった。また、祖父が日本に渡って来たのは15歳の時(1927年)だったが、それは日本による

36年間の植民地支配の真っただ中で、苦しい生活に活路を求めてのことだったと聞く。今、徴用工や慰安婦のことが改めて政治問題となっているが、当時数百万とも言われる強制・半強制的渡航者の一人でもあったのだ。このように、一方では歴史に翻弄されながら、しかし他方では、まさにこの歴史の中で神のくすしき御業が働く。解放後も、神は祖父を日本に留まらせて労働者から伝道者への道を歩ませ、同胞と日本の民たちのために福音の種を蒔かせたのである。

仮に、祖父のこの働きを「良心」(con・science /神と共に知る)と呼ぶならば、この良心に生きようとした者は、無論在日社会に留まるはずがない。日本と韓国・朝鮮のキリスト教界の中にも無数に存在した。本資料集は、まさにその証言集である。そしてその良心は私の心の奥深い扉を開いて、今なお鮮やかに染みわたってくる。

 戦後、「満身創痍」(828頁)から独立解放の道を歩み始めたはずの朝鮮は、しかしその後、ある意味日本統治下の時より一層困難な道を歩まされることとなった。米ソ冷戦構造の下、南北を分断する朝鮮動乱が1950~53年に勃発。米兵たちは、釜山から京城に通ずる道路を「VIA DOLOROSA(悲哀の路、慟哭の路)」(24頁)と呼んだ。当時の韓国人口の約半数の一千万人が戦災者となり、無数の避難民が悲痛極まりない慟哭の声をあげてこの路に群がった。そこには、北から命からがら南に逃れる際、家族と生き別れた者たちもいたはずだ(私の母方の祖父母もそうであった)。

「戦争への烈しい抗議」と「平和への切実な要求」の声は、時代を貫いて今なお世界中に響き渡る。そしてこれとこだまするように、次のような良心の声がさらに心を打つ。「誰が一体、この残虐無道な現実に対して責任を負わねばならぬのか。東亜に侵略戦争の火ぶたを切つた日本も、口に平和を叫んで武力侵略

を行なう共産軍も、正義と自由のために戦うという連合軍も、その責任を負わねばならない。しかし結局は、利害のために人道をふみにじる人類全体の罪が根本原因である。」(24頁)。「之を解決する道は一つある。それはイエス・キリストに在って日鮮両民族が一つとなることである。……これは宗教が政治に用いられるのではなくて、信仰の働くところ政治問題が自ら解決される結果となることを意味するのである」(28頁)。「『朝鮮の良心』として信者が重要な場を占めるように起つべきだ。……われわれは政治的統一ばかりを望みすぎる。福音による一致『主は一つ、信仰は一つ』という御霊の一致を守るため祈り求めたい」(37頁)。             (日本基督教団 松本東教会 牧師)