第Ⅱ部「韓国民主化闘争と日韓連帯の動き(1965-1987)」井田 泉

『日韓キリスト教関係史資料Ⅲ 1945-2010』(新教出版社、2020年)より

1 日韓基本条約締結後から民主救国宣言まで(1965-1976) 

この時期、韓国民主化運動が大きな高まりを示し、日韓連帯の動きが活発化する。日本側資料は膨大である。ここでは韓国側資料の中から特徴的ないくつかを紹介したい。

 長老派の『基督公報』は「夫は獄にある勤労者たちの友」(1974・3・16)というタイトルで、獄中の印名鎮(インミョンジン)牧師の妻・金玉蘭(キムオンナン)の祈りを掲載している。当時の状況とその中での痛切な思いを窺わせる貴重なものである。

「主よ、……現実の不条理から救うために、裸の者に着せるために、空腹の者を食べさせるために、絶望した者を起き上がらせるために誠実に働く主の僕らに強い信仰をお与えくださり、特に夫の健康を守り、この機会を通して主が人類のためにお受けになった苦しみを完全に理解する契機となるようにしてください。そして信仰によって苦しみに耐えることができるようにしてください。夫の行く道が一人で行く道とならず、あなたとともに行く道にしてくださり、恐れることなく行く道にしてください。神様の働き人として忠実にあなたとあなたの民に仕えることができるようにしてください。……」

その約5か月後、同紙(1974・8・3)は、拘束中の朴烔圭(パクヒョンギュ)牧師(ソウル第一教会)の「善処」を求めて、キリスト教会の代表的人物、韓景職(ハンキョンジク)牧師、白楽濬(ペクナクチュン)博士、韓国NCC総務の金観錫(キムクァンソク)牧師らが金鍾泌(キムジョンヒル)国務総理を訪問したことを伝える。

「金 観錫総務によれば、国務総理を訪問した一行はまず、先般汝矣島広場で行われた『ビリー・グラハム韓国伝道大会』が政府の協力によって国際的な盛況を得たことに対し政府の協力に感謝を表明した。また、現在拘束中の朴 烔圭牧師に対し国内外の教界が多くの関心を寄せていると伝え、早期に事件が解決するよう願っていると語ると、金 鍾泌国務総理は早期に解決できるようにすると語ったという」。

韓 景職、白 楽濬はともに維新体制の朴政権に近い立場であり、金 観錫は反対に民主化運動の指導者の一人であった。立場の違う両者が朴 烔圭牧師釈放のために協力する背景には、世論の高まり、また深い思慮と決断があったことを思わせる。

同年1974年8月15日の光復節記念式典において大統領狙撃事件が起こり、陸ユク 英ヨン修ス 夫人が射殺された。犯人とされた文世光(ムンセグァン)は朝鮮総連と関係し、また日本政府は北朝鮮の工作を野放しにしたとして、反日感情が高まった。「国家守護 徹夜祈祷会」(1974・9・14)はそれを反映している。しかしこの祈祷会の中では同時に、「この国の不正と腐敗と不条理が膨張しており、社会に対して預言者的責任を十分果たせなかった罪責を痛感する」とのクリスチャンとしての懺悔がなされ、また拘束された人々のための祈りがささげられた。

日本との関係では、在日韓国基督教会館建設、サハリン同胞処遇、朴鐘碩(パクチョンソク)君事件(日立による就職差別)、靖国神社法案の危険などが繰り返し報じられ、あるいは論じられている。

1931年の三・一独立運動に対して、日本側官憲による教会弾圧事件が起こった。その代表的な例が京畿道堤岩里教会焼打ち事件である。1967年、尾山令仁牧師をはじめとする日本のキリスト者たちは「韓国堤岩里贖罪委員会」を組織し、一〇〇〇万円を募金した。これは記念礼拝堂建築の一部として用いられたが、その過程で遺族側の強い反対があり、複雑な経緯をたどった。メソジスト教会の『基督教世界』に掲載された「堤岩教会問題合意」(1969・9・10)、「水原堤岩教会再建問題の結末」(1970・5・10)、「殉教者二九人の合同追慕礼拝」(1975・5・31)はこれを生々しく伝えている。

これらとは別に『基督公報』の「韓国キリスト教詩の抵抗性」(1973・8・18)が印象深い。朴斗鎮(パクトゥジン)、尹東柱(ユントンジュ)、朴木月(パクモクォル)の詩を紹介しつつ、そこにこめられた詩人の日本支配に対する抵抗と解放への祈願を読み解く。歴史にこと寄せながら、現実の政治への抵抗を忍ばせたものではないだろうか。詩人・黄ファン 錦クムチャ燦の次の言葉が引用されている。

「時代が要求すれば詩人はいつでも抵抗する。これは世界の詩史が雄弁に語っており日帝三六年のわれわれの詩史が語っている。もし、時代が望んでいても詩人が抵抗しないなら、その詩人は時代的認識錯誤の衣服を脱げずにいるのだ。詩人は使命感を持って生きていく。詩人の祖国が詩人に抵抗を強く要求する時がある。そのとき詩人は使命感によって抵抗することになるのだ」。

同じ時期『基督教思想』に澤 正彦「ある日本人の手紙」(1973・8)が掲載された。澤は1967年から2年間韓国に留学し、1973年からは強制出国させられるまでの6年間宣教師としてソウルで働いた。日韓キリスト教交流の開拓者というべき存在である。彼は「私たちはまず、自分の醜い姿を見つめ、過去の歴史に驚き、韓国人から冷遇され、そこから再び出発して真の韓国の友を見つけるべきです」と、「日本の友へ」に書いている。              (日本聖公会司祭)