「共助会の女性の歩みを覚えて」を読ませていただいて 林貞てい子 山本 孝 山田 松苗

 【応答:第2号 荒川朋子氏発題(元原稿)に対して】

「共助会の女性の歩みを覚えて」と題されたシンポジウムの発題をなさった荒川朋とも子こ さんの記事を拝見しました。先達の女性三人、山本 孝、山田松苗、沢崎良子を選んで、共助誌から四十以上の記事をさかのぼって探し出し、その一つ一つを丹念に読まれた上での考察に、到底私にはできないことと驚き、敬服しました。

山本 孝、山田松苗のお二人はほぼ同時代で、今から88年前(1934年)に書かれた記事によりますと、森 明先生から直接信仰の導きを受けたことを書いておられます。

沢崎良子さんは少し後の時代、今から80年前(1942年)に夫君の堅造氏の赴かれた熱河へ幼い望さんを連れていかれたことが分かります。

山本 孝さんは、特にこの時代に女性が会社に勤めるという多忙を負った中、家族の身の回りのことをなし、家事育児をこなしつつ、信仰に心を向けるのはなかなか大変なことであろうことをご自分の体験から述べ、そのような中で、森 明先生に出会い、「魂に粘り付くような伝道愛」に出会い、キリストに出会い、共助会の交わりの中に命の道を見出して行かれたいきさつを残しておられます。……一週間の戦いに疲れ果てた土曜日の晩、明日の日曜は魂の憩いよりもひたすら身の休みを願う私でした。(中略)このような晩、トボトボと帰る姿に影のごとく現れて、無言の同情と祈りのうちに明日の礼拝に捧げうる身の幸と力を呼び起こしてくださったのは故森 明先生でした。(山本さんの文章より荒川さんが抜粋)

女性に負わされている多忙が、伝道の妨げになっているということは確かに言えると思います。今の時代でこそ、家事育児を男子も一緒にするという傾向になりつつありますが、男尊女卑の世にあって女性が家事・子育て・介護を負い、そこに仕事を持っていればそれは大変なものであったと思います。今はか

なり女性にのみ多忙さが負わされることは改善されていますが、同時代を生きた母や義母たちの日々を思う時、水道もガスも洗濯機もない自給自足の時代の忙しさから察することが出来ます。山田松苗さんもまた直接森 明先生から中渋谷教会員として信

仰の指導を受けられた方です。関東大震災の直後、森 明先生が病身を押して廃墟と化した東京中を歩き回って、教会員を尋ね求めていらっしゃるお姿に励まされたこと、「天地が崩れることがあっても礼拝をやめることはありません」と言われたことにご自身大きな影響を受けられたことを荒川さんは紹介してくださっています。

共助会初期のお二人の女性の書き残されたものを通して、私たちは森 明先生の深い信仰の生きざまの一端を知らされ、立ち返ることが許される幸せを思います。先生は亡くなられる二年前に、基督教女子協愛会を創られました。キリストの福音が人種国境、男女関わりなく及んでいることへの信念に裏打ちされていることはもとよりですが、弱い立場にあり差別を受けている女性に向けられていたということになるのではないでしょうか。

奥田恒子さんのこと

私が北白川教会に転会させていただいたのは1957年でした。奥田成孝先生の、天の一角を見つめて語られる説教に、その内容は覚えていないにしてもすさまじいばかりの生きて働かれる神様への姿勢に引き付けられました。また厳しいけれども心の奥まで見つめられるような優しさは、忘れることが出来ません。私たちが「おばさま」とお呼びしていました恒子夫人もまた集うもの一人一人に心寄せて下さる、みんなにとっての母親のような方でした。恒子夫人もまた、共助会を支えた女性として欠くことのできないお方であると思います。

その当時は共助会創設にかかわった方々が多くいらっしゃいましたし、そのお連れ合いたちもおられました。また鴨脚(いちょう)冨士さん、佐々木千寿子さんの家には若い人たちが気軽に集まりましたし、村上ふみさんは日曜学校に生涯を捧げられたと言って

も過言ではありません。恵美(えみ)幼稚園を始められた滝浦サメさんとその後継者となられた滝浦 緑さん、その幼稚園で働かれた浅野澄子さんなど今は亡き方々ですが共助会員として信仰を全うされた女性たちです。

沢崎良子さんのこと

順番が前後いたしますが、荒川朋子さんが、先達である女性の共助会員として選ばれました中のお一人、沢崎良子さんもまた私が初めて北白川教会へ行くようになりました時に心込めて迎えてくださったお方です。そして北白川教会を思うときに、教会のすぐ近くに住まいをして牧師夫妻を支え、会員ひとり一人に細やかな配慮をして教会を支えられた方として誰もが先ず思う方でしたし、その配慮もまことに深い信仰に根差した方でした。年齢差はあっても全く関係なく若い人たちが多く引き付けられ、出入りしていました。それゆえに私などは伺ったりするのは少し遠慮したようなところがあり後悔をしています。

教会や共助会の若者たちだけではなく、中国からの留学生たち、当時の多くはまことに貧しい中で頑張っていましたのでそういう方たちを親身になって助けておられたように思います。その中のお一人に当時京大に夫婦で留学中の中国人女性Tさんとおそらくは何かふとしたことで出会われ、援助したいとのお考えから彼女に中国語を教えてもらうことを思いつかれました。そこで沢崎さんのお宅に、徐積鑑(じょせっかん)さんと林 律の三人が生徒になって、中国語の聖書を読む会が始まりました。五年くらい経った頃には天安門事件があり、Tさんの夫君たちは民主化に加担する立場から身を隠していたこともありました。ご夫婦はアメリカに留学されることになりましたがその後は、妹さんのYさんが続いて留学生として来日されたので、続けて先生になっていただき勉強会は続きました。徐積鑑さんが阪神大震災の前日に急逝され、やがて沢崎さんもご病気になられましたので林一人になりました。今度は我が家に来ていただくことになって一対一で中国語の聖書を読む勉強は続きました。勉強が終わると今度は私の出番で、親しくなったYさんとお茶を飲みながら楽しく語り合いました。それはYさんがハルピンの大学に職を得られ中国へ帰られる2000年頃まで続きましたから、沢崎さんが始められた勉強会は15年の長きにわたって続きました。

私たちはその間、アメリカへ行かれたお姉さんのTさんをロスアンゼルスにお訪ねしましたが、キリスト教徒になっておられることを知りました。沢崎さんが中国からの留学生に特に心を留め援助したいと思われ、信仰を伝えたいと願われた祈りが実っていることを知りました。

後日談になりますが、大学の先生になった妹のYさんが私たちを、ハルピンの大学で話をするようにと機会を作って招いて下さいました。心込めて歓待してくださったことは忘れがたいですがその時に、日本語学科にいるという可愛い学生さんが半日、ハルピンの街を案内してくださいました。その日から十年余り歳月が流れた先日、その学生さんがネットで私たちの名前を探し出して、訪ねて下さったのです。来日して日本を愛し永住した彼女と、昔からの友達のような気がして語り明かし、今も交流は続いています。思えば沢崎さんからの贈り物です。

「熱河宣教の記録」より

1965年、共助会員の飯沼二郎さんが編纂の『熱河宣教の記録』(未来社刊)が世に出ました。これは大戦のさ中に、熱河伝道に召命を受けた方々が家族共に蒙古伝道を志して進まれ、生涯を捧げられた方々の手記を編纂されたものです。

それぞれの方々の命がけの伝道の様子が綴られています。また日本が無謀な侵略戦争を始め、戦局が非常に悪化した中、男性たち(つまり夫君たち)は日本の軍隊へ現地召集され、やがて敗戦となり、言語に絶する苦労をして帰り来られる、あるいは現地で幼い子供を亡くされたり、戦死・銃殺された方たちのことなどをそれぞれが手記の形で書き残されたものの編纂です。

共助会の方としては既に熱河宣教をしておられた福井二郎先生を手掛かりとされて北白川教会の沢崎堅造・良子夫妻と和田正・テル子夫妻が召命を受けて、熱河へ赴かれました。

出版されたばかりのこの本から強く感じ取ったことは、熱河に赴かれたそれぞれの方が、真剣に祈って、その中から確かに神様からの召命を受けて、普通なら到底行かない満蒙の地へ赴かれたこと、そして何よりも山に籠って切に祈って判断を仰ぎ、示され、力与えられて歩まれた信仰のご生涯で、深い感動を覚えました。

本書の奥田成孝先生による「まえおき」の一部をご紹介いたします。

大戦最中、剣で荒らした隣邦人の中に、平和の福音をもって仕え、また命を捧げた同胞たちが少数でもあったことは、せめてもの感謝であったと思う。また寡聞な私は、広く詳しくは知らないが、当時はすでに海外伝道ということはあったとしても、多くは外地にいる同胞に自国語をもって伝道していたにすぎず、熱河伝道に従事された方々のごとく、かく多くの方々が一団となって、その国の言葉を以て、その国の人々に福音を伝えられたということはなかったのではなかろうか。(中略)あの敗戦の混乱の中にあってこれら宣教に従事された方々が、主にある交わりによるとはいえ、隣邦の友達から、どのようにまもられたかを見るとき、それは、これらの方々が如何なる態度をもって宣教に従事されたかを、よく物語っていると思う。(奥田成孝先生による「まえおき」より一部抜粋)

沢崎夫妻は、1942年、和田夫妻は1945年に熱河へ赴かれましたが、戦時下になり非常に危険な時でした。和田夫妻の船は先の船も、後から出た船も敵の潜水艦に狙われて沈没していますから正に命がけの、それぞれが幼い子供を連れてのご出発でした。

『熱河宣教の記録』が出版され、手にしたのは、1965年5月、この年は次女が生まれた年で出産後横になっていた時でした。一気に読み終え、こんなに厳しい環境の中をものともせずにとにかく祈って祈って進みゆかれた方たちの信仰の足跡に心打たれたのはもとよりでしたが、その中で幼い子供を連れて、導かれるままに進んで行かれた夫人たちの姿に、横に寝ているわが子を重ね合わせて胸がいっぱいになりました。

再び沢崎良子さんのこと

どのような気持ちで夫君について行かれたのだろうかと思っていましたが、沢崎良子さんは、本文の手記に次のように書かれています。

私は主人より半年遅れて1942年10月14日、望を連れて京都を出発し、17日夜承徳に着いた。承徳に行くについては夫を信頼し、彼の行くところいずこにも行くというのであるが、それだけではなく、私なりに渡満の意味を考えた。キリストに罪あがなわれ、救われた者として,やはりこの福音―よろこびのおとずれを、隣国の人々にのべ伝えなければならない。もちろん私には何もできない。しかし、宣教のわざのために、キリストのために行くのだ。私は乏しい祈りの中にも、かの地には夫が待つのではなくして、キリストが私を待っていてくださることを信じた。(「沢崎良子の手記」より)

戦況が悪くなり、男性のほとんどは次々現地召集で徴兵となりました。日本の敗戦により八路軍に連行されたり、ソ連軍侵入によりシベリヤなどで厳しい強制労働をさせられるなど大変な苦労をされた消息の一端を知りましたが、現地に残されている女性たちは夫のいない中、幼い子供をつれてさまよい、衣食住に事欠き、逃避行をしながら故国を目指します。

ソ連が参戦布告をして日本人は追われる身となり、避難をしなければならない状態になります。沢崎堅造氏は、満州から脱出できないまま殉教されたことは後に分かります。和田 正氏は現地召集されていました。

沢崎良子さんと和田テル子さんのこと

沢崎良子さんと和田テル子さんはともに子どもの手を引き避難民となり、日本に帰りつくまでの寒さをしのぐ薪も着るもの

も食べるものにも事欠きながら命がけで一年間余の逃避行の末、日本にたどり着かれますが、博多に留め置かれたままの船の中で、香さんを亡くされます。私はその間の、お二人の堅い友情には心打たれました。沢崎

良子の手記よりの抜粋です。

もらってきた大豆でも何でも、テル子さんは必ず平等に分け、決して私ししなかった。欠乏のどん底にもこのような美しい態度を持つことのできる人は果たしてどれだけあるだろうか。

避難に当たってはテル子さんはお産の近い私に何も持たせまいとして、負いきれない重いリュックを背負って、健ちゃんの手を引かれた。私はその姿を決して忘れることは出来ない。(注「健ちゃん」は共助誌の表紙絵を描かれている和田健彦氏)

奉天の駅に夜を過ごし、さらに汽車に乗って安東に行くことになった。無蓋車に乗せられ、途中雨がひどく降って腹帯にまで水が通った。どこかで汽車が止まった時、ずいぶん奔走して、交渉して私と望を有蓋車に乗せてもらって下さった。ご自分と健ちゃんはぬれっ放しであった。

安東もすでに北方からの避難民でいっぱいであった。私たちはやむを得ず国境を越えて朝鮮に行くことになった。汽車を降りたとき。乗っていた場所が違っていたため、テル子さんはどんなに必死に探してくださったことだろう。真っ暗な中を大声で名を呼びながらホームを走り続け(大きなリュックを背負い、健ちゃんの手を引いて)おかげで私たちは会うことが出来た。それから鴨緑江を渡るのであるが、テル子さんは産婆さんのおられる車を探して是非わたしをそこに乗せてもらうよう頼んでくださって、おかげで私は産婆さんのおられる車に乗ることが出来た。テル子さんと健ちゃんは別の車に乗られたが、その前に産婆さんやその他の方に、自分はこの人に付き添っているのだから、絶対、別の班にしないように、絶対、行く先を別にしないように熱心に頼んでくださった。私たちはその夜(8月14日)鴨緑江を渡った。はからずも満州を離れ、夫たちをそこに残し、また主にある友と離れて国境を越えて行くのである。どこまで行くのか行先はわからない。(「沢崎良子の手記」より)

これは沢崎良子さんの手記です。この手記を書かれた時代にはテル子さんは亡くなっておられますが(1956年没)、ご健在であれば沢崎良子さんと過ごされたこの命がけの日々に、沢崎さんから受けられたご恩の様々を残されたことであろうと思います。香は一生、父を知らず、家もなく、さすらい続け、すべてが乏しく、見るかげもなくやせ衰えて召されたのである。何と痛々しい生涯であろう。私が自分自身の身の苦しさにかまけてなすべきことをなさず、死に至らしめた罪を、神よ、お許しください。しかし彼女が父と共に、蒙古伝道のために負った苦しみをよみし、み国の喜びに入れてください。小さな生涯をもこのようなものとして、用い給いしことを感謝します、と私は今も祈る。(中略)テル子さんは甲板から「きよき岸辺に」を歌って香を見送ってくださった。そして天国できっと会えるといわれた。(「沢崎良子の手記」より)

(日本キリスト改革派 千里摂理教会員)