応 答3 湯田 大貴

2023年1月に行われた共助会の一泊研修会にて、自分は主題講演に対する応答を行った。以下の4つの視点から、これをまとめる。

1.安易な普遍主義の危険性

講演の中で徐京植氏の次の言葉が紹介された。「日本国民の皆さん、自分はたまたま日本に生まれただけであって、『日本人』であるつもりはないとか、自分は『在日日本人』にすぎないとか、どうかそんな軽口は叩かないでいただきたい」

最近のグローバル化の流れを受けて、私の周りでも「日本人」という枠を簡単に飛び越えようとする人が多いような気がする。この傾向は、大学を出ているようなインテリ層に比較的強いと感じている。ただ、この実体を伴わない安易な普遍主義は、責任の所在を曖昧にすると感じている。マイノリティの人権が侵害されているような現実において、マジョリティ側が問題を単純に抽象化して、普遍主義に逃げるような態度を取ることは決してあってはならい。

このような論法は、人権の問題を扱う際に至る所で用いられている。女性の権利を主張すれば、女性だけでなく男性の権利を保障しろと言う人がいる。Black Lives Matter を主張すれば、AllLives Matter と言う人がいる。もちろん女性だけでなく男性を含

め、全ての性が尊重されるべきであり、黒人の命だけでなく全ての人の命が大事に決まっている。ただし、それはマイノリティの人権が保障されたその後にようやく議論できることであり、現実はその100歩手前にあるということを認識しなければならない。

日本の植民地主義に関して言えば、沖縄の基地問題をはじめとして今なお続く問題であり、その利益を享受している中心部の人間たちが、私は「日本人」でないから日本の歴史に対して責任を取らないなどとは言えないのである。むしろ、過去の歴史を反省し続けることでしか平和を創ることはできないのだから、その営みをやめてはいけないだろう。

2.他者との遭遇

高橋さんと加藤典洋氏の歴史主体論争の中で、加藤氏は、日本人は人格分裂が原因で、アジアの他者に謝罪できないので、まず先に自国の死者を哀悼することで、日本人という国民主体を立ち上げる必要があると述べた。これに対して高橋さんは、むしろ逆でまずアジアの他者と向き合わなければ、日本人という国民主体を立ち上げることもできないと主張した。私も高橋さんと同様の考えを持っており、自己を正しく認識するにはまず他者と向き合う必要があると考えている。同質的な環境の中に身を置くと、自分の輪郭というのはどんどんぼやけてしまう。そして、これがまた安易な普遍主義を生み出すことにもつながる。

普遍主義的な日本人の態度の例として、すぐ「無宗教」を主張するという点がある。私もキリスト教と出会う前までは、自分のことを無宗教者だと信じて疑わなかったが、ICUに入り多くのキリスト者の人たちと出会い、自分の中の宗教性が相対化されて始めて、自分も何かを信じているということに気付かされた。同様に海外留学でアメリカにいた頃も、自分が「日本人」であること、「アジア人」であることを強く感じさせられた。このように、同質な環境の中にいると、自分の正確な位置を測ることは難しく、多様性のある環境に飛び込み、他者と比較することで初めて自分の位置がわかるのだと思う。日本社会において言葉だけのグローバル化ではなく真のグローバル化が進み、多様性のある社会が実現して、安易な普遍主義的態度をとる日本人が減ることを願ってやまない。

3.宗教の現代的価値

高橋さんの責任論に対して、内田樹氏から「正しすぎてついていけない」というような批判が出たことが紹介された。正しい主張に対して、その正しさを認めつつメタ的な立場から批判するようなこのような論法は卑怯であり、大衆感情にいたずらに寄り添い、現状の不正を肯定するような働きは本来哲学や倫理学が担うべき役割とは、全く逆と言わざるを得ない。ソクラテスの時代から哲学や倫理学は「善く生きる」ことを探求し、それを実践するための理論的な枠組みを提供してきた。「善く生きる」こと自体を否定してしまっては、それは哲学でも倫理学でもなんでもなく、大衆向けの娯楽でしかないだろう。

一方で現実的な問題として、確かに道徳法則を常に実行するというのは非常に困難である。それは道徳法則を命じる主体も守る客体もどちらも自分自身であるからだ。自分自身が法則をいつでも変えることができるし、その法則を守らせるように監視する第三者も存在しないような状況において、法則を常に守り続けるというのは難しい。

私はここに宗教の現代的な価値が残っていると考えている。我々は道徳が大切だということを理解しているが、道徳法則を常に実行することができない。ただ宗教者であれば、道徳法則は神からの命令に自ずと昇華する。神という絶対的な他者が自分に対して法を守らせるのだ。人間は誰しも罪への傾向性を持っている。この人間の本性を超えて道徳的な行いをするには、神への信仰が必要である。また加えて道徳法則を守ることが自己完結化しない点も重要である。神からの命令を守ることは、神という他者を喜ばせることへと繋がるからだ。

4.戦争と犠牲

ウクライナ戦争の直接的なきっかけが、ウクライナ軍と米軍がロシア国境付近にて合同軍事訓練を繰り返したことだとするならば、日本が防衛費を引き上げて、南西諸島沖にてアメリカと合同軍事訓練をすることは何を引き起こすだろうか。現実に昨今の台湾有事を受けて、自衛隊は南西シフトの構えがさらに強まっている。

自衛隊が敵基地攻撃能力を保有することが与党の中で合意された。じゃあ逆にその〝敵〟から見たときに、我々日本の軍事基地はどこにあるだろうか。ウクライナ戦争の例を見ても、今後東アジアにおいて総力戦が起きる可能性は低いと言える。それではもし戦争が起きたとしたら、戦場はどこになるか。誰がまた犠牲になるのか。

日本の植民地主義は今なお続いている。そして多くの国民はそれに気づいていない。安易な普遍主義に逃げたり、自分を肯定してくれるような耳触りの良い論説にだけ耳を傾けている。気づいている自分はどうしたらいいだろうか。この文章を書いている今も問われ続けている。こんなとき、イエスならどうするだろうか。一人のキリスト者として何ができるだろうか。

(日本ホーリネス教団 木場深川キリスト教会員)