寄稿 青年の夕べ

フクシマのある国で 近藤 風人

私は、ずっと怒っています。なぜ、この理不尽が許されているのか? なぜ、私たち家族がこんな目に遭わなければならないのか? なぜ、加害者は裁かれず、今もなお人々を苦しめているのか?

今年の夏休みは、福島関係のイベントが2つありました。一つ目は、寮が主催した福島研修旅行。二つ目は、兵庫県丹波市で行われた保養キャンプです。今回は、それぞれで感じたことと私の夢を話したいと思います。

私は去年、寮での感話で3・11の話をしました。福島でなにが起きたのか、私の家族になにが起きたのか、そして、原発事故は依然として終わっていないということを伝えました。すると、寮内で「福島へ研修旅行に行きたい」と声が上がり、今年実現されました。研修旅行に行くにあたり、福島の歴史や文化についての事前学習と、原発について学びました。寮母さんの意見で、「反対派だけではなく、推進派の意見も聞こう」ということになり、東京電力の方に説明会に来ていただきました。内容は次のようなものでした。「福島での事故はまさに想定外のものでした。しかし、現在は、高い堤防と耐震性を高めたため、安全性は上がっています。住民の皆さんに反対されるのは理解しています。しかし、リスクをどう引き受けていただくかが重要になってきますので、しっかりと説明していきたいと思います」。私は、怒りのあまりに声が出ませんでした。そして、初めて人を憎むということを知りました。心の中は憎しみの言葉でいっぱいでした。よくも泣かしたな。よくも奪ったな。よくも壊したな。あなたたちにそんなことをしていい権利などないのに、と。

福島の旅行は、みんなで話し合い、どこに行くのかを決めました。その中で印象的だった寮生との会話がありました。彼は東京大学の工学部三年生で、福島に行く前は、事故の反省によって安全性が高くなるのならば、原発を稼働させてもいいのではないか、という意見を持っていました。しかし、14年が経っても変わらない街並みと、線量計が示す高い数値に言葉を失っていました。私が、「この風景を見て、原発は必要だと思いますか?」と尋ねると、「少なくとも、日本でやろうとは思わない」と言っていました。この一言だけで、福島旅行をした意味があったと思いました。フクシマは、写真や本だけでは伝わらないのです。そこに行かなければ、フクシマの痛みは感じられないのです。

行った場所の一つを紹介します。その場所は、飯島先生の小高伝道所から五分ほどのところにある、「おれたちの伝承館」です。そこでは、アート作品を通じて原発事故がもたらしたものを伝えています。その中の、二つの作品を紹介したいと思います。一つ目は、「牛が齧かじった柱」です。この作品は、震災後に牛飼いの人々が泣く泣く置き去りにするしかなかった牛たちを和紙で表現したものです。牛たちは首を繋がれたままだったため、自分で食べ物を探しに行けませんでした。食べるものがなかったから、そばにあった牛舎の柱を齧ったのです。根本昌幸さんの詩を紹介します。

「柱を食う」        根本 昌幸

その人は、どうしようもなくて

牛を餓死させてきた

と、言った。

可哀想なことをしたが

仕方がない

とも言った。

そして一枚の写真を取り出して見せた。

それは牛が柱を食った写真だった。

餌がなければなんでも食うだろう。

この写真は自分を戒めるために

離さず持っているのだ

とも言った。

これはどういうことなのだ。

牛よ

恨うらめ恨め

憎きものを恨め

お前を飼っていたものではない。

こういうふうにした者たちを。

柱を食って

死んでいった牛たちよ。

どうか迷わずに天国に行ってください。

なみあみだぶつ

なみあみだぶつ

なみあみだぶつ

ああなみあみだぶつ

私は高校で畜産をしていたので、牛飼いの方の気持ちは痛いほどわかります。フクシマで起きたことは、柱を食う牛と同じように、そうせざるを得なかったことが、多々あるのです。

もう一つの作品は、「Transparency Japan」という作品です。これは、チェルノブイリにある病院のガラスブロッックに小児甲状腺がんの子どもたちが飲んだ薬のカプセルを入れた作品です。この作品は以前も、見たことがあったのですが、隣に一枚の文章が追加されていました。それは、震災の後、甲状腺がんになった方の言葉でした。彼女は、高校二年生で小児甲状腺がんが見つかり手術をしました。医者には、原発事故とがんは関係ないと診断され、それを信じていたそうです。しかし、その後、医者の診断が嘘だとわかると、自分が加害者側に加担してしまっていたと思い、自らを責めるようになったのだと言います。私は彼女と同じように、事故の詳細を知らずに生きていました。知った後、私も自らを責めています。だから、初めて彼女の文章を読んだとき、共感することが多くありました。

福島研修旅行の2週間ほど前に、兵庫県丹波市で行われた、保養キャンプにボランティアとして参加しました。保養キャンプといっても、みなさん聞き馴染みがないと思います。保養キャンプとは、福島の子どもたちを、県外に出して自由に遊ばせたいということから始まったキャンプです。これに、小学一年生の時から兄と参加していたため、今度は私が連れて行く番だと思い、ボランティアとして参加しました。彼らは、自由に駆け回り、流しそうめんをしたり、川で魚を捕まえたりして楽しんでいました。その中で印象的だった、子どもたちの会話がありました。

「なんで丹波に来ているんだっけ?」

「震災があったからだよ」

「震災って?」

「原発事故だよ」

この会話は二人の中学一年生の子どもたちのものでした。彼らは、自らがどのような場所で生まれたかを知らないのです。それもそのはずです。彼らは、震災が起きたとき、まだ生まれていなかったのですから。彼らは、事故の影響がまだ続いていることをなんとなく知り、学校で教わる放射能と家の雰囲気から知る放射能の違いに困惑しているのです。

原子力発電の事故は、14年経った今もこうした悲劇を生み出しているのです。そして、その一番の被害者は、まだ、自らを守る方法を知らない子どもたちなのです。

私が高校生のときに経験した話をします。私は高校一年生のときに、原発事故について知りました。そして、すぐに原発事故の危険性について発表しました。しかし、翌年の原発避難訓練のとき、先生たちは笑いながら避難訓練をしていました。訓練の内容は、車で新潟に逃げることだけしか決まっておらず、その間の食料やガソリン、送迎する教員などは一切決まっていませんでした。計画性も実効性もない計画でした。これでは、もし事故が再び起こったときに、なにもできないと考え、先生にもう一度訓練をやり直してくださいと言いました。しかし、「君がいっていることが間違っているとは思わない。けれど、他にやらなければならないことがある。」と言われてしまいます。これでは、まずいと思い、今度は太陽光発電を導入して、原発に加担しないようにしましょう、という計画を持っていくと、「やりたいのは、山々なんだけど、担当する先生がいない」とのことでした。しかし、担当もなにも、見積もりを取って、発注するだけなので難しいことはなに一つありません。望みがありそうな先生に直談判しにいくと、「そんなにやりたければ、あなたが先生になって変えなさい。」とのことでした。私は愕然とし、もう、なに一つとしてやることができなくなりました。

さて、大人が子どもの命を守ることよりも先にやることってなんでしょうか? 

1992年に、当時12歳だったセヴァン・カリス=スズキさんは地球サミットでこのように言いました。

大人のみなさん、どうやって直すかわからないものを、壊し続けるのをやめてください。私のお父さんは、いつも、「人間の価値は、何を言ったかではなく、何をしたかで決まる」と言っています。でも、私は、あなたがた大人がこの地球に対して、していることを見て、泣いています。それでも、あなたがた大人はいつも私たち子どもを愛していると言います。本当なのでしょうか? もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを言葉でなく、行動で示してください。

私たちは、彼女の言葉になんと答えられるでしょうか。

すべてのやる気を失ってしまった私に、もう一度歩く力をくれたのは子どもたちでした。私が一人で元気を無くしているところを見た子どもたちが、私のところに走ってきて、「ふうと君もどうぞ。」と言って、木の実を手のひらいっぱいにくれたのです。私は、この子どもを守らなければならないと思いました。彼らが自由に駆け回ることができる世界を作らなければならないと誓いました。私には夢があります。それは、世界から核がなくなり、子どもたちが自由に外で遊びまわることができる世界を作ることです。

ヒロシマのある国でしなければならないことがあるように、フクシマのある国でしなければならないとがあります。私たちは、そのことを行動で示す責任があります。きっと、未来の子どもたちに「あなたその時代に生きて、なにをしたの?」と聞かれます。そのとき、たとえ世界をなに一つ変えることができなかったとしても、私はただその子どもに誠実に生きたいのです。

みなさん、フクシマのある国でどう生きますか?

(青山学院大学2年)