尊重と正義 江村悠子
マタイによる福音書7章1―5節
「自分と異なる価値観を尊重する」という言葉は肯定的に受け止められることが多いと思います。私もこれに概ね同意していました。しかし同時に完全に頷くことができない自分がいました。自分に影響を及ぼさない価値観や、自分が強い意見を持たない価値観であれば尊重することは難しくありません。しかし、その価値観が自分や大切な人を傷つけうるとき、または自分の正義に反するとき、それを尊重することはよいことなのでしょうか。それは可能なのでしょうか。
私は昨年3月から今年2月までアジア学院でボランティアをしていました。この3月からはスタッフとして働いています。ボランティアをしようと思った理由のひとつは「自分と異なる様々な背景を持った人と共に生きることを通して、人を愛することを学びたい」というものでした。私は相手の意見が自分と違った場合に相手との間に壁を作ってしまうことがよくあります。そうではなく、相手の存在をまるごと受け止められるようになるには、様々な人が生活を共にして濃い人間関係を築いているコミュニティに入るのは良い方法だろうと思いました。
実際に1年間過ごしてみて、想定通りではありますが、そう簡単に自分を変えられるわけはなく、むしろ人を裁く自分をよりはっきりと自覚するようになりました。アジア学院はキリスト者が多いのですが、同じキリスト者という括りであるからこそ、自分にとって譲れない違いを感じるたびに、単に意見が違っていると認識するだけでなく、拒絶感のようなものを抱きました。自分とその人の間に一枚のシャッターが下ろされるような感覚です。自分にとって譲れない正義が脅かされる価値観を相手の中に見出したとき、相手を「あちら側の人間」とみなし、シャッターの外に追いやるのです。
今回、マタイによる福音書章を聖書箇所として選んだのは、最近この箇所を読んだときにまさに自分に向けられている言葉だと感じたからです。「裁いてはならない」というとき、その裁きとは、相手の言動をもとに相手を善いとか悪いとか判断し、人間を「こちら側」と「あちら側」に分けて、その人の本質を見ることを忘れてしまうことだと感じたのです。また、「あなたがたも裁かれないためである」とは誰から裁かれることを言っているのかと考えたとき、最も腑に落ちたのは「人に裁かれるのではないかと自分が感じる」という解釈です。「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」というところから、相手に対する善悪の判断が自分にそのまま降りかかってくると感じたからです。この原稿を書きながらも、「こんな話をしたら裁かれるのではないか」という恐れをいただいていました。
私の場合、シャッターを下ろした後はその話題を努めて避け、なんとなく相手との関係を維持していくことが多いです。しかし、その話題が自分にとって重要であればあるほど、その話を避けることは自分自身を隠すことにもなり、自分を表出できない気持ち悪さと相手を欺いているようなうしろめたさを覚えます。時に自分の意見を述べて議論に発展したとしても、たいていの場合は埋まらない溝を認識するだけで何らかの実りを感じることができず、しばらく心に気持ち悪さが引っ掛かり続けます。
そんな折、昨年秋から今年のはじめにかけて、私の関心はアメリカ大統領選挙から就任までの一連の出来事に引き寄せられていました。この期間は、人々が全く別の世界に生きているのではないかと思うほど分断を見せつけられたような印象があります。Qアノンや不正選挙との主張、そして議事堂襲撃事件にSNSの取り締まり強化。様々なことが起こりました。
私自身は、差別的で自国第一主義的なトランプ氏には再選されてほしくないと感じていました。そして、影の政府が世界を牛耳っているだとか大規模な不正選挙だとか、そういった主張は根拠のない陰謀論だと認識していました。しかしその一方では、トランプ氏の政策を高く評価する人が多く存在しており、また私が陰謀論とみなす主張こそが真実だと認識し、バイデン氏が選ばれることに大きな危機感を抱く人も一定数いました。異なる立場の人々は、いつも異なるメディアから異なる情報を手に入れていました。私自身もこの分断の当事者であると感じ、いたたまれない思いがしました。
私がこの出来事に引き寄せられた大きな理由は、私がとても尊敬しており思想的に大きな影響を受けたある著名人がこの陰謀論に強く同調していることが分かったためです。その人はとても正義感が強く、平和主義者でした。そして、マスメディアの情報を鵜呑みにしないことや常識を疑うこと、常識と異なるものに対してオープンであることの大切さをよく語っていました。私はそのような姿勢に心から共感しており、同じものを大事にしている同志のような意識を持っていました。ですから、私が批判していたトランプ氏をその人が支持しているらしいと分かったときには、一体なぜそうなるのか理解できませんでした。
しかし、関連のニュースや記事、書物に意識的に触れるうちに、自分が共感していた正義感や常識への懐疑こそが実は陰謀論とは相性が良いということも分かってきました。彼は影の支配者に心から怒り、支配者に騙されている大多数の人々が真実を知ることを心から望み、真実を悟る人がここ近年で急増していることを心から歓迎していました。すべては良心からでした。
この一件で、「陰謀論を信じる熱狂的なトランプ支持者」に対する私の印象は大きく変わりました。それまでであったら単に「あちら側の人間」「自分とは縁のないおかしな人」と切り捨ててシャッターを閉めきっていたかもしれません。しかし、自分とは相いれない主張を支持する彼らが心理的な意味で自分からそう遠くないことに気付いたのです。シャッターを閉めきったままにはできなくなったのです。
だからこそ、議事堂襲撃事件が起きた時は、議事堂に押し寄せた人々を単純に非難することはできませんでした。彼らの主張は私から見て決して正しくないのですが、彼らの多くはあくまで真剣に正義を追い求めているのだということが痛いほどに分かりました。そして、SNS各社が取り締まりを強化したりトランプ氏のアカウントを凍結したことについても、それが正しかったのかどうかを単純に判断することができませんでした。以前からSNS各社が虚偽の拡散を放置していたために事件が起きたことへの反省は理解できます。その一方で、削除の対象となった人からすればそれは紛れもない言論統制であり不義なのです。どんな主張であってもそれを主張する権利は保証しなければならない、と単純に言うことはできません。その主張によって誰かの命さえ奪われるということが何度となく起こってきたからです。しかし、どんな主張であっても、あくまで主張する人にとっては真実で正義であり、譲れない価値観であるということは少なくありません。単に権利を制限するだけでは分断は深まるばかりです。
この件を通して「自分と異なるものを尊重すること」と「正義を追い求めること」の間の緊張関係を改めて突き付けられました。大統領選に関する言論の問題も、アジア学院での日常で出会う自分と異なる意見をどう受け止めるのかということも同じことです。簡単に答えが出せないことが多く、頭を抱えることも多々あります。しかし、この葛藤は「あちら側の人間」と切り捨てて閉じていたシャッターが少しだけ開いたからこそ生まれたものです。この葛藤こそが、分断を少しでも解消する鍵になるのではないかと考えています。
冒頭のとおり、人を裁きやすい自分をアジア学院で変えることができたわけではありません。しかし、振り返れば「自分と異なる様々な背景を持った人と共に生きることを通して、人を愛することを学びたい」という願いは叶えられていたように思います。閉じていたシャッターを少しずつ開けるという経験を何度もしてきたのです。毎日一緒に作業し、一緒に食卓を囲む。同じジョークで一緒に大笑いしたり、ふとした瞬間に相手の良いところや相手との共通点を発見したりする。そんな生活をする中で、立場の対立する相手のこともごく自然に人間として見るようになった気がします。相手が「あちら側」ではなく、同じく神様によって創られ愛されている人間であるということ。自分が様々なことを感じ考えながら生き、自分だけの歴史を持っているのと同じように、相手も日々様々なことを感じたり考えたりしていて、相手の表面に見えるものの背後には壮大な歴史があるのだということ。そんなことが実感できるのです。
各自が持つ正義とは違う、神様の絶対的な正義というものはどこかにあるはずで、それを追い求めていくのが人間の務めだと思います。単に異なる意見を尊重するだけではその正義は達成されません。しかし、異なる意見を持った人々が互いの存在そのものを知り、愛することなしには、やはりいくら正義を追い求めてもその努力は実らないのだと思います。結局、結論はアジア学院に来る前とあまり変わっていないのかもしれませんが、表面上の立場からは伝わらない生身の人間との関わりをいつでも出発点としたいと思います。神様の目から見れば相手も自分も間違っていて、それでも同時に相手にも自分にも奥底には神様の霊が宿っているのだということを信じていきたいです。それが、人々が共に正義を追い求めるために欠かせない姿勢なのだと思います(2021年3月28日立川教会にて)(日本基督教団 桐生東部教会員)