説教

信なくば立たず イザヤ書七章一〜九節 片柳榮一

今年の京阪神共助会信仰修養会の主題は平和です。先日の文化の日の報道で、私たちの日本国憲法は一九四六年十一月三日に公布されたので、六九年経つと言われていましたが、この憲法を根底から変えようという露骨な動きがある中で、私たちはこの修養会の中で、もう一度、この憲法の根底にある平和の精神について思いを致してみたいと思います。平和を考えるために是非哲学者カントの『永遠平和のために』を読むようにと多くの方々が薦めておられます。私もこの機会にひもといてみました。そして単なる理想論というような先入見を一掃され、この思想家の極めて現実的で根本的な洞察に深くうたれました。確かに今から二百年以上前の哲学者が書いたものであり、それからの二百年の恐ろしい戦争の経験を経ている我々が、ここから何を学びうるかとの疑問も浮かびます。殊に私たちは、二〇世紀が恐ろしい戦争の世紀であったことを知っています。一九世紀の終りの頃には、少なくとも戦争は相闘う軍隊によってのみ行われるべきで、非戦闘員に対する敵対行為は許されず、敵国の都市や村落に兵器を使ったり、略奪をすることは許されないということを多くの文明国は認めていました。そしてアンリ・デュナンらの努力によって国際赤十字社が創立され、敵の負傷者をも治療する医師と看護婦の中立的自由行動の特権を認める主張が為され、戦争におけるヒューマニズムの思想が行き渡りつつありました。しかし第一次世界大戦はまったくこれらの人道的精神を粉砕してしまいました。潜水艦が造られ、軍艦だけでなく、貨物船や客船まで攻撃の対象となり、又飛行機や毒ガスの発明により、戦争は一般市民を巻き込む総力戦となり、その頂点は原子爆弾の投下でした。

 このような歴史を経ている私たちにとって、平和はあまりに遠い理想としかうつらなくなってしまいました。そして私たちは現在恐ろしく冷酷なテロの脅威のもとにさえあります。平和に対する冷笑的シニカルな態度が生まれざるを得ない長い歴史の現実が確かにあります。

 しかし私は、このカントの本を読んで深く反省させられました。良く言われることですが、カントの洞察の鋭さ、深さは、彼がすでに国際連盟、国際連合が出現せざるをえないことを見抜いています。そして各国が互いに商業的連携を深めることによって、戦争が出来にくい、経済的相互依存の状況を作りだしていくという、今日まさに起こっているグローバルの動きを予見しています。この二つの指摘はまさに歴史に働く力を見抜く確かな眼力をカントがもっていたことを示していますが、こうした確かな洞察力の根底にカントの或る深い確信があることを思い知らされました。ここではそのことについてだけ述べておきたいと思います。

 そのカントの確信というのは、戦争と平和の問題について真に現実的に考えるためには、平和を目標にしなければならないということです。カントは言います。「一緒に生活する人間の間の平和状態は、何ら自然状態ではない。自然状態は、寧ろ戦争状態である。いいかえれば、それはたとえ敵対行為が常に生じている状態ではないにしても、敵対行為によってたえず脅かされている状態である。それ故、平和状態は創設されねばならない」(岩波文庫版26頁)。我々は、戦争という危機が迫っているという現実から出発し、戦争への備えをすることが現実主義的なものであり、絵に描いたもちのような平和などについておしゃべりするのはまさに現実主義的でないことの証拠だと考えがちです。しかしカントのこの書を読んであらためて思わされたのは、戦争をしかねない敵対的状況にある当事者自身が現実的に取り組まなければならず、実際取り組んでいるのは、如何に相手と共存するかという意味での平和の課題であり、共存としての平和をめぐる対話の場所こそが、問題を考える現実の場所であるということでした。

 真の意味で現実的であるということは、猜疑心に駆られて、他者が攻撃してくることを予想して備えるというのが第一のことではなく、相手と共存してゆく、しかも恒久的に共存しようという意味で、平和を意志すること、そしてそれを模索することであるということをあらためて教えられました。確かに人間は自分が生きてゆくということを第一に考え、生き残るためには何でもするという恐ろしい利己的な存在であり、そのことが戦争の絶えない理由でもあります。確かに自分から見るなら、その意味で他者は自分にとっては、自分を攻撃し滅ぼしかねない恐ろしい敵という存在といえるのですが、それは相手からみてもそうであるはずです。私の存在そのものが、相手にとっては恐ろしい敵という存在であるはずです。

 だからこそ私たちがしなければならないのは、お互いが相手の存在に脅威を感じている者同士として、共存としての平和の道を模索してゆかなければならないということです。確かにそのような狼同士が殺し合う中で最初に手っ取り早くできることは、お互い離れて接しないということです。それはそのように土地が空いていればできますが、地球はそれほど広くありませんし、いつか何らかの意味で、この恐ろしい他者と隣り合わせて生きざるを得なくなるのは必定です。カントは言います。「地球の表面は球面で、人間はこの地表の上を無限に分散してゆくことは出来ず、結局は併存して互いに忍耐しあわねばならないが、ところで人間はもともと誰一人として、地上のある場所にいることについて、他人より多くの権利を所有しているわけではない」(47頁)。

 そうした隣り合わせで生きざるを得ない中で、共存としての平和ではない一つの方法、一つの可能性があります。それはこうした恐ろしい攻撃的他者を徹底的に殲滅(せんめつ)してしまうことです。攻撃されないためにはこれが、最も安全で確かな方法かもしれません。しかしそれは他者をそもそも認めないということであり、自分ひとりでしか生きようとしないということです。他者を一切認めず、他者が近くに来たら殲滅するというのをあくまで徹底するということが確かに一つの生き方かもしれませんが、これはできることではありません。何故なら、自分以外の他の国、共同体を認めず、他なるものは殲滅するという態度をとるとすれば、実は今度はこの同じ共同体自身の内でも、自分に同調しないものは殲滅するということになり、内部分裂が必然的に起こることになり、結局自分個人しか残らなくなるからです。自分一人だけでしか生きていけないとするのでない限り、何等かの仕方で、われわれは共存の道を探らざるをえないのです。

  私は改めて、論語にある「信なくば立たず」、そして旧約イザヤ書七章の「信じることがなければあなたがたは確かにされない」というきわめて古い言葉の真剣な力を思わされます。「信なくば立たず」。これは有名な論語の言葉ですが、実は私が今勤めている大学で少し前に、ごたごたがありまして、大学全体が騒然としていた時に、ある指導的な立場の方が声明の中で、この論語の言葉と聖書のイザヤ書七章九節の「信じなければ、あなたがたは確かにされない」を結び付けて印象深く語ったことがありました。京阪神共助会の今年の主題の「平和を語ろう」においても「信」ということが如何に大事であるかを思い、この二つの言葉を手掛かりにしながら、もう少し考えてみたいと思います。

 京都共助会ではかつて論語について一年間学んだことがありました。私は丁度そのころ森有正さんの日記を読んでいて、彼が毎日論語を読んでいることを知り、私も倣おうと思い、門前の小僧よろしく何年もかけてよんでいたことがあります。その時一つ印象深く覚えているのは、論語の最初の学而篇で、「信」という言葉が繰り返され、非常に重要視されているということでした。その第四節の有名な、吾日に三度省みるというところでも、最初の、「人のために図りて忠ならずや」に続いて、「朋友と交わりて、信ならずや」(「習わざるを伝えしや」が続く)といわれています。第五節では、国を治めるには「事を敬して而して信」と述べ、ことを慎重に行い、人々の信頼をえよ、という意味で「信」を使っています。若者の在り方を述べたという第六節でも「謹んで信」といい、何事にも慎重で、言葉に信実があることと注釈者は述べています。これに関して朱子の有名な注釈では、信とは言葉に実があることだと述べています。第七節では、「朋友と交わりて信あれば」と先の三省と同様なことを述べています。第八節でも君子の有り様に関して、過ちては改めるに憚(はばか)る莫(なか)れと並んで、忠信を主とせよと述べています。このように、論語においては人間関係の基本に「信」ということをおいていることがわかります。しかも「言葉に実があることが信」といわれるように、我々が使う「信じる」という意味よりも、信頼に値する在り方という意味で「信」が使われているように思われます。信頼に値するが故に、信じることもできるし、信じるということも生じるというのです。これが自然な成り行きであるともいえます(しかし信頼に値する存在であることができるのは、根本的に相手を信じうる人間であると思います)。

 そしてそうした使い方の集大成とも言えるのが、あの「信なくば立たず」の言葉です。これは論語の全二十篇のうちの第十二篇の「顔淵」篇にあります。

 ここには驚嘆に値する孔子の言葉があります。国を立たせるには、三つの要件がある。一つは食が足りることであり、また兵が足りること、即ち国防が備わっていることであり、もう一つは民が信をもつことであるといいます。そしてこの三つのうち、一つを削らねばならないとすれば、兵を削るのであり、さらにもう一つを削るとすれば、食であるという。孔子はその理由として、人間には死は避けられないからであるという。そして食を削り、死を代償にしてまでも守らねばならないものとして、民の信を挙げています。これがなければ国は立たないのだというのです。信頼というものが人と人が共に生きて行く最も根本的な条件であるというのです。

 先ほど読みました旧約イザヤ書七章でも基本的には同じことですが、強調点がすこし異なります。ユダ王国が敵対する隣国の軍事同盟の噂によって大いなる恐怖と不安に包まれた中で、王に対して預言者イザヤが述べた言葉です。

 「主なる神はこう言われる、この事は決して行われない、また起こることはない。」(七節)

 九節「もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない」(口語訳)

 「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(新共同訳)

 アーメン(本当に、誠に)のもとになる同じ動詞アマンのフィーヒール形(使役)が、前半にもちいられており、信じるという意味で訳されており、後半の部分がニファル形(中動相)で、堅くされる、確かにされるという意味です。先の論語の「信」の用法は「信頼に値する」という意味が主であり、不信と疑いを乗り越えるという意味での、「信」は隠されていましたが、ここでははっきりこの二つが、同じ動詞から、しかも明確に区別されて、使われています。そしてイザヤは、信頼に値する、堅固な、という意味は、信じるということから生じると言っているように思われます。

 いつの時代でもそうなのでしょうが、いわゆる現実主義者は、目先の優勢さに目を奪われ、打算的に集合離散します。時には、イザヤ書二八章一五節の言葉の如く、死や陰府と契約し、欺きや偽りを厭いません。しかし預言者はそのような人々の右往左往に見向きもしません。もっと現実の深いところに目を据えています。イザヤは、主が堅く据えられた礎があると確信しています。それは人の眼に見えにくい隅に据えられたものであるといいます。それは正義をはかり縄とし、恵みの業を裁きの基とする、歴史の主なる神の計らいであると言います。

 論語において「信」とは主に、信頼に値する、信用できる堅固な在り方、人物のことでした。古代の不安定な社会のなかで、安定したものを手にするために第一に求められたのが信頼しうるという意味で「信」でした。

 イザヤ書七章から学ぶのは、へブル語において「信頼に値する」という意味の「信」と「信じる」という意味の「信」が同じ動詞の形であることです。そしてイザヤは明確に「信じる」ことなくしては、「信頼に値する」堅固な在り方はありえないと言い切ります。今回イザヤ書を読んでみて、あらためてイザヤという預言者の不思議さを思わせられました。人々は目の前に起こって来る不安な現実の出来事に「風に揺られる木」のごとく右往左往しています。これらの出来事の背後に強大なアッシリアの影が不可抗力のごとく圧し掛かっています。この強大なアッシリアの軍事的力の前では、イザヤの言葉など何の堅固な説得力も持たないと王にも人々にも見えて当然といえます。人間的にはイザヤは全くの不可能性の夜の前に立っていると思えます。「信頼に値する」ような何事も眼前にしていないようです。しかしイザヤは毅然と立っています。その根底には、「尊い隅の石」を置くと約束される主の言葉に向かって、あらゆる疑いと不安を乗り越えて立つ、彼の深い信仰があったと言わねばなりません。相互不信を乗り越えて共存するという平和を探らざるを得ない私たちに、イザヤは力強く、慰め深く語り掛けています。