キリストにあって友となる 工藤 浩栄

【誌上 一日研修会 閉会礼拝】ローマの信徒への手紙1:16~17

今から14年ほど前の2007年10月、第四回韓日基督教共助会修練会に参加するために、私は初めて韓国を訪れました。当時、私は36歳で、その頃は、会社の休暇を利用して海外旅行によく出かけていました。一人旅が好きで、その時点で14~15ヵ国訪問していましたが、日本と特に関係が深いアメリカ、中国、韓国を訪れたことがありませんでした。なお、初訪韓の五ヵ月後、中国を旅行しましたが、まだアメリカには行っていません。14年前の韓日修練会への参加は私にとって、初めての韓国訪問、初めての一人旅ではない海外訪問、初めての韓日修練会と、三つの貴重な初体験となりました。

私は青森から小笠原亮一先生と一緒にソウルに向かいました。先生はその年牧師を隠退し、青森市の自宅を拠点に何かしようとしておられたのですが、7月に体調を崩され、韓国訪問は諦めざるを得ない状況でした。私は青森から一人で参加するつもりでいたのですが、9月に先生から電話があり、修練会に参加するからチケットを予約して下さい、というのです。韓国におられる先生方が高齢となり、今回行かなければ、会えなくなるかもしれない、ということで、小笠原先生も覚悟の上での決断でした。

小笠原先生の体調に配慮して、青森空港では車いすを準備してもらいました。搭乗すると、先生は飛行機の窓側に座って、外の写真をたくさん撮り、機内食のハンバーガーを、おいしい、おいしいと召し上がっていました。仁川空港に到着すると、車いすを準備した係員が待機していて、先生を車いすに乗せ、入管まで案内して下さいました。ゲートを出ると洪彰義先生が出迎えて下さいました。車いすは、洪先生が準備して下さったものでした。

私たちは洪先生が手配して下さったタクシーに乗り、ソウルに向かいました。車中一時間以上、洪先生と小笠原先生は懐かしそうに、会話を楽しんでおられました。宿泊場所のホテルに到着するとすぐに、洪先生が予約して下さった中華料理店で、佐伯先生や黒瀬さんを交えて食事をしました。第四回韓日共助会修練会のテーマは、「キリストにあって友となる」でした。

ところで、私が小笠原先生に誘われて初めて共助会の夏季修養会に参加したのが2001年でした。そこで、洪根洙(ホングンス) 先生にお会いしました。また、池チ 明ミョングヮン観先生が講師として来られていました。植民地下および軍事独裁政権下の韓国の皆様の忍耐と、教会の働きについて、魂が揺さぶられる思いをしたことを鮮明に記憶しています。その後も折に触れ、小笠原先生から洪彰義(ホンチャンウィ)先生をはじめ韓国の先生方のお話を伺い、韓国共助会の皆様とお会いできることを願っていました。

参加者の中で、私はかなり若い方だと思っていました。また、初めての参加でした。そういう訳で、自分としては向学のために、また小笠原先生をサポートするために、韓国に行くのだと思っていました。ところが、出発の数日前になって飯島さんから、パネルディスカッションで話をするよう依頼され、軽い気持ちで引き受けました。ところが、少し考えれば分かることですが、戦後生まれの日本人の私が、植民地時代と軍事独裁政権時代を生き抜いた韓国の皆様を前にして、話せることなどありません。これは困ったことになったと、後悔しました。

私にとって初めての韓国体験は共助会の交わりでした。そして、小笠原先生と一緒に行くことができました。2007年に韓国を訪問するまで、海外旅行は常に一人で過ごしていたので、不自由な英語で、面倒なことに耐えるしかありませんでした。それを異文化体験だと解釈して楽しんでいました。

そんな私が韓国に行って感じた率直な思いとは、ここは快適なところだ、ということです。今まで行ったどことも違う国、それが韓国です。何が違うのかというと、日本とあまり変わらいということです。普段食べているものも、味付けは違うけれども、使っている素材は基本的に同じです。修練会の合間の食事が毎回楽しみでした。小笠原先生もおいしそうに食べていました。

修練会の日程は慌ただしく過ぎて行きました。修練会の期間、洪 彰義先生の香隣(ヒャンリン)教会を訪問できなかった私を、夜、佐伯 勲先生が案内して下さいました。佐伯先生と一緒に、坂を上った場所にある明洞大聖堂に行って、1000ウォンのロウソクを買って、灯りを点し、祈りました。翌朝早い時間に、私は小笠原先生と一緒にリムジンバスで仁川空港に向かいました。搭乗手続きを済ませると、車いすが準備されていました。洪先生が手配して下さったようです。帰路も先生は、写真を撮っていました。

小笠原先生は、その後重い病気を患い、闘病生活が続きました。ある日、先生宅にお邪魔すると、テーブルの上に地図が広げてありました。どこの地図かと尋ねると、昔のピョンヤンの地図だといいます。洪先生の家はこの辺だったんだろうか、とおっしゃっていました。

小笠原先生は2010年5月に天に召されました。報告のため、その年の10月、私は韓国を訪れました。北白川教会からの献金を預かり、香隣(ヒャンリン)教会を訪れ、洪先生とお話をしました。洪先生は、タクシーでソウル駅まで私を送って下さいました。私はKTXで大田(テジョン)に行きました。

小笠原先生が天に召される一年前の2009年7月、その後私の妻となる金美淑(キムミスク)が、友人の崔秀蓮(チェスヨン)さんと一緒に先生のお見舞いのために、青森にやって来ました。彼女が韓国に帰る前、先生が生きていれば、どうしているか、天に召されたなら、どのように召されたか、報告するために来年韓国に行く、と約束しました。それで韓国に行ったのですが、結果として、日本で一緒に生活するようになって8年目となりました。2012年の12月、崔さんと一緒に三人で洪先生に結婚を報告しました。

韓国と日本のことを考えますと、巷では戦後最悪だと騒がれていますが、私たちの家族は、国籍が二つで、姓は三つなので、日本の常識からいうとかなり変わった家族なのですが、家計としては一つですし、疑いなく一つの家族です。子供たちは、小学高学年と自我が確立した時点で韓国から日本に来させたので、大変な苦労をさせて申し訳ないと思っています。二人の子供は、突然日本の学校に入れさせられて、言葉も分からず大変なストレスを受けたに違いないのですが、差別の問題などは、私が知る限りありませんでした。学校の先生にとてもよくしてもらえましたし、妻も最初のうちは一緒に授業に出てくれたり、陰で支えてくれました。

今の若い世代、特に女性は、韓国の文化に魅力を感じている人が多いと思います。韓国の政治や歴史とは関係なしに、韓国の文化に魅力を感じているように思われます。私は今年で50歳になりますが、私の世代とは全く感じ方が異なっていると感じます。また男女間の意識の隔たりも大きいと思います。

幸いにも、今の日本の若い世代は、韓国の文化に概して好意的なので、子供たちが日本の生活に慣れるためには追い風だったのだと思います。今、子供たちは一人が大学生、もう一人が受験生です。将来は日本で働きたいと言っています。

コロナ禍の発生から一年以上となり、日本においてもようやくワクチン接種が始まろうとしていますが、終息の目途は立っていません。ただ、コロナ禍になって、よかったことの一つは、マスコミ報道でもネット空間でも、反日・嫌韓の言説が目立たなくなっていることです。コロナ禍で世界中、自由な往来が途絶えてしまいました。コロナ禍が去り、多くの韓国の皆様に青森に来て欲しいと願い、また、私たちも韓国の皆様にお会いできる日が早く来るように願っています。

2007年の韓日共助会修練会の主題講演で、尾崎風伍先生が、森 明の講義について述べています。その中で森 明が「キリスト教の根本は友情である」とし、次にキングという人の著書の一部を引き「永遠の初めより(三位一体の)神のうちに友情があった、父と子の関係は友情であった」と述べています。さらに「友情におけるお互いの関係は、支配・被支配の関係ではなく、人格的である」と述べています。

修練会のパネルディスカッションの発題者の一人、佐伯邦男さんが、発題の中で、かつて提岩(チェアム)教会を訪れた際、姜信(カンシンボム)範牧師に挨拶をするよう促され、徒の前で話したことに、一緒に行った運転手さんが感動し、教会に行くようになり、後に洗礼を受けたということを紹介されました。

数年前、姜 信範先生ご夫妻を青森にお招きする機会を与えられました。その際、弘前市内にお住まいの隠退牧師の方に案内を差し上げたところ、昔、提岩教会を訪れたことがあり、そこで姜先生のお話を聞き、召命を受けて牧師を志したと伺いました。

神の計らいは、人の知恵や願いを遥かに超えるものだということを感じるとともに、「友情におけるお互いの関係は、支配・被支配の関係ではなく、人格的である」ことを痛感させられました。

私が小笠原先生と韓国に行ったのは、これが最初で最後となりました。今、共助誌2008年4月号に掲載されている修練会の集合写真を見ていますが、天に召された先生方が多くいらっしゃいます。今は天におられる共助会の先輩方の信実な信仰を受け継ぎ、韓国と日本の人々が、互いに違いを認め、互いに尊重し合う、人格的な関係が築かれるよう、共に祈り、共に歩んで行くことができますように。そして、私たちが、キリストにあって真の友となりますように、切に祈るものです。(2021年2月23日)(日本基督教団 青森教会 伝道師)