歪んだ自由 光永 豊

私には熱い心、いわゆる、使命感やスピリットのようなものがありません。どこか心が冷めています。他者のために情熱を注ぐ人を見る時、どこからこんなに熱い想いが生まれるのだろうと、いつも不思議に思っています。何故、心が冷めているのか。無意識で起こっていることを、少し考えました。

私は子どもの頃から、何らかの制限を感じていました。家族関係なのか、小学生の頃に患ったてんかんか、それとも、自分で自分に制限を作っていたのか。思い返せば様々あります。私は片親だけがクリスチャンの家庭でしたが、倫理や道徳的な事柄を、安易に聖書や信仰に結び付けられ、まるで決まりごとのように、これはクリスチャンに相応しいとか、相応しくないとか、こうあるべき、という理想ばかりを押し付けられた意識が強くあります。倫理や道徳の強制、押し付けの大嫌いな私が怒りを露わにしても、結局怒りで返されるだけでした。目の前で十字架を見せられ、「引き下がれ、サタン」と言われることもありました。思い返すと、今でも怒りが込み上げます。こんな迷信に従ってたまるものか。自分は絶対に、こんな人間の願いには応えない。とことん願いを破り捨てながら生きようと、心に決めました。信仰という名のもとに、主体的な選択を奪われ続けた経験のある人なら、辛うじて私の気持ちが分かるかも知れません。一種の根深い不信感です。その底には、束縛されまいと抵抗する防衛本能、自分の領域を他者から侵食されることへの強い恐怖心があります。過去の記憶から拒絶反応が起こり、平静を保てなくなると、関係性を壊そうと冷めた言葉を他者に放ちます。それ故に、他者の気持ちをそぎ落としていると受け取られかねないような言動を、感じさせたことがあったかも知れません。解消されなければならないものがあるのだろうと思います。本当は、まだ分かりたくない、踏み込まれたくない、というところで留めておきたくて、それ以上、前に進む気持ちが起こらないのだということを、はっきりと示しておきます。他者を否定しているかのような誤解を与え、傷付けないための、私なりの意思表示です。

聖書は私にとって大切な指針ですが、言葉を生きることは簡単ではありません。もしもキリストが、あるべき理想的な姿に立つこと〟を私に求めるなら、私はついていけません。私は決断してもすぐに崩れる意志薄弱者であり、はっきりとした理想をもたないからです。いやむしろ、理想を壊したいとすら、願っているかも知れません。私が立っているのは、迷いと揺るぎだらけの土台です。決断ができないまま、今にも脆く崩れ去りそうな土台をはっきりと認識しながら、迷いと揺るぎに酔いしれています。それが私の現実であり、私の弱さです。ふと我に帰る時、考えます。私は、言葉を生きようとしているのだろうかと。

お世辞にも私は、他者と関わることがあまり得意ではありません。人が嫌いなわけではないし、人と話すことが嫌いなわけでもないのに、どうしても途中で気疲れしてしまう場面があります。私が人間関係を築く上で特に苦手な場面は、人から頼られる時や、人から依存される時、物事の判断を迫られる時、身の丈に合わない高いレベルの要求をされる時、私を求められる時です。私は関係性を築く時、引き受けておけば、関わっておけば、何かを貰えるのではないかという利己的な感情を無意識に抱いていました。どうしたら人から拾ってもらえるか、どうしたら人から可愛がってもらい、憐れんでもらえるか。自分の力不足を必死に埋めようとしていたから、そう考える他に選択肢がなく、誰かに切り開いてもらった道にタダ乗りするような生き方しかできませんでした。故に私は、人から頼まれることを、〝お買い得〟であるかのように錯覚し、自分が抱えきれないと自覚するまで、無責任に引き受けてしまいます。降って湧いた幸運だけを都合よく切り取り、自分の器の限界を顧みずに安請け合いし、抱えきれなくなると、崩壊してしまいます。そこでようやく、自分の本心に気付きます。ああ、結局、〝目先のご褒美〟にしか関心がなかったのだと。人間関係をコストパフォーマンスという物差しで測り、利己的な人間関係から、抜け出しきれていないのだと。利己的な生き方では関係性を保てないことを悟る時、他者との温度差を自覚し、関係性の重みに耐えきれなくなります。

かつて制限を受けていた自分は、いつか誰にも干渉されずに自由に生きてやろうと、心に決めていました。誰の期待にも応えず、束縛されず、ただ自分が生きたいように、心の赴くままに生きてやろうと。他者から負わされる期待は、私にとっては他者の言いなりにされる、恐怖でしかありません。恐れ故に対価を求め、対価によって言いなりの不安から身を守ろうとします。恐れ故に、反発や反抗だけで生きてしまったから、私の心には壊すための動機しかありませんでした。コネでも何でも、利用できるものは利用する。そんなことを繰り返しているうちに、いつしか自由を利己的な思考と区別することができなくなりました。私には、心から自由を共にしたい他者が、いないのです。

不思議なことですが、改めて日々を振り返ると、かつて願っていたことが現実になっています。特別に裕福ではなくとも、それなりに毎日の生活が成り立っています。私はひとりで生きる毎日を、とても心地良く感じています。帰る家があり、時間も、お金も、縛られず、人からとやかく言われることがありません。関係性の中でのストレスや煩わしさから解放されたいと、子どもの頃から望んでいた自由です。その自由は、もはや私の特権と化してしまいました。かつて弱い立場に置かれていたとしても、特権を手にした瞬間、弱い立場であったはずの過去を忘れます。出エジプト記で、奴隷の身分であったはずのイスラエルの民が、傲慢になり、神から離れていく姿を思い起こします。一度手に入れたものを手放すことは、容易ではありません。私は、ひとりでありながら、孤独に苦しむ他者の心が分かりません。私は、孤独が本当に分からないのでしょうか。それとも、どこかに置き忘れてしまったのでしょうか。どっぷりと浸かりきった利己的な自由を手放すことができなければ、心の底から他者との関係性を求められないかも知れません。もう少し、あともう少しだけ、好きなように楽しませて欲しい。他者への関心を鈍らせ、ひとりで生きることを楽しませてくれる娯楽が、後ろ髪を引きます。過去のように制限を受け、今ある自由が失われることを恐れています。ある時は近づき、またある時は遠ざかり、他者との距離を自分が最も心地良く居られるところで調節しているから、私は未だに関係性の中に入りきれないのです。孤独が分からない私は、ただ飽くことのない私だけの自由を求めて、生きてしまいました。

私が日々聖書を読んでいて、目に留まった人々の姿があります。

『心を動かされた人と、魂を突き動かされた人は皆、会見の幕屋の製作と、そのすべての作業や祭服のために、主への献納物を携えて来た。男も女も次々と、心から進んで献げる人は皆、襟飾り、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の祭具を携えてやって来た。彼らは皆、金を奉納物として主に差し出した。(中略)主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、男も女も、心から進んでそれらを携えて来た。イスラエルの人々は主への自発の献げ物として携えて来た。』(出エジプト記35章21―22・29節)

『信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。』(使徒言行録4章32―34節)

私がこれらの箇所から感じ取ったのは、人が、自発的に、進んで献げていく姿です。誰かに強制されてではなく、嫌々行動しているようにも感じられません。自由が私だけの所有物ではなく、関係性の中で描かれているようにも感じられます。他者からの束縛を恐れ、私だけの自由に留まろうとする私とは、あまりにも対照的です。果たして、このような人々の姿を、高い倫理観や道徳観、自己犠牲という程度の言葉で片付けられるだろうかと思います。私の感じる束縛と自由、そんな程度の狭い視野でしか考えられない自分が、あまりに貧しく思えるぐらいに、文脈の隙間から人々の喜びが溢れ出てきます。

私はまだ、他者と共に生きる自由や喜びを知りません。他者と自由を共有したいという願いがあるのか、ないのか、分かり

ません。人に頼り、拾われ、今がある人間なのに、人から頼られる側になると拒み続ける自分がいます。私の生き様は、自分の惨めさをアピールして人を酔わせ、搾取する、単なる詐欺師だったのでしょうか。私だけの自由を保持したまま、今も関係性の中に紛れ込んでいます。関わっているのか、いないのか、分からないような中途半端な関わり方は、時に他者を迷わせ、傷付けます。かつて抱いていた利己的な思考では、関係性を生きられないことを知ってしまいました。私が関係性を生きることは、義務感ではできません。歪みがあります。時間がかかります。与えられた自由を、与えられるままに独占する、我が所有物とするのか。それとも、主が与えられた他者と親しく共有する自由を生きようとするのか。その問いの先に、主の望まれる平和が示されている気がしてなりません。どこから一歩を踏み出せるのか、束縛への恐怖をどう処理したら良いのか、今なお分からないまま、祈りを込めて問いを残します。

(日本ホーリネス教団 井土ヶ谷キリスト教会員・東京神学大学職員)